第三章  割れた水風船


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「振られたな」
 羽衣を連れた若菜ちゃんが去っていって少し。ラムネを飲んでいた基が言った。
「うん」
「落ちてる?」
「ちょっとね」
 りんご飴を齧って小さく頷く。しゃり、とりんごが甘酸っぱさを残して口の中に溶けていく。
「基は聡いと思うよ、あたし。羽衣の言い分は理解できる。でもさ、あたし別にそこまで人の気持ちに敏感にはなれないよ。布だけど」
 基が聡いのは、判る。それが少し気まずくなる気持ちも、理解は出来る。あの雷のときに確かに感じた。そしてさっきの羽衣とのやり取りは、あの雷のときに良く似てる。基は確かに聡いと思う。でも羽衣は、あたしにも同じことを言った。あたしは別に、他人の気持ちを基みたいにすぐに汲み取ることは出来ない。自分の言葉で相手がどう出るかを考えてしまう癖はあるけど、それとは違う。あたしは羽衣を見て、羽衣の気持ちに確かに同調してた。
 それはたぶん――
「似てるんじゃないか?」
 ほら、基は聡い。
 あたしは何も答えず、もう一口りんご飴を齧る。甘い飴と、少しの酸味を交えたりんご。
 たぶん、そうなのだろう。少し似ている部分があるのかもしれない。何がどうとは自分でも判らないけど、羽衣の気持ちに敏感になる程度には、あたしと羽衣は似ているのかも知れない。
 ……ううん。うそ。判らないわけじゃない。どこが似ているのか、判る。たぶん単純に、あたしも羽衣も、同じくらい意地っ張りで強がりで、人に弱みを見せられない性格してるんだ。
「布と一緒にしないでよ」
 小さく口にすると、基がぽんとこちらの頭を軽く叩いた。それから立ち上がると、空になったラムネの瓶を傍のテントへ返しに行った。少しして、戻ってくる。羽衣と若菜ちゃんはまだ戻ってきていない。若菜ちゃんも若菜ちゃんなりに、羽衣と何か話をしているのかもしれない。
「あかね」
 基が腕を組んでこちらを見下ろしている。
「気晴らし、行くか」

 ◇

 基に連れられて、コタマ山の中を進んでいく。祭りの音が遠ざかるにつれて、虫の音と風音と、そして近くを流れる川の水音が辺りを包むように大きくなっていく。道の両端には提灯がぶら下げてあって、薄ぼんやりとした橙の光が、それでも確かに闇を裂いていた。道は上り階段になっている。この先には、嵯孤神社があるらしい。お祭りの最後には、皆がお参りに行く場所だと基は言った。ただ、今は時間がずれているせいで人はあたしと基しかいない。
 浴衣だと、足元も普段と違う。あたしの小さな歩幅に合わせて、基もゆっくり歩いてくれている。ほんの僅か前にある基の背中についていく。
「悪かったな」
 ふいに基が小さく呟いた。からんと下駄を鳴らしてあたしは少し歩を速めた。基の隣に並ぶ。
「何が?」
「誘っただろ?」
 問いかけに問いかけで答えられ、あたしは曖昧に頷いた。誘った、が何を指すのかも曖昧だから、それ以上どうしようもない。
「なのに結局、若菜も一緒だったな、と思って」
 相変わらず正面を向いたまま告げられるぶっきらぼうな口調の言葉に、あたしは一瞬何を言われているのか判らなかった。
 たぶん……一昨日の、ことだ。
 一緒に行くかって聞かれたけど。あたしは当然若菜ちゃんも羽衣も一緒だと思っていたし、謝られるなんて全く考えてもいなかった。でも基がこういうのって、それってつまり――
「ふ、ふたりきりで来るつもりだった、の?」
「? 嫌だったか?」
「べっ、別に嫌じゃないけどさっ」
 慌てて首を振ると、基はきょとんとした表情を笑みに変えた。ぽん、とまたあたしの頭を軽く撫でるように叩く。
「ならいいや」
 言って、何事もなかったかのようにマイペースで歩いていく。
 ちょ……っと待ってよ。何それ、どういう意味。ああもう、ただでさえ羽衣のことで頭がぐるぐるしているのに何で基まで頭ぐるぐるさせること言うかなぁ……!
