第四章  想いことのは


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 水着を着て、あたしたちは再び三人で集まった。基が「時間が惜しい」と言ったので、珍しく自転車なんかを使った。あたしは桔梗亭のを借りて、基と若菜ちゃんは二人乗りだ。ペダルを踏んで、公道を走り抜ける。いつもはそれなりに時間が掛かる道も、自転車はさすがに早い。嵯孤海岸を通り過ぎて、岩場の多い海岸線まで出る。そこで、自転車を降りた。
「この辺、あんま来ちゃいけないって言ってなかった?」
「普段はな」
 基が軽く頷く。泳ぐのに、このあたりは適さないからと最初に言われた場所だ。岩がごろごろしていて、ちょっと離れた場所を見上げると海岸線がまるで崖のようになっている。
「あの上って?」
「コタマ山の端の辺りだと思う。行ったことはない。危ないし」
「あんな崖みたいになってたんだ」
「行くなよ。お前絶対落ちそう」
「行きません。……あんなとこから落ちたら普通に死ぬって」
 防波堤を乗り越えて、岩場に降り立つ。不安定な足場に気をつけながら、ゆっくり進んだ。このあたりは昔から『フネ隠し』と呼ばれているらしい。海の先にも、いくつもの岩がごろごろしていて――なんとなく、名前の由来は判る気がしなくもない。
 最初に基が海に浸かった。いつも思うけど、意外と身体もしっかりしてる。着やせするタイプなんだろう。それから若菜ちゃんが飛び込んで最後にあたし。この島に来る前に買ったセパレートタイプの水着はもうすっかり身体に馴染んでいて、日焼けの跡もくっきり刻まれている。
 基はすいすいと冷たい海水を掻き分けて、沖へ、沖へと進んでいく。随分、進んだ頃だ。いいかげん疲れてきたあたしたちを振り返って、基が近くの岩盤につかまって浮いた。それはフネ隠しの岩のひとつのようで、かなり大きかった。ゴーグルを外した基が、ふうっと息を吐く。
「こっから潜る。見失うなよ」
 言って、基が手を差し出してきた。一瞬その水にふやけ始めた手を見下ろして、それから基の顔を見上げてしまう。ちょっと拗ねたような表情を浮かべていた。
「嫌なのか?」
「えっ。や、やじゃないけど、さぁ」
「だったら掴まれ。途中で見失ったら、海面に上がれなくなることもある」
「しっかり掴まらせて頂きます」
 そんな恐怖体験はごめんだ。ゴーグルをかけなおし、若菜ちゃんともしっかり手を繋いで、あたしたちはゆっくり大きく息を吸った。
 基の合図で、三人同時に水に潜る。ごぼりと水の粘膜が耳の奥で音を立てた。すぐに基が水を蹴った。手を握り合ったまま、深く潜っていく。あたしと若菜ちゃんもついていった。
 透明度の高い海中で、こぽこぽとした小さな泡がいくつも上がっていく。きらきらと、太陽が揺れていた。鼻の奥がつんと痛んできた。それでも前を行く基は、下へ、下へ、潜っていく。いいかげん少し息が苦しくなってきた。でも、基の手を離さない限りは、きっと大丈夫――
 そう、心の中で唱えた瞬間。
「――はあっ!」
 海面に出た。さっきとは違う場所だ。
 思いっきり空気を吸い込みながらゴーグルを外す。視界が明るい。傍の岩に手をついて身体を休めた。基も若菜ちゃんも同じようにしている。
「ここは?」
「入り江……って言っていいのかどうか。たぶん岩のせいで周りから見えないようになってるんだろうけど、一箇所だけ、岩削れてて通れるようになってるんだ」
 基が説明しながら泳ぎだした。慌ててついていく。
 基の言うとおり、周りはほとんど岩で覆われていて狭い場所だ。その中でも岩がぼこぼこ突き出してるもんだから、気をつけて進まないと肌を切るくらいはしそうだ。
