第一章:夕暮れにて


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「ルール?」
「そ。だから、あんたが死ぬことを決めたんだったら反論しないし、そもそもあたし、あんたのこと知らないし。死んだって別に関係ないし。まあここで死なれたら困るけど、その程度。ね? 問題ないでしょ」
 言うや否や、にこりと満面の笑みを向けてくる。無垢。無邪気。あるいは無防備とも言えるその笑顔を見つめ――
 次の瞬間、匠は弾けるような笑い声を上げていた。
 腹筋がよじれる。肺にあった空気が全て音として変換された上で体外へ排出される。乾いた笑い声がキャットウォークに反響する。
 ひとしきり笑い終えて、目じりに滲んだ涙をぬぐって顔を上げると、少女の顔が視界に飛び込んできた。丸い目をめいっぱいに見開き、きょとんとした顔でこちらを見やってくる幼い顔に、再度笑いがこみ上げてくるのを何とか堪える。くつくつと笑いを噛み殺しながら、呟く。
「おまえ、面白いなあ」
「そこまで爆笑されるほど面白くないよ、別に。あたし、すごく普通」
「面白いよ。すげぇ馬鹿」
 馬鹿の一言に、彼女の頬がぷくりとふくれ上がったのを確認する。視野に彼女の表情を収めてから、匠はゆっくりと立ち上がった。立ち上がってみると、キャットウォークの不安定さは座っていたときよりもさらに増す。腰の辺りにある手首ほどの太さもない手すりを掴んで痺れた足を少しばかり休ませる。足の痺れが抜けてから、匠はゆっくりと歩を進めた。紅の光の筋が、キャットウォークの上で踊る埃たちを照らし出している。
「ここで、何してるんだ?」
「さっき言ったじゃん。生きてるんだよ。あたしは、このキャットウォークでね」
「住んでるってことか?」
「端的に言えば、そうだね。意味的にはもうちょっと深いって思いたいけど、大差ないかな」
 答えながら、少女が手招きをする。素直に近付いていった匠は、彼女が体をずらして見せてくれた外の光景に思わず感嘆の息を漏らしていた。
「綺麗でしょ? あたしここすごく好き。でも朝日のほうがもっと好きかなぁ。ほら夕焼けって、なんか寂しくなるから」
 言ってくる彼女に返事をすることも出来ないまま、匠は空を見つめていた。八階建ての建物未満から見渡す美咲台は、全てが茜色に染まっていた。こまごまとした街並み。商店街の屋根。小学校の校庭に、すぐ傍にある美咲台緑地公園。遠くには海も見える。美咲台はこの市の中では海に面していない町で、海岸へ行くには東側なら角野町を、西側なら沢良樹町を越えなければならない。だから、見えるはずなんてないと思っていた。けれど海は、そんなに遠くもなかったのだ。そこまで考えてから、不意に思い出す。太平洋に突き出たこの辺り一帯を昔はまとめて岬台と呼んでいて、それが今のこの地名の由来になったらしいということを。なるほど、岬なら海が見えておかしいわけがない。空は何重にも色を重ね、幾筋かの雲がトッピングのようにさえみえる。その美しい空の下、茜色に染まる街並みを早足で歩いていく人々を見下ろしながら、彼女が呟く。
「この町の連中馬鹿だからさ。頭の上にこんな綺麗な景色が広がってること、気付きゃしないんだよね。それってさあ、もったいないって思うんだよね、あたし」
 目を細め、何か愛おしむような表情で街を一望すると、彼女はふっとそこで視線を切った。まるで宝物を閉じ込めておく子供のようなすばやさでくるりときびすを返し、再び窓から遠ざかる。一番美しい景色をまぶたの裏に閉じ込めたように彼女は微笑んでいた。
 荷物の傍により、きびきびと整理を始めるその小柄な背中を見やりながら、匠はそっと口を開く。
「ずっとここで住んでるんだよな? それ、荷物お前の?」
「そだよ。布団とか着替えとか、あとは明日のお仕事用の物とか。家財道具だね」
「家は?」
「ここだよって言ってるじゃん」
「じゃ、なくて。実家。家出?」
「ご想像にお任せしまーす」