「ちょっと待ってよっ」
 慌てて基の後を追いかける。基が足を止めて振り返る。そして――
 ふっ、とあたしたちの間を淡い光が横切った。
「え……?」
 思わずまた足が止まった。あたしたちの間を、きらきらっと星が瞬くような光が浮遊して通り過ぎる。淡い緑色の光だ。これって、もしかして。
「ホタル……?」
「うん」
 基が頷いてそっと手を伸ばした。光を、器用にキャッチする。来い、と言うふうに軽く顎を引いてきた。近寄ると、基は椀型にした手をそっと開いた。淡い光が、夜の中で明滅している。
「うわ……」
「ヘイケボタルだな」
「すごい……はじめて見た」
「へぇ?」
 そっと基がホタルを放つ。闇の中、淡い光は明滅しながら飛んでいく。顔をめぐらせて見ると、淡い光があちこちに、そっと瞬いているのが見えた。
「すごいね。いっぱいいる」
「ゲンジボタルなら、もうちょい密集して見れるんだけどな」
「違うの?」
「ヘイケボタルは発生時期長いから、その分数もばらける。ゲンジボタルは時期短い分、一気に光るから、これの比じゃない」
 ホタルはホタルだと思ってた。種類があるのは判るけど、そんな風に違うものなんだ。
「今はその、ゲンジボタルは見れないの?」
「時期が違う。五月から六月後半かな、それくらいじゃないと」
「残念」
「見に来ればいい」
 あっさり言うと基はまた歩き出した。それってまた来ていいってことなんだろうか。夏休みが終わって帰ってしまっても、またこの島に来ていいって、そう言ってくれてるんだろうか。
 心臓が、またどきどきいっている。それでも、基が先に行ってしまうのがなんとなく淋しくて、あたしは手を伸ばしてそっと基の浴衣の裾を掴んだ。
「あかね?」
 基が問いかけてくるが、なんでもないと軽く首を振る。基は納得したのかしてないのか、歩くスピードを少し遅くするだけで、それ以上何も言ってこなかった。
 提灯の明かりと、満月には少し足りない月の光。それから、いくつものヘイケボタルの明滅。淡い光だけで浮かび上がる夜の神社への参道を、基と一緒に歩いていく。時折、左手に持ったままのりんご飴を齧って。
 その、日常とは少し違うような空気が、あたしの中の何かをずらしてしまったのかもしれない。気付くと、あたしは泣き言みたいな恥ずかしいことを口に出していた。
「火垂るの墓」
「ん?」
「知ってる?」
「ジブリのだろ? 一回、学校で観た」
 うん、とあたしは頷いた。いくつも光るヘイケボタルを見ながら、ゆっくり口を開く。
「あたしあれ、苦手なんだ」
「内容、きついから?」
「ううん。それもあるんだけどさ」
 どうして基にそんな話を振ってしまったのかは、自分でも判らない。ただ、なんだか言いたくて。基の浴衣の裾を握る手に、少しだけ力が篭る。心臓が、きゅうっと縮まる気がした。
「もっとずっとちっちゃい時にね。もう作品がなんだったか忘れちゃったんだけど、家でレンタルしてきたアニメをね、家族で観たの」
「火垂るの墓じゃなくて?」
「うん。別のだったと思う」
 まだ本当に小さいときのことだ。四つか、五つか。物心ついて間もない頃の話。それなのに、ずっと心のどこかで張り付いている記憶。
「それ観たとき、あたし泣いちゃったんだよね。何か悲しくて」
「うん」
「そしたら、母さんたちがさ」
 声が少し、上ずった。基は気付かないふりをしてくれたのか、ただ前を見てゆっくり歩いているだけだ。嵯孤神社が見えてきた。境内にも、明かりがほんのり灯っている。その明かりを見ながら、小さく息を吐く。
 本当は、あんまり人に言いたいようなことじゃない。だけど、何故か口に出してしまった。言わないで途中で言葉を切るのはあまりに不誠実な気がして、そしてたぶん心も晴れない気がして、あたしはゆっくり、落ち着けと心で唱えながら言葉を続けた。
「母さんたちがさ、言ったんだよね。『この子泣いてるよ』って」
「……そっか」
 基が頷く。あたしも軽く頷いた。一口りんご飴を齧る。硬い飴が口内でちくりと刺さった。
「別に、母さんたちもからかったつもりはないんだと思う。ただたぶん、単純に、アニメ観て泣いた子どもに、泣いたんだね、って言っただけなんだと思うんだ。――今はね」
「当時は違った?」
「うん。悔しかった」
 基が小さく苦笑して、ぽんとあたしの頭をまた叩く。それで、張り詰めていた心が少しだけ緩む。小さく、あたしは笑ってみせた。
