第三話

 制服に袖を通す。身支度を整えて、階下で矢代さんの作ってくれた朝ご飯をみんなで食べる。少しずつ身に馴染んできた朝の行為の後、いつもより少しだけはやめに家を出た。吹き付ける風に身を縮こまらせながら、早足で歩いて行く。こんな寒い日に待たせるわけにはいかないと思ったから。
 そのはずだったのに、待ち合わせの公演前にゆい子はすでに立っていた。
「おはようございます、潤さま。お早いですね」
 寒さからか頬を真っ赤にしながら微笑んでいる。白い息を吐きながら、呆れた声を出してしまった。
「そっちこそ、早すぎる」
「女は殿方をお待たせするようではいけないと、教育されてきましたの」
 当然のように言ってのけ、ゆい子は歩き出した。寒空の下でさえ、彼女の歩く姿は凛としている。
 小柄な彼女は、いつも背筋を伸ばしている。真っ直ぐ前を見ている。好きでもない人と婚約させられるというバカげた事実を嘆くでもなく、受け入れていた。
 全てに恵まれているのに、どうしてそんな風にいられるのだろう。
 判らない。だけど、眩しい。
 前を行くゆい子と、他愛もない話をしながら進んでいく。なんとなく数歩後ろを歩きながら。学校までの道のりはそう遠くない。車で来る生徒も多いけれど、元々醍醐潤も御影ゆい子も徒歩組だったぐらいだし。
 しばらく歩いてずいぶんでかい学校の敷地が見えてきた頃、信号に引っかかった。ま、時間はあるからいいけれど。
 ちょうど会話の切れ目でもあったので、ぼんやりと空を見上げる。白い月が寒々しげに浮かんでいる。ふと。視界の端で黒い影が揺れた。目をやると同時に息を呑む。とっさに手が伸びていた。
「ばかっ! 赤だぞ!」
 ゆい子が走りだそうとしていたのだ。引き止められてつんのめったまま、彼女は勢い良く振り返った。
「――猫!」
 ピッと伸びた細い指の先。道路の真中。多くの車が行き交う中に――いた。
 ちいさい、寒さに、あるいは恐怖に震えた白い子猫。
「ヤダ危ない」
「にげてにげて!」
 他の生徒からもざわざわと声が上がっている。子猫はぷるぷる震えたまま行き交う車の中で留まっている。逃げられないのか。今のところ車は避けているけれど――
 指先がきゅっと冷えていく。醍醐潤なら。どうする。醍醐潤という男ならどうするだろうか。前に出るか、見ないふりをするか、呼ぶか。頭の中でその言葉だけがグルグルと回る。
 その時だった。
「――ダメッ!」
 悲鳴が上がった。子猫が動く。不安定で弱い足取り。
 車道の信号はまだ――青。
 車が――!
「くそっ」
 頭が真っ白だった。醍醐潤ならどうするか。そんなのはもう、考えられなかった。ただ、自分が思うままに身体が動いていた。ゆい子の手を放し、走りだす。車道。風。車のクラクション。悲鳴。子猫の青い瞳。柔らかさ。足裏のコンクリートの硬さ。それから。
 どっと身体が前にのめった。歩道に倒れこむ。
 ――真後ろを、車が過ぎていく気配。
 そして、横断歩道のとうりゃんせが流れだした。
 いつの間にか止めていた息を吐く。同時に子猫がか細く鳴いた。
 ざわめきが戻ってくる。人が歩き出す。すぐにゆい子が走ってきた。
「潤さま!」
「……は、はは」
 思わず乾いた笑い声が漏れた。手の中の小さな子猫は、相変わらず震えながら、でも確かに鳴き声をあげている。命を主張している。
「危なかったな」
 捨て猫なのか、迷い猫なのか。白い毛並みは綺麗だった。ふわふわとした毛並みを撫でながら声をかけると、子猫は目を細めて顔を擦り寄せてくる。
「お怪我はありませんか」
「うん」
「どうして無茶をなされるのですか!」
 大声で怒鳴られた。ゆい子のそんな声なんて聞くことになるとは思っていなかったので、びっくりして見上げてしまう。顔を真赤にした彼女は、目にいっぱい涙を浮かべていた。
「ご、ごめ……?」
「また事故に遭われてしまったらどうなさるおつもりなんですか!」
「いや待って先にゆい子出ようとしてたよね」
「してました!」
 えええええ理不尽!
 どきっぱりと言い切られて思わず胸中で叫んでしまった。猫だって目をまんっまるにして見上げてる。
「ゆい子はいいんですっ」
「良くないよね!?」
「潤さまは良くないです」
 ……ええええええ。わりとむちゃくちゃ言うなぁ!?
 けれどゆい子は至極当たり前のように言ってのける。
「ゆい子は心配です。また、あんな目にあったらって……」
「……事故?」
「そうです。あの時は、こういうことをなされたのではなかったですけれど」
 ふ、とゆい子の口元が緩んだ。柔らかい、笑顔。
「猫さんも。潤さまも。ご無事でよかったです」
 ――花が咲くように。
 冷たい雪の中で咲いた梅の花が綺麗に見えるように。
 眩しいほどの笑顔が向けられる。それと同時に、トクンと、胸の奥が跳ね上がった。
 あ……やばい。顔が、熱い。
 どくっ、どくっ、どくっと、心臓が音を発てている。
 ――ちょっと待って。待って。待って待ってこれは……待って。
 この感覚が何なのか。それすら知らないまま生きてきたわけじゃない。判る。理解出来る。出来るからこそ、信じたくない。だって、だってこれは――
「潤さま?」
 きょとんと、ゆい子が首を傾げた。さらりと黒髪が揺れる。その姿から思わず目を逸らして、胸の中に抱いていた子猫をゆい子に押し付けた。
「ご、ごめん。帰る」
「えっ!? やはり、どこかお怪我を」
「ち、違う。大丈夫。なんともない。ただちょっと、その……ト、トラウマ的、な? 気分がちょっと、その」
「大丈夫ですの?」
 不安そうな声がした。同時に頬にひんやりとした手がかけられて、思わず身を引いてしまった。
「だっ、大丈夫だから! ごめん!」
 言い捨て、逃げるように――ううん、ようにじゃなくて、確かに逃げ出した。ゆい子と子猫をその場において、走り出していた。
 だって、待って。冗談じゃない。
 この感覚は判るよ。判る。
 ――好きって、こと。
 でもそんなの、ありえないじゃないか。だって。だって!