 別にこちらのことを嫌ってるわけでもなさそうだし、邪険にするつもりもないのだろう。あの『死ぬならほかで死ねば?』の発言の後だとどうにも妙な気はするが、それとて別に矛盾しているわけでもないらしい――少なくとも彼女の中では。訊ねれば答えは返ってくるし、邪険にされるわけでもない。ただ単純に関係ないのだろう。さして興味があるわけでもないのだ、きっと、彼女の中で自分は。いやもしかしたら、彼女にすれば大半のことがそうなるのかもしれない。このどことなく世間ずれした家出少女には。
 それにしても、不思議だった。屈託なく笑うその表情には一遍の陰りも含みも見当たらない。匠の周りにはこういった無垢な笑い方をする人間はほとんどいないように思える。誰しもが相手の顔色を伺うようにおべっかで笑い、取り繕い、そうでなければ皮肉に頬を歪ませる。全てを諦めきったような惰性の笑みを浮かべる。そんな笑みばかり見慣れていたせいで、赤子のようなこの少女の笑みは、どうにもむず痒ささえ覚える。けれど彼女は決して脳足らずではないだろう。会話には一貫性があるし、決して知能が足りないわけではない。それどころか、幼く見える容姿に反して思考回路の働き具合を見る限り、匠のクラスメイトたちよりも頭が良いように感じる。どこがどう、とは言えないが。
「そういえば、お前いくつ?」
 外見はやはり、幼い。多く見積もっても小学校高学年位だろうとは思うのだが、さすがにそんな小さな子が家出して、あまつさえこんな所に住んでいるのはどうだろうと考えてしまう。ところが彼女は幼げな様子で首を傾げ、至極当たり前に言ってきた。
「十四だよ?」
「……見えねえ」
 匠の言葉に、彼女がむすっと険悪な表情を浮かべる。
「勝手に人の年齢外見で判断するな。そして勝手にショックを受けるな」
「いやそんな無茶な。じゃなくて、マジ見えないんだけど、え、十四? 中二?」
「学年的には」
 つまり、学校には通ってないということだろう。義務教育は彼女の中では軽い問題らしい。
「じゃあ、俺と一個違い?」
「あ、そなの? あんたでかいね」
「お前が小さいんだと思う」
「うるさいなあ」
 匠は十五で、今年受験生の中学三年だ。確かに背の順では後ろから数えたほうが早いが、匠自身の身長はさほど大きいわけでもない。精々平均より少し上程度だ。彼女の小ささは、というか幼さはそれとはレベルが違う気がした。何故だろう、と考えて表情の無垢さがそれに輪をかけているのだと気付く。幼さの一端を担ってるのは、そこだ。表情が、あるいは仕草も幼い。
「あたしが小さくて、別にあんたに迷惑かけたわけじゃないんだし、いいじゃんか」
「いやまぁ、そうだけど」
 幼い無垢な表情で、けれど割に鋭い台詞を吐いてくる。小さく息を吐き出して、匠はぐっと伸びをした。背中がぱきんと小さく音を立てる。荷物の整理を終えたらしい彼女が、音を聞いたのか眼を瞬かせてから首を傾げた。癖らしい。
「何だよ」
「死なないの?」
「……死んで欲しいのか?」
「どっちでもいーけど、他行ってね?」
「……」
 制服のボタンをひとつはずし、匠は再度漏れかけたため息を呑み込んだ。もう、どうでもよくなってくる。この素っ頓狂な少女と話していると、上って来た時の悲壮な自分があまりに阿呆に思えてきた。そう考えると漏れ出たはずのため息は、知らず苦笑に取って代わっていた。
「何笑ってるの? ヘンだよ」
「お前に言われたかないわ」
「失敬な奴だなぁ」
「……どっちが」
 何とはなしに彼女の頭に手を乗せてみた。思っていた以上に手を乗せやすい位置にある。ついでに軽く叩いてみる。頭の丸みがなんとも言えず良い形をしていた。今度は撫で回してみた。髪は艶やかで細く、指に絡みつくこともなく流れていく。癖はあるはずなのに引っかかりもない。それこそまるで幼児の頭でも触っている気分になって、意味もなく撫で回す。と――
 蹴られた。
「いっ……!?」
 大切なところだった。
 蹲って声も出せずに匠はただひたすら忍の字で堪えるしかない。夏も近いという梅雨時なのにいやに冷たい汗が背中を伝っていく。冗談では済まされないような激痛が股間からわさわさと全身を這い上がってくるようだった。暫くはただ、耐えた。
 ようやく多少は落ち着いて顔を上げると、彼女がしゃがんでこちらを覗き込んでいた。そのきょとんとした表情が、やけに腹立たしい。半ば涙目のまま睨みつけた匠に、彼女はへらっと安い笑みを浮かべてきた。
「痛いー?」
「……死ぬかと思った」
「いーじゃん。どうせ死ぬんでしょ?」
