第三章  割れた水風船


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 唐突な言葉に、あたしは思わず足を止めた。基も足を止めて、あたしを見て微笑った。
「俺とか若菜とか、あと羽衣とか。気心知れてる奴の前では、気を張らないで肩の力抜くこと」
 ――さあっと、顔に血が上るのが判った。
 慌てて、赤くなったと思う顔を伏せる。淡い光の中で、浴衣の朝顔があでやかに咲いていた。基は俯いたあたしに何を思ったのか、またもぽんっと、今度は軽く肩に手を置いてきた。
「俺らの前なら、大丈夫だから」
 ……やばい。どうしよう。ドキドキしてる。こんな台詞、何であっさり吐けちゃうんだろう。あたし全く免疫ないし、どうしたらいいか判んないし、でもどうしよう。やばい。
 めちゃくちゃ……嬉しい。
「……あかね?」
「なんでもないっ!」
 不可解そうな基に慌てて叫んで走り出す。今この顔はちょっと恥ずかしすぎて見せられない。
 そのとき――ずるりっ、と足元が滑った。
「ひゃっ……!?」
 絞り出るみたいな悲鳴が漏れた。しまった、と思ったのはほんの一瞬。慣れない浴衣に下駄で、こんな視界の悪い夜、階段を駆けるのは、単純にバカのやることだ。
 盛大にすっ転びかけたあたしの腕を――ぐっと、基の手が掴んだ。同時に、カチンっ……と音を立てて、あたしの手にあったりんご飴は地に落ちた。
「あっ……ぶねぇな。何やってんだよ」
「ご、ごめん……」
 基に引き上げられ、あたしは小さく息を吐いた。恥ずかしいのを誤魔化そうとしてさらに恥ずかしい目に遭うのは、何と言うか、ひたすらバカなんじゃないだろうか、あたしって……。
 基は少し睨むような目でこちらを見てきた。視線が痛くて、また俯いてしまう。頭の上で、ため息が聞こえた。腕にかかっていた手が放される。基は落ちたりんご飴を拾って、近くのゴミ箱に投げ捨てた。割れた赤い飴の破片だけが、あたしが落ちかけた事実を石段に残している。
「お前はもう……溺れるわ落ちるわ気張ってばっかだわ……」
「ごめんってば」
 呻くような言葉に小さく返すと、基の手がまたあたしの手に触れた。今度は、腕じゃない。無造作に腕を掴んでいるんじゃなくて――手のひらに。
 あたしの手を、握ってる。
「……もとい?」
「危なっかしくて見てられん」
 それだけを言って、基は手を放そうとはせずそのまま歩き出した。あたしも、引っ張られる形でついていく。
 ……ちょっと、何、これ。やばい。どうしよう。恥ずかしすぎて死にそう。
 心臓がありえないくらいどきどきしてる。顔もおかしいくらい熱い。それなのに基の手の強さが心地良い。それがまた恥ずかしさを倍増させて、もう何がなんだか判らない。
 でも、振り払うなんて出来やしない。
 結局何も言えなくなって、基も何も言わなくって、あたしたちは無言のまま広場までの道を戻っていく。時折横切るヘイケボタルの明滅した光と、木々の間を縫って届いてくる月明かりと、道の端にかけられた提灯のほんのりとした明かり。からんからんと、二人分の下駄の音がなる。虫の音と川のせせらぎと風の音が、少しずつお祭りのざわめきに呑まれていく。あたしたちはその中を、ゆっくり、ゆっくり、歩いていく。
 ずっと続けばいいのに。ふと、思う。ずっと続けばいいのに。こんな風にのんびりした時間がずっと続けばいいのに、でも、夏休みは確実に減っていってる。
 広場が見えてきたところだった。基の手にきゅと力が篭った。驚いて見上げると、やわらかな微笑みがそこにあった。
「もと……い?」
 その時、だった。
「――おにいちゃん!」
 若菜ちゃんの声が飛び込んできた。同時に、小さな体が走ってきて、基に抱きつく。
「若菜……?」
 基がぎょっとしたように呟いた。あたしも驚いて、小さな若菜ちゃんの姿を見つめた。
「ど、どうしたの、若菜ちゃん。何そんなに慌てて」
「あかねちゃん、おにいちゃん、どうしよう、どうしようっ」
「若菜ちゃん?」
