第一章:夕暮れにて


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 つまりそれは、彼自身であると言えた。
 この美咲台という街の中心部に在りながら、誰にも気に止められる素振りのない巨大な灰色の建造物。正確には建造物未満。建造物になる前に破棄された建造物――ようは建築途中に話が流れて取り壊されもせず造り上げられもせずそのままになっている、放置されたままのビル。それは彼自身であると言えた。
 毎日誰もが眼にしておきながら、毎日誰もがその事自体を忘れている。それは確かに存在しておきながら、存在していなかった。そう考えると苦笑が漏れた。謎かけみたいだなと小さく独りごつ。しかし、そうとしか言えなかった。
 存在すると言うことは、その存在を認識し得る対象が在ってこそのものだ。
 認識がない場合――認識を否定された場合ではない、否定は行為がある時点で認識と同じ意味を持つ――それは存在出来ない。
 その点で、この建造物未満のビルは確かに美咲台という街には存在していなかった。放置されて何年になるのか、それを思い出す人間すら居ない。認識されていないビル。存在していないビル。
(俺と同じように、か)
 またひとつ小さく独りごちて、彼は苦笑を呑み込んだ。認識されていないビルは彼にとてもよく似ていて、似ていると言うことはとどのつまり本質的には同義であると言えて、ようするに彼とこの建築物未満は同じだった。認識されていない自分。存在していない自分。
 我知らず落ちていた視線を持ち上げる。
 存在していない建造物未満を見上げると、その建造物未満はその時点で存在を得た。彼自身が認識を持ったということで、その建造物未満はこの美咲台に存在を得たのだ。つまり今この瞬間、美咲台に存在していないのは認識されていない自分だけだった。
 六月の貫けるような青を背に、その建造物未満はそこに在った。
 八階建てのビル――都会ではそう珍しいものでもないのだろうが、田舎とも都会ともつかない美咲台では珍しい部類に属した。街中にある建物は大概が高くても四、五階建てで、それ以上あると人込みの中でぴょこりと頭が飛び出ているのっぽのような場違いな印象を受ける。
 このビルも少なくとも始めのうちはそうであったはずだが、今ではすっかり街の一部に馴染んでいて、誰もいちいち気にはしていない。ショッピング用施設の予定だったここが何故建築されることなく放置されたのか。それも同じで、今じゃもう誰も意識していない。取り立てて特徴があるわけでもない長方形で灰色のビル。窓は多い。上部はまだまだ途中だったのか、シートが被せられている。ビルの周りにはいくつかキャットウォークが張り巡らされてあって、もしかしたら内装も似たり寄ったりなのかもしれない。しかし、そんなことは正直どうでもよかった。意味があるのはただひとつ。左胸に手を当てて静かな鼓動を感じながら、思う。