 基は少し進むと、岩場に手をついて身体を持ち上げた。上がれるようになっている。あたしと若菜ちゃんも続いて上がった。そこで、息を呑んだ。ただの岩だと思っていたら、大きな穴がぽっこり口を開いている。――洞窟だ。驚いているあたしたちを一瞥して、基はゆっくり歩き出した。慌ててついていく。
「基、これって?」
「だから、心当たり。子どもの頃、青太が一度だけ連れて来てくれたことがあるんだ。場所、覚えてて良かった」
「青ちゃーん!」
 若菜ちゃんの叫び声が木霊した。返事はない。三人で顔を見合わせる。いない、のだろうか。手がかりにはならないのだろうか。落ち込みそうになるあたしの手を、基がまた握ってくれた。
「奥、行こう」
 洞窟は狭い。ただ、基でも立っていられる程度の高さはある。歩きながら基が口を開いた。
「俺が当時連れて来てもらったのは、その海面まで。洞窟の中には青太だけが入っていった。なんでも、都築だけしか入っちゃいけない場所だとかで。さっき青太ん家で聞き出すまで俺も忘れてたんだけど」
「都築だけが?」
「気になるだろ」
 こくん、と頷いた。それって、あたしが欲していた情報そのものだ。ゆっくり、歩いていく。すこし穴は上向きなのか、坂になっている。といっても、洞窟はそんなに奥まで続いていなかった。すぐに突き当たりにぶつかる。突き当たりで、基は顔を上げた。
 洞窟の天井から一筋の光が射している。小さな穴が開いているらしい。その光の少し下――基の頭より少し上くらいに、岩盤を削って収めたような、祭壇か、祠か。そんなものがあった。
「お兄ちゃん、あれ……?」
 若菜ちゃんが、一生懸命見上げながら呟く。基は無言で頷いた後、そっと手を伸ばした。
 小さいけど、丁寧に作られている。ただ、なんとなく黒く焼けたようになっていた。理由を考えるより早く、観音開きの扉を開いて、基は中に手を入れた。そして――
 七色の光が、基の手の中に滑り落ちた。
「羽衣!」
 あたしと若菜ちゃんは思わず同時に叫んでいた。少しほっとしたように基が息を吐いて、手の中のそれをあたしたちに放り投げる。いつもなら、そこで羽衣はひらりと舞ってあたしか若菜ちゃんかの肩に乗るなり空中に止まるなりする。けれど。
 羽衣はそのまま、ふぁさりと地面に落ちた。
「へ……?」
 そうなるとは思ってなかった。一瞬ぽかんと見下ろして、慌てて羽衣の周りにしゃがみこむ。
「羽衣? ちょっとどうしたの。せっかく迎えに来たんだから、何拗ねてんのよ」
「羽衣ー? 大丈夫? 痛くない?」
「こら、羽衣」
 あたしたちの呼びかけに、けれど羽衣は全く何の反応も示さなかった。ただじっと地面に広がったまま、喋りもせず、動きもせず――本当に、ただの布みたいに、そこにあるだけだった。
「羽衣……?」
 しばらく何度か呼びかけて、叩いたり突付いたりしてみて、でも結局羽衣は布のふりをしているんじゃなくて、本当に、純粋に、喋りもしない動きもしないのだとようやく気付いて。
 あたしたちはただ呆然と、羽衣を見下ろすことしか出来なかった。
「なんで……?」
「判らん」
 基は険しい表情で首を左右に振り、落ちていた羽衣をそっと抱え上げた。それでも羽衣はくたりと――本当にただの布と同じようにくたりとして、基はさらに顔を険しくさせた。そのまま、あたしの腕に羽衣を巻きつける。
「とりあえず帰ろう。青太もいないし、ここにいても仕方ない」

 ◇