 若菜ちゃんは両手を振り回して、途切れ途切れの言葉を捲し立てる。その度に、彼女の手首からぶら下がった水風船がばちゃばちゃ音を立てていた。
「若菜ちゃん、どしたの。落ち着いて」
「だって、だってだって!」
「若菜ちゃん、大丈夫だから」
 若菜ちゃんの小さな肩に手をかけて――そこで、あたしはようやっと気付いた。若菜ちゃんの肩にかかっていた羽衣がない。
「若菜ちゃん、羽衣は!?」
 羽衣がいない。それが、なんだかひどく嫌な予感を呼んでいた。
「羽衣が、羽衣がね」
 しゃくりあげながら話し出した若菜ちゃんの言葉に、あたしは基を振り仰ぐ。困ったような、不機嫌そうな顔のまま、基は小さく首を振った。
「あ、あのね、あのね。――青ちゃんが、青ちゃんが羽衣を連れてっちゃったの!」
 唐突な言葉に、あたしは思わずぽかんと口をあけてしまった。
「青ちゃんが……はい?」
「羽衣を連れてっちゃったの!」
 ……ええと。よく判らない。青ちゃんが羽衣を連れていったって、羽衣が話を聞きたかったからとかじゃないはずだ。この若菜ちゃんのパニック振りからすると。
「どう思う?」
 隣に立つ基を見上げてみる。基は不機嫌そうに眉を寄せたまま、小さく首を振った。
 もう一度首を捻って、若菜ちゃんと向き合う。
「よりによって青太が原因かよ……」
 ぼそりと隣で呟く声が聞こえた。何か微妙に不機嫌そうだけど、今はそれどころじゃない。
「若菜ちゃん。青ちゃんが羽衣を連れてどこか行っちゃったってこと?」
「うん。羽衣、すっごい、すっごい嫌がってたんだよ。でも、でもね」
 水風船を振り回しながら、若菜ちゃんが一生懸命説明してくれる。ただ、要領は得ない。普通に、青ちゃんが羽衣を連れて行っただけなら、若菜ちゃんはこんなに取り乱すはずがない。
 胸の奥がちくちくする。不安感だ。何かが違うって、自分の中で警鐘が鳴っている気がした。
「基……どう、思う?」
 問いかけると、基はさらに渋面を深くした。
「知らん」
「知らんって……そりゃそうだけど。なんか変だよ。あたし、羽衣が心配。青ちゃんも」
 基は、難しい顔をしたまま黙っていた。
「基」基の浴衣の袖を掴んでみる。けど、基はそれをすっと外した。
 ……なん、だろう。なんか、態度がちょっと冷たい気がして、胸が少し、痛い。
「基?」
「探せばいいんだろ」
 冷たく吐き捨てるように言って、基が歩き出す。背中が、冷たい。何で。気のせいじゃないよね。冷たいよね。さっきはだって、待ってくれた。手だって、繋いでくれたのに。
 青ちゃんのことが、羽衣のことが心配なだけなら、あんな態度、とらないよね。
「あかねちゃん」
 弱々しい呼び声に、あたしはぎゅっと唇を噛んだ。笑顔を作って、若菜ちゃんを見下ろす。
「大丈夫。とりあえず一緒に探そう。すぐ見つかるよ」
「……うん」
 基の行った方を見る。もう背中は、遠くなりかけていた。
 淋しい。なんか淋しくて悔しい。よく判んないけどあんな態度とらなくたっていいじゃない。
「も……基!」
 思わず叫ぶと、基は足を止めた。振り返っては来なかった。背中だけで、言葉を投げてくる。
「俺はこっちのほう探すから、お前らそっち探せよ」
 ……合理的、ではある。でも。でも。
 胸の奥に黒いものが膨れ上がる。悔しくて、淋しくて、どうしようもなく腹が立つ。
「……若菜ちゃん、ごめん。それ、貸して」
「え? あ、うん……」
 若菜ちゃんの手にぶら下がっていた水風船を受け取る。イライラを、懇親の力を篭めて振り上げた。基の背中に投げつける。
「いっ」
 基の背中に当たった水風船は、地面に落ちてばちゃんと弾けた。
 振り返った不機嫌そうな顔に、あたしは思いっきり怒鳴っていた。
「基のバカ!」
 言うと同時に、若菜ちゃんの手を握って駆け出していた。
 広場の砂は、割れた水風船の残骸を残して、一部分だけ色を濃くしていた。
 なんだかそれが、妙に網膜に焼きついて離れなかった。


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