 ここからなら、死ねるだろうということ。

 それだけだった。
 暗い笑みが浮かぶのを自覚して、彼――掛井匠は静かに一歩、足を踏み出した。

◆ ◆ ◆ 

 こつん、とおさだまりな音を立てながら歩を進める。どういう手順で工事を進めたのかは知らないが、内装はまだ打ちっ放しのコンクリートで、階の上の方などは、ほとんど手付かずと言っても差し支えのないような有様だった。正直、酷い有様だと思う。もしかしたらこの建物未満が建物になれなかった理由の何割かは工事の有様にもあるのではなかろうか、と考える。邪推なのかもしれないが。しかし想像は自由だった。あるいは妄想も自由だった。大差はない。
 この建物未満がどういう経緯で作られていって、途中で破棄されたのか。それを考えるのも匠の自由ではあったし、この建物未満の内装が酷い有様だと苦笑を零すのも匠の自由だった。もしかしたら建物未満は勝手に入ってきて苦笑を漏らしている匠を恨んでいるかもしれないが、まあ無機物に意思はない。ついでにこの酷い有様が逆に匠の心を浮つかせて、そのせいで突拍子もない妄想をしていることだって、匠の自由だった。自由は大切にしなくてはいけない。何せこの掃き溜めみたいな日常で人が本当に自由に出来ることといえば、適当な呼吸と浅慮な哲学と昨日の愚痴を思い浮かべることと、今日の夕食のメニュウを夢想すること。あとはまあ、まだ見ぬ明日に絶望してみること。そんな程度だ。自由は大切にしなくてはいけない。
 一階は面白みも何もないただがらんとした四角い箱で、けれど上がってみれば面白みがないという感想は払拭せざるを得なかった。二階から上は吹き抜けの予定だったのだろう。中央部は綺麗に丸く開いていて見上げられる構造になっている。完成してきちんと建物になっていれば憩いの場として天井のガラス窓から降り注ぐ太陽が、日曜日の家族連れを迎える場所になっていたのだろうが、今は打ち晒しのコンクリと張り巡らされたままのキャットウォークが見上げた視線を受け止めてくれるだけだ。だがそれが逆に心地良かった。昔見た古い映画のワンシーンを思い出す。何の映画だったか覚えてはいないが、N.Yニュー・ヨークが舞台の、ギャングとかが出てくるちゃちなやつだったと思う。ちゃちな偽物の銃でちゃちな銃撃戦をちゃちなくせに派手にやらかしていた。その舞台が、こんなキャットウォークだった。思い出して、思わずにやりとした笑みを浮かべる。いいじゃないか。美咲台の中のN.Yニュー・ヨーク。それ自体がなんとも嘘臭くて、それでいて恰好良い。嘘臭いが、嘘ではない。そこは大事だ。たぶん。
 空気は意外にもそれほど澱んでいなかったが、やはり多少の埃っぽさは否めない。窓から射し込んで来ている外の明かりが、彼自身の影を長く伸ばしている。光の筋を視線で追い、外界を見やる。そろそろ陽も長くなってきた。まだ夕暮れには少しあるだろう。ふと、思う。このビルで上れる限りの一番上、そこから見る夕焼けの色はどんなものだろうか。死ぬ前にそれを見てみても良いかもしれない。壁に手をおいて一息つく。ゆっくり上がって来たつもりだったが、それでも八階建ての建物の五階まで歩いてきたのだ。疲労は確かに足に重みを残していた。特に急ぐ必要もなかったが、中途で休憩するのもなんとなく憚れたので壁から手を放して再度歩を進める。壁についた手はコンクリの粉と埃で白く汚れていて、それが意味もなくおかしかった。上がりきったところで、休憩しようと口中で呟く。まあ、そのまま人生の永久休憩に突入するわけではあるけれど。
 自分の心が不思議と落ち着いているのを匠は自覚していた。
 自殺前、というのはどんな気持ちなんだろうかと今まで幾度か空想したことはあったが、これほど余裕があるものだとは考えなかった気がする。くだらない想像も出来るし、どうでもいい妄想に笑いも出来る。頭の中でギャングだって銃撃戦を行える。追い詰められた感覚はなかった。もっとも、自殺の理由がいじめだとか借金苦だとか、そういった人間とは違うのも大きいのだろうが。
 理由らしい理由はなかった。
 あると言えばあるのだろう。『理由がない』というのが理由だ。教師たちが聞けば詭弁だと嘲笑うか不謹慎だと怒るか、どちらかだろうとは思うが事実だった。理由がなかった。少なくとも匠は見つけられなかった。生きる理由。つまりは、その対極に位置する死ぬ理由。ようするにまあ、理由がないのが理由だった。事実は事実で、変えようがなかった。事実と真実は似ているようで異なる。事実は真実に直結はしない。真実は事実だけでは語られない。だからこれはきっと真実ではないのかもしれない。ただ、事実ではあった。真実は捏造も可能だけれど、事実ばかりは無理だった。