 絞め殺してやろうか。
 一瞬の殺意を何とか押し留めながら、立ち上がる。立ち上がる際に彼女の頭を手すり代わりにしてやった。重いとか何とか叫ぶ彼女を無視して、全体重をかけてやる。何とか立ち上がった後も、鈍痛は波のように何度も押し寄せてきて、その度に意識が白くなりそうだった。冗談でもなんでもなく、実際この痛みだけで死ねるかもしれない。うめきながら、考える。
 しかし――と、匠は痛みから何とか思考をずらした。
 面白い少女だった。
 気後れするでもなく、顔色を伺うでもなく、ただ対等にこちらと接してくる。その上で、笑う。屈託なく、無邪気に。かと思えば拗ねもするし、さっきのように腹が立てば蹴りもしてくる。感情の波が激しいのだろうか、と考えたがそれも違うように思えた。どこがどうとは上手くは判らなかったが。そしておそらくは、価値観が違う。同じものを見てもそこから受ける印象が、自分と彼女では決定的に違うのかもしれない。それは埋めがたい溝で、埋めてはならない溝でもあるように思えた。彼女は自分とは違う。否――匠を始めとする、おそらくは他の一般市民とは、違う。凡人ではないのかもしれない。自分と違う、非凡な何かを秘めた少女。それは埋めてはならない溝で、決して埋めることも出来ないものだ。だからこそ気高く思えて、凡人は非凡な誰かに焦がれ、焦燥を抱き、憧れながら嫉妬する。
 小さな少女を見つめ、そんなことを思った。それからふっと息を吐き出し、匠は首を回す。
「今日は帰るよ」
「死ぬんじゃなかったの?」
 不思議そうに訊ねてくる彼女の頭にもう一度手を乗せる。今度は蹴られる前に手を放して、匠はきびすを返した。歩き出しながら、答える。
「延期する」
「意気地なし」
 背後で呟かれた言葉は、決して責めを含んではいなかった。別に死んで欲しいと思っているわけではないのだろう。単純に、自分で決めた事項を自分で覆した、その事実に対して意気地がないと感想を述べているだけのようだ。事実だったので、匠はそれを受け入れた。けれどその上で、思わず言葉を続けていた。
「だって」
「だって?」
「野良猫に興味わいた」
 足を止めて振り返ると、キャットウォークに背を預けた格好で立っていた彼女が、疑問符を瞳に浮かべながら自らを指差していた。首肯すると、弾けるような笑みを向けてくる。微かに目を細めながら笑みを見やり、もう一度背を向けて歩き出す。キャットウォークを下りきった時、ふと思い出して匠は顔を上げた。彼女はキャットウォークから身を乗り出してこちらを見下ろしていた。バイバイ、と手を振ってくる様子を見つめながら、口を開く。
「なぁ」
「何?」
 手を振るのを止めて、彼女が首を傾げる。射し込んでいる夕陽に照らし出されるシルエットのような彼女を見上げながら、匠は興味を口にした。
「お前、名前は?」
 返ってくるかどうかは、判らなかった。ただ、訊いておきたいと思ったのだ。おそらく彼女は自分が彼女に抱くような興味は、匠に向けてくれてはいないだろう。だからこそ、彼女がこちらの名を訊ねて来るような事はないし、また来るのかとも聞いてこない。おそらくはそれでよいのだろうが、少しばかり寂しさを禁じえないのも事実だった。だからこそ、僅かでも繋がりを断ちたくなかったのだ。しかし、返ってきた答えは、匠の想像範囲外のものだった。
「ないよ」
「――は?」
 あっさりとした答えに、匠は思わず呆然とした声を漏らしていた。その匠の様子が面白かったのか、彼女を身を乗り出した姿勢のまま軽く声を立てて笑っている。
「ないよ。名前。捨てちゃった。いらなかったから捨てちゃったの」
 そう言い目を細める表情は、先ほど夕焼けの街並みを見下ろした時のそれと同じだった。宝物をまぶたの裏に閉じ込めた子供のような瞳。
「だって、それがなくてもあたしはあたしだから。名前に意味なんてないよ。だって、あたしはあたしだから。あたしは、あたし以外にはなれないから」
 何を言うべきか、判らなかった。ただ、言葉に出来ない何かが胸のうちに溢れたのは違えようのない事実だった。真実ではない。事実だ。覆すことの出来ない事実。それが何を意味するのかは、匠自身理解は出来なかったけれど。
 踊る埃。煌く陽光。素足の少女。捨てられた名前。野