「あたしね、意外と武勇伝いっぱいあるわけ。子どもの頃からさ、小児検診とかで注射されても、絶対人前で泣いたりしない子どもだったらしいよ」
「そんな気はするよ」
「だから、何か親とはいえ人から、泣いてること指摘されるのがすっごく悔しかったらしいの」
 ヒネたガキだったんだと自分でも思う。しゃり、とりんごを噛んで小さく笑った。
 境内に入った。提灯がぼんやりと光っている。小さな小さな神社だ。賽銭箱の前で、あたしたちは足を止めた。祭りのざわめきが遠い。
「それでさ、あたしそれ以降、ホントに人前で泣かない子どもになっていったのね」
「うん」
「そんなときにさ、基と一緒。あたしも小学校で観たんだ。火垂るの墓。もちろん、あたしは泣かなかった。またバカにされるんじゃないかって、思ってね。そしたらさ」
 一度、言葉を切る。ヘイケボタルの淡い光を目で追いながら、あたしは続けた。
「クラスの中でも、いつも中心になって男子とか泣かしちゃうような女の子がね、泣いてたの」
 今でも思い出せる。いつも女子の先頭に立って男子と喧嘩をやらかしていた美咲ちゃん。あの子が、泣いていた。鑑賞が終わってカーテンがあけられた体育館で、めそめそ、泣いていた。
「びっくりしたよ。泣いちゃうんだって思った。いつもあんなにかっこいいのに泣いちゃうんだって。あたしも割とその子と一緒につるんでる、女子の中では中心グループにいたんだけど」
「うん」
「そしたらさ、いつも喧嘩してる男子が泣いてるその子を慰めたわけ。いつもやられてるのに、男って現金だなぁって思った。現金って言葉は知らなかったけど、そんな風には思ったわけ」
 軽く笑ってみせる。けれど基は簡単には笑わなかった。静かに、あたしを見つめてきている。その視線だけを、隣から感じる。
「でも、そのとき男子が、ふってあたしを見たの。それで、言ったんだ。『こいつでも泣いてるのに、お前は何にも感じないわけ? 可愛くないな』――って」
 少し、目を閉じる。口元に、知らずに苦笑が浮かんだ。馬鹿馬鹿しい、遠い思い出。
「カチンってきたね。そんなのあたしの勝手だろ、ってそのときは上履き投げたんだっけな」
「やりすぎ」
「あたしもそう思う」
 基の言葉に軽く笑う。目を開けて、基を見上げた。基は淡い闇の中で、静かに微笑んでいた。
「どっちだよって話よ。泣いていいのか駄目なのか、当時のあたしのちっぽけな頭じゃ全然判んなくなってさ、可愛くないならそれでいいですよって捻くれて、結局ますます泣かなくなったの。だからあたし、卒業式とかでも泣いたことないんだよね」
 泣かない子は強いって、よく言われる。あたしも、ある意味ではそうなんだと思うけど、でもある意味では逆なんだと思う。泣ける子は、たぶん、あたしなんかより強い。人前で泣くってことは、泣かないことよりずっと強いと思う。あたしには、出来なかった。今も、出来ない。
 雷がいくら怖くても、人に無理してるって言われても、溺れて死にそうになって、助けられて安堵しても、誰かとの別れがつらくても、そこに誰かがいる限り、ひとりじゃない限り、涙腺はぎりぎりまで締め付けてしまう。泣くことなんて出来なかった。
 そしてたぶん……羽衣も、出来ないんだろう。いつだって強がって、笑ってる。
 ――どうしてそんな話を、今、基にしたのかは判らない。自分でも、理解できない。泣けないのは泣けないけど、こんな話をすることだって悔しいくらい恥ずかしいことだと思う。だけど、判ってるけど、なんだか基には話しておきたくなったんだ。
 基の手が、すっとあたしの頭を撫でた。
「意地っ張り」
「言われ慣れてますー」
 べっと小さく舌を出すと、基はまた軽く笑った。
 懐から財布を出して、五円玉を一枚あたしに渡してくる。受け取って、二人で揃って賽銭箱にそれを投げた。がらんがらんと鈴を鳴らして、手を合わす。いつもは、無駄にいっぱいお願い事とかしちゃうけど、今は頭の中がふわふわしてて、何も考えられなかった。
 お参りを済ませて、またゆっくり歩き出す。ヘイケボタルの海を割って、歩き出す。
 しばらくはお互い無言だった。少ししてから、ふいに基が口を開いた。
「あかね。泣き方、教えてやろうか」


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