 別段、日常に何か痛みがあるとかそういうことではなかった。両親は不仲でもないしいじめられているわけでもないし明日食うに困っているわけでもない。今のところ彼女はいないしセックスも一年ばかりご無沙汰してはいるがまあそれはそれとして、失恋に立ち直れない自分に絶望とかそんな類の華やかなのか暗いだけなのか判断しかねる理由もない。
 ただ、と匠は呟いた。
 ただ――どうしようもない。理由がない。それがただ、理由だった。
 たぶんそれは、夜に似ている。夜の闇。人工的に作られたおばけ屋敷とかの闇のほうがきっと暗くて深いのだろうけれど、そこまでではなくて、ただの夜の闇。藍色とも紺色ともつかない、あのほの暗い夜空だ。人工的な闇には暗さも深さも到底敵わないが、でもそれ故に、どうしようもない。蛍光灯をつければ消えるものでもない。どれだけ眩しいライトを利用したところで、夜の闇は夜の闇のままだ。朝焼けがいつかそれを溶かしたとしても、その日のうちにまたやってくる薄闇。朝が来ない夜はない。けれど、夜が来ない朝もないのだ。リピート。リピート。リピート。何度でも夜は際限なく襲ってくる。特別深いわけでもない、薄闇。漠然とした不安感のようなものは、とても夜に似ている。
 そこまで考えたとき、かつっと高い音を立てて足が階段の最後の一段を踏みしめ終えていた。上りきったのだ。ここがおそらく最後――八階部分だろう。ここから先はもう、キャットウォークに上がるためのあの細いはしごしかない。特に考えるまでもなく、軽く弾む息と早まる鼓動を無視してはしごに手をかけ、それから足をかけた。そこから先は無心だった。思考を忘れてただ単純作業のように手と足を動かす。
 立ち上がることが出来る程度の高さはあったが、粗末な天井がやけに近かった。張り巡らされた足場は、天井工事のための物だったのだろう。キャットウォークは吹き抜けを囲うようになっている部分と、中央を結ぶ部分とがあった。細い、赤茶色の鉄筋だ。不安定に微かに揺れる細い通路。がらんとした場所の片隅に、なにやら荷物が置かれていた。作業中の道具などがそのまま放置されているのかもしれない。そこから視線を外してキャットウォークの隙間――つまりは吹き抜け部分をそっと覗きこむと、めまいがしそうだった。高い。判っていた話だけれど。だからこそここを選んだのだけれど。でも高い。
 キャットウォークの縁に背を持たせかけ、匠はその場にずるずると座り込んだ。ふぅと息を吐く。コンクリートのざらざらした壁が視線の少し先にあって、そこにはお粗末な窓のようなガラスがはめられている。そこから、外が見えた。
 薄い藍色と水色の交じり合った空だった。
 夕暮れが迫り始めている色だ。赤く焼けた色になっていないのは、おそらくこちらは東なのだろう。立ち上がって窓によって見下ろせば町の風景が視界に飛び込んでくるのは確実だろうと知れた。だが、今こうして座り込んだ体勢のまま見る分には、建物の陰は見えない。遠くある霞ヶ山も見えない。あの山は確か北側だったか。どちらでもいい。ただここからは空が望める。それだけが全てだった。風で飛ばされたのか、建物未満の外に張り付いていたはずのシートもそこだけ綺麗に剥がれていて視界を遮るものは何もない。空。
 綺麗だった。
 夕暮れはやがて夜を運んできて、夜はあの漠然とした不安感にとてもよく似ているのだが、この空を見る限り嫌いにはなれなかった。この空を見るのも、この空に対して感想を抱くのも自由だろう。それから、望むことならば――願うことならば、と彼は独りごちる。
 生か死か。それを選ぶのも、自らの自由であって欲しい。自由は限りなく少なく、だからこそ大切だとするなら、自らの生き死にも自由に選びたい。
 どれくらい、そうしていただろう。そう長い間でもなかったはずだ。けれどまあ、時間などはどうでもよかった。時間は所詮伸縮する程度の頼りない概念に過ぎない――時間が一定だなんてことをほざく人間は多いが、そうは思わない。時間は個々の認識によって勝手に伸縮するくせに一定のような素振りをして見せる詐欺師だ。プロだな、とは思う。騙される人間は多いが、騙されていることにすら気付かない人間は愚かだとも思う。
 取り留めのない思考。薄い雲が風に流されていくのを眺め見やりながら過ごす、伸縮する時間の中、彼はただ冷たい鉄の感触を尻に感じているだけだった。
 そしてそれは、唐突に延びた時間を切り離す。

「人の城で何やってんの?」

 ――少女の声だった。


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