 ――大庭めぐは、女の子だ!

◇

「安里さん!」
 家に飛び込むなり、縋りつくように叫んでいた。両親はいなかった。ただ、留守を預っていた矢代さんも安里さんも、血相を変えて飛び出してきてくれた。安里さんは何かを察してくれたのか、すぐに肩を支えてくれた。そのまま、部屋に入る。心配そうな矢代さんは、紅茶を入れて差し入れをしてくれた。部屋には入って来なかった。それがとても、ありがたい。
「――どうしました?」
 低く、やさしい安里さんの声に安堵した。ラズベリーティーを手に、ぽつり、ぽつりと話し始める。ちょっとした、今朝の出来事。ここ最近の、ゆい子さんとのこと。それから、生まれてしまった感情のこと。
「そうですか。好きになってしまったんですね」
 柔らかく、ゆっくりと、安里さんが頷く。頷き返していいのか判らなくて、ただうつむいた。
「だ、だってそんなの、ありえないじゃないですか。だって、だって、お……わたしは、大庭めぐは女の子で」
「……潤くん」
「別にいいって思った。乗っ取ってやろうかって思った。なんとなく出来そうだなって思って! でもなんでだろう! 今更怖くなって……!」
「落ち着いてください」
「大庭めぐはどこにいるの!? 本物の潤は!?」
 叩きつけるように叫んでいた。
 安里さんが、神妙な顔をしている。眉を寄せ、それから短く、呟いた。

「大庭めぐさんは、いません」

 ――え?
 思わず、喉が詰まる。すっと、昇っていた血が沈んでいく感覚。目の前が、暗くなる――

「何……を」
「落ち着いて、聞いてください。大庭めぐさんという方は、いないんです」

 何を。何を言ってるの?
 さっきまでとは違う意味で、どくどくと心臓が鳴っている。耳の奥で、すぐ傍で鳴っている。
 誰がいないって?

「……あの日から、いろいろ、僕なりに調べました。そういう病気があるのか。それとも、本当に大庭めぐさんというかたがいらっしゃって漫画かなにかのように入れ替わりとかされているのか」

 安里さんは、静かに話す。
 落ち着いた声音で――必要以上に落ち着いた声音で、話している。

「最初に話した時、めぐさんは教えてくれました。茂木高校普通科の二年一組在籍なこと。住所。生年月日。家族構成も。問い合わせ、勿論しました。茂木高校に、現在大庭めぐさんという方は在籍されていません」
「どうして」
「――いらっしゃらないから、です」
「じゃあわたしはなんだって言うんですか!? お化けだとでも!?」
「正直、その線もあたりました。自分でも馬鹿げているとは思いましたが。でも、茂木高校が出来てからの在校生の中にも、そのお名前はなかったんです。住所も――」
 嘘だ。嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!
「信じない!」
 叩きつけるように叫んでいた。
 そして、走りだす。後ろから安里さんの声が聞こえた。矢代さんの声も。だけど、そのすべてを振り切るように、家を飛び出していた。豪奢な、うそ臭いほどに大きな醍醐潤の家を。
 雪が、降っていた。
 初雪だ。ちらちらと舞う白い雪を掻き分けるように、ただ、走っていた。
 茂木高校はそう遠くない。醍醐潤が通う学校とは反対側だけれど。そして、そのすぐ側に家がある。
 大庭めぐの生まれ育って、住んでいる施設――児童養護施設ひまわり園。赤茶色の大きめの建物だ。その中で、暮らしていた。その中で毎日を過ごしていた。それなのに。
「なん……で」
 唇から零れた音は、溶けるように消えて行く。どうして。どうして。どうして。頭の中がその単語だけで埋められていく。
 目の前に、見慣れた施設の姿はなかった。
 そこにあったのは、どこにでもあるコンビニと駐車場と、それから小さな公園だった。
 ひまわり園の姿はどこにも――カケラも、ない。
「嘘だよ」
 また言葉が漏れた。何か、勘違いしているのかもしれない。だってそんなことありえない。ないわけがないじゃないか。家なんだから。住んでいたんだから!
 きっと道を間違えたかどうにかしたんだろう。そうだ。きっとしばらく醍醐潤で居続けたせいで、混乱しているんだ。探せばいい。探そう。きっとこの近くにあるから。
 そう、思うのに。足は地面に縫い付けられたかのように動かなかった。
「なんで……なんで」
 なんでもなにもない。だって判ってる。理解してる。ここ以外の記憶なんてない。ここしかしらない。ここじゃないなんてありえない!
 それなのに、目の前に知っている面影がなにもないから――!
 膝から力が抜ける。判らない。判らない。もう何も考えられない。雪が冷たい。冷たくて苦しくて嫌になる。膝を抱えると、顔が熱くなった。涙が溢れそうになる。
 その時、だった。
「――めぐ、さん?」
 ――聞き慣れた声がした。