第五章  古からの恋文


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 基に導かれて海から上がって、再びコタマ山へと駆け上がっていく。その間、あたしは一度も基の手を離さなかった。右手で羽衣の端を掴んで左手で基の手を握っていた。息が上がって、足元が覚束なくて、靴下だけの足裏には山道が辛くても、ただ基の手だけを頼りに足を進めた。基が傍にいてくれる。羽衣が傍にいてくれる。それは何より力強い。
 上がっていく途中で、若菜ちゃんと逢った。めちゃめちゃ心配している面持ちで駆け寄ってきた彼女には悪いとは思ったけど、ちょっとだけ待っていてと言い残した。じぃじや大島さんにも伝えておいてと言ったら、なんだか少し泣きそうな顔で、でも若菜ちゃんはしっかり頷いてくれた。ごめんねとありがとうを呟いて、あたしたちはまた山を上がる。羽衣が道案内をしてくれたから、暗い山の中でもあたしたちは迷わずにすんだ。
 そして、視界が開けた。あの塚があった。その前に座り込むひとつの背中――
「居ぬのか」
 声が、聞こえた。掠れた、哀しげな声だ。あたしと基は思わず足を止めていた。
「もう居ぬのか?」
 泣き出しそうな震える声。青ちゃん――ううん、イサゴが、呟いている。
 気付いたんだ。その様子にあたしはそう確信した。イサゴ、気付いたんだ。今の自分が、術によって蘇った記憶でしかないことを。そして、時代がもう随分と経ったことを。それはつまり、天女が――イサゴの愛したツクヨが、もうこの世には居ないことを。
 気付いて、しまったんだろう。
 蘇ったそのときはツクヨと共にいたときの記憶だけだったのに、今は、愛しい人が傍にいないことに気づいてしまったんだ。
 ふいに、イサゴの背中がびくりと跳ねた。立ち上がる。そしてゆっくり、振り向いてきた。憔悴しきった面持ちに、苛立ちが差す。
「返しにきたか」
 ツクヨはいない。イサゴは気付いているのに羽衣を求める。それは……どんな些細な願いの欠片でも、ツクヨを求めているからだろうか。
「違うよ」
 羽衣を握り締めて、あたしは首を振った。ゆっくり基の手を解いて、それから肩の羽衣を外した。両手で羽衣を抱きしめる。ひやりとした布の感触に、けれど暖かさを感じた気がした。
 基は何も言わずあたしを見つめてくれている。その視線だけを感じる。あたしは羽衣を抱いたまま、ゆっくり一歩、イサゴに近寄った。基も一緒に傍に寄った。
「あんたに、ツクヨからの伝言を届けに来たの。そこに」
 指をすっと向ける。イサゴの後ろにある天女塚に刻まれていた言葉。
「刻まれているものを、あなたに伝えてに来たの」
 イサゴの目が瞬いた。疑念と、驚愕と、後は縋るような何かが瞳に混じっている。それを見つめて、あたしは一度唇を舐めた。
 あの夢の最後。ツクヨが残した願いの欠片。言霊の力。
 ツクヨが告げた言葉を、伝えるために。
 あたしはゆっくり息を吸って、そして、告げた。