 羽衣を連れて桔梗亭に戻ってきた。基と若菜ちゃんは家に帰っている。ハナの散歩もしなきゃいけないって言っていたし、シャワーを浴びてごはんを食べて、それでも羽衣の様子が変わらなかったらもう一度落ち合うことになっていた。青ちゃんがいないことに対しては、何の解決も出来なかった。羽衣が喋らない理由は判らない。ただ、不安感だけが募っていく。少しでも動いていないとその不安感に押しつぶされそうだった。じぃじも大島さんも今は一度帰って来ているけど、山のほうにも青ちゃんはいなかったらしい。夜にもう一度、今度は御木島のほうからも応援が来て探すことになっている、らしい。羽衣は帰って来た。でも、事態はあんまり進展していないようにしか思えない。
 部屋の端にある机。羽衣が、そこに乗っている。
「羽衣」
 今日何度目かになる呼びかけ。けど、その回数と同じだけ羽衣は沈黙を保っていた。そしてその回数のたび、胸の奥がちくりとする。哀しくて、淋しくて、いやになる。
 西に傾いた太陽が一筋部屋にオレンジ色の光を射し込んで来ている。そのオレンジに照らされながら、羽衣はきらきらと七色に光った。それなのに、いつもみたいに喋りかけても来ない。
 羽衣をそっと持ち上げた。頬に触れさせる。つるりとして肌触りがいい。変なの。ちょっとだけ、そう思う。喋らない羽衣が。その喋らない羽衣を抱いていることが。妙におかしくて、少しだけ笑えて、それ以上にやっぱり淋しい。
 羽衣に、話したいことがいっぱいあった。大体どうして、青ちゃんと一緒にいたはずの羽衣だけがあの場所にいたんだろう。いっぱい心配したんだよって伝えたら、羽衣ならなんていうだろう。どうせ『サルがおかしなこと考えるのね』とでも言って笑うのかもしれないけど、だったらそれでいいから声が聞きたかった。そんであたしは「布に言われたくない」って言い返して、羽衣は『黙りなさい尾のないサル』とか言っちゃって、いつもみたいにくだらない口喧嘩とかになっちゃって、苦笑しながら基が間に入る。それでいい。それでいいから、喋って欲しい。聞いて欲しい。
「羽衣」
 顔が熱くなる。抱きしめて、妙に淋しくて、あたしは喉を詰まらせる。その時、だった。
 ――どんどんっ!
 階下から、激しく戸を叩く音が聞こえてきた。思わず羽衣を置いて自室の戸を開ける。もう一度、戸を叩く音。玄関だ。
「あかねー! 悪いんだけど、出てくれないかい? 揚げ物やってて手が離せなくてね」
 ばぁばが下から叫んできた。今日の晩御飯は天ぷらかから揚げかってとこらしい。あたしを呼ぶってことは、じぃじは別の用事でもしてるのかな。「はぁい」と叫び返して階段を下りた。
 民宿としての表玄関は、夜以外いつも開けられている。今戸を叩かれているのは、裏口のほうだ。この島のほとんどの家は鍵を閉めるという習慣を持ってないけれど、そこはさすがに民宿。金銭管理や客帳簿なんかの物を扱っている部屋は表側から入れない――ようはいつも鍵がかかっている――場所にあって、そこへ続く裏口だけは戸締りがしっかりされてある。
 ただ、ちょっと不思議ではある。ほとんどの人はこっち側が閉じられているのを知っているから、表から顔を出す。裏から来るなんてよっぽどの変わり者か、この桔梗亭の構造を知らない人くらいだ。――この島の人間が知らないと言うのも、おかしな話だけど。
「はいはいはーい。今開けますー」
 それでも戸を叩く音がやまないので、あたしはぱたぱたと廊下を走っていった。チェーンを外して、鍵を外して、引き戸を開ける。そこで――
 あたしは、目を見開いた。
 基より少し低身長。日に焼けた肌。少し茶色い髪の毛。テキ屋の兄ちゃんみたいな格好――
 昨日のままだった。昨日の姿のまま、ただ、何かが違った。
 違う。それは、少しだけ、でも確実に大きく、違う。何かは、すぐには判らなかった。ただ、あたしは驚いて、思わず叫び声を上げていた。
「青ちゃん……!?」
 そこにいたのは青ちゃん――都築青太、だったんだ。


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