「夕顔の咲き匂いたる君なれば 絶え果つとても逢はんとぞ思ふ」

 ――夕顔が綺麗に咲くときに同じように顔を綻ばせている貴方だから
   たとえ命が尽きたとしても逢いたいと願うのです――

 イサゴの目が大きく見開かれた。イサゴの家跡には別の歌が刻まれていて――今彼の後ろにあるツクヨの塚には、もう掠れて消えてしまったけれどこの歌が刻まれている。イサゴを見つめてあたしは言葉を続けた。ツクヨの思いを、イサゴは今確かに、受け取ったはずだから。
「夕顔、一緒に見たんだよね」
 あの夢の中。夕顔を見て微笑んでいた。ツクヨも、イサゴも、愛しそうに微笑んでいた。あの笑みがただの虚像とは、あたしは思えない。だからあれはきっと、真実だ。
 その思いを、確かに真実だって思う。羽衣を握り締めて、あたしは口早にイサゴに訴える。
「ツクヨはあんたをちゃんと思ってたよ。だから、信じようとして……羽衣のこと、ちゃんと言わなかった。羽衣はね、天女にとって体の一部なんだって。だから、それを外しては長くは生きられない。でもツクヨは、それをあんたには言わなかった」
 イサゴの目の中で光が揺れる。きっと、知らなかった。今の今まで知らなかったんだ。知っていたら、違った結果もあったのかもしれないのに。
「言わなくても、信じてくれるって思ってたから。天に帰らないという言葉を、あんたが信じてくれるって願ったから。でも、もし隠されたとしても、って考えた。ちゃんと後に、羽衣のために記憶残したり、自分が死んだあとのこと子どもに言ったりしてるくらいだもん。判ってたのかもしれない。羽衣、隠されること判ってたのかもしれない。それでも持っていることを隠さずにあんたに言ったのは、何でだったか考えてよ。ちゃんと思ってたからでしょ? 隠し事、したくなかったからでしょ? でもあんたは、あんたと二の子はそれを信じきれなかった」
 そこまで一息で言って、あたしは細く息を吐いた。視線が落ちた。土にまみれた靴下が見えた。なんだかそれすら、哀しかった。悔しかった。
 羽衣を、強く抱いた。その逆の手に基が触れた。優しい手だった。少しだけほっとして、あたしはまた言葉を続けた。
「でもあんただけが悪いとはあたしは思わない。ちゃんと、全部言わなかったツクヨも悪いんだよ。こんな、何百年もあとに解かれる『かも』しれない恋文なんて残すくらいなら、自分で言うべきだったのに、信じてるとか、判ってくれるとか、都合いいこと考えて言わなかったのも悪いんだよ。本当は、ちゃんと言うべきだったんだよ。言わなきゃ伝わらないこと……たぶん、いっぱいある、から。言ってればこんな哀しいすれ違い、なくてすんだのに」
 若菜ちゃんの言葉が、今は耳に痛い。
 言霊とか、そんなのはあたしにはよく判らない。でも、伝えたいと願うこと。伝えたい言葉を伝えようとすること。その努力もしないで信じてくれなんて望むのは、ただの傲慢だ。わがままだ。判ってくれとか判って欲しいとか、何も言わないのに相手に望むなんて、そんなのはずるいだけだ。そのことくらい、判る。言葉に力があるなら、何よりもそれをしなきゃいけないはずなのに。ツクヨは判っていたはずなのに。羽衣に力を残すくらいだもの。言葉の力を信じていたはずなのに。
 ツクヨもイサゴも、不安に駆られてそれをしなかった。その結果が、これなんだ。
 手のひらが熱い。あたしは傍らに立つ基を見上げた。見慣れた目が細く笑みの形になる。傍に居てくれる手のひらが、熱い。基の目に微笑を返して、あたしはイサゴと向き合った。
 青ちゃんの体を借りて、現代に蘇って、それでもツクヨを愛して――ツクヨを探し続ける男に向かい合った。
 月光の中、ツクヨの墓を背にして、彼は捨てられた子どもみたいな顔で立ち尽くしていた。
「――ツクヨは、あんたのこと、たぶんすごく、愛してたよ。だから、ちゃんと自分で伝えなよ。あんたの全部で、あんたの思いをちゃんとツクヨに伝えてよ」
 愛していたから、怖かったことも。愛していたからこそ、信じ切れなかったことも。
 すべて、伝えてあげてよ。
 風が吹いた。夏の湿気を含んだ、潮風。今も昔も、きっと変わらずこの島に吹き続ける風に前髪を揺らされ――
 イサゴが、ふっと微笑んだ。
 あの夢の中で見たのと同じ、優しげな笑みを、浮かべた。
「夕顔か」
 穏やかな声が闇夜に溶ける。
 イサゴが微笑みながら、目を閉じた。
「あれは花を育てるのが上手かったな――」
 呟きが溶けて。
 青ちゃんの体がふらりと揺れた。背中を天女塚に預ける形で崩れ落ちて、地面に横たわる。慌てて駆け寄ったあたしたちの前に、ヘイケボタルに似た光が現れた。思わず、足が止まる。
 そして――
 青ちゃんの体から浮かび上がった光はふわりと揺れて、月に吸い込まれていった。

 ◇

 光が月に溶けて。
 あたしたちはそれを最後まで見送って、まだ横たわったままの青ちゃんの隣に座り込んだ。青ちゃんは、眠っているようだ。息もちゃんとしているし、たぶん問題ないだろう。息をついて、あたしたちはもう一度天を見上げた。他に明かりなんてない夜の中、月と星が眩しいくらい輝いていた。ゆらゆら光が揺れている。全部終わったことを知って、その光が、揺れていた。
 あたしは天を見上げながら、羽衣をもう一度抱きしめた。
「羽衣。天に帰る方法、思い出したんだよね」
 全てが終わって。後に残ったのは羽衣の願いだけだ。羽衣はあたしの腕の中、小さく震えた。
『そうね』
 羽衣が頷く。その続きの言葉を言うのは、本当は駄目な気もした。でも、どうしても黙っていられなくて、あたしは羽衣を抱きしめて天を見上げたまま、小さく、訊いた。
「ねぇ、どうしても、天に帰る?」
『え?』
 戸惑ったような羽衣の言葉。あたしは隣の基を見ることも出来なくて、ただゆらゆらする白鳥座のデネブを見上げながら、言った。
「あたし……あたし、ここにいたいよ。羽衣とか基とか、皆と一緒にいたい」
 この島が好きだから。この場所が好きだから。ここに住む皆が好きだから。
 この夏を、ずっと、続けていたくて。そんなのは無理だって判ってても、せめて、皆と一緒にいたくて。
 デネブが揺れる。月が揺れている。夜の中不安定に、ふらふらゆらゆら、揺れている。
 羽衣も基も、しばらく何も言わなかった。ざざん……と波がはじける白い音がした。
『正直ね』
 波の音に乗って。
 羽衣が小さな声で喋りだした。羽衣を抱きしめたまま、あたしはただ天を見つめていた。
『帰る方法は思い出したし、あの子はわたしのためにこんな手の込んだことして記憶を残していてくれたし。それは嬉しいのだけど、でもね、ホントはずっと怖かったの』
「え……?」
 思いがけない言葉に、あたしは思わず羽衣を見下ろしていた。
 怖い……って言った? 今?
 羽衣はさらりと身体を揺らして、ほんの少し笑ったみたいだった。天女塚にかるく巻きつく。
『あの子は、ここにいる。わたしも今は力も記憶もあるしあの子を連れて天に帰ることもできる。でもね……ずっと、怖かったのよ。あの子はわたしを必要としていないんじゃないかって。あの子の中で、わたしよりあの男の存在が勝ったから、あの子はわたしが奪われることを考えてもイサゴにわたしを見つけたことを告げたのでしょう?』
「羽衣、それは」
『判ってるわ。そうじゃない、って言うんでしょ? わたしもそうだと思いたい。でもね……今ここにいるあの子を連れて天に帰って……そうしたらあの子とわたしは直接また言葉を交わすことが出来る。その時に、言われたらどうしようって思っちゃうのよ、どうしても』
 羽衣の不安は少し、ほんの少しだけど判る気がした。一度必要ないんじゃないかって思っちゃうと、違うって判ってもその記憶を完全に振り払えない。どうしたってしこりが残っちゃう、その弱さは判る。あたしだって……きっと誰だって、そうだから。
『捨てたのよ、って言われたらどうしようなんて考えちゃって、怖くて、馬鹿だとは思うけどどうしても否定出来なくて。だったら』
 ふわりと羽衣があたしの肩に乗った。ずっと、いつも、羽衣はここにいた。
『あんたたちの傍にいたほうがいいんじゃないかって。思っちゃうのよ』
「羽衣」
 言葉尻が震えた。羽衣があんまりに気軽にそう言うから、それが全部本音だって判ったから。
 違うよって言うのは容易い。でもそんなの、あたしが言ってどうなるもんじゃない。羽衣がそう感じているなら、それは羽衣の問題だ。あたしがいくら違うって言ったって、羽衣が違うって考えなきゃ意味のない、力のない言葉でしかない。
 羽衣はきっと、淋しくて、悔しくて、哀しくて、不安で、どうしようもなくて。
 だから、笑っている。
 その気持ちはあたしも少しだけ、判るから。
 ――堪えられなかった。
 込み上げて来た熱い疼きは雫になって頬をすり落ちていく。涙が……堪えられない。いつもは簡単だったのに。泣くのを我慢するなんていつだって出来たはずなのに。どうして泣いちゃうんだろう。我慢できないんだろう。揺らいでいたデネブも月も羽衣も、いくつもいくつも増えていって、それから零れ落ちていく。顔が熱くて、鼻が痛くて、なんだかもう訳が判らなくて、あたしは震える声を殺すのだけで精一杯だった。
 硬い腕が、そっとあたしを抱き寄せた。羽衣を肩に乗せたままのあたしを抱きしめた。
 基だ。
 基のシャツ越しに、鼓動の音が聞こえた。またゆらゆら、光が零れ落ちていく。止めようって頑張っても、全然形にならなかった。耳元に、優しく低い、声がした。
「青太、まだ起きなさそうだし。今、俺と羽衣しか見てないから」
 腕の中で、羽衣がまた小さく笑った。その笑いに応じるみたいに、基も微かに、笑った。
「だから……いいんじゃないか?」
 ――泣いても。
『ま、そうね』
 羽衣が頷く。しゃっくりみたいな声が漏れた。唇を強く噛んでも、震える身体は誤魔化せなかった。羽衣が、微笑みながら囁いてきた。
『あの子が昔、言ってたわ。人間が涙を流すのは、自分の気持ちを浄化させるためでもあるって。天女も泣けたわ。でもわたしは布だから泣けない。正直ちょっと、羨ましくもあるのよ』
 羽衣があたしの肩を離れた。基の腕の中、器用に、あたしの身体全体に巻きついてくる。
 基と、羽衣に、抱きしめられて。
『泣いてよ、あかね。……わたしの代わりにさ』
 そんな言葉を、言われて。
 そしたらもう、いつかの割れた水風船みたいに、何もかもが限界だった。
 ずっとずっと溜めてきていた涙はぼろぼろ零れて、我慢していた嗚咽はみっともなく漏れて。
 あたしは羽衣と基に抱きしめられたまま――
 何年か振りに、大声で、泣いた。
 天に届くくらい大きな声で、泣き続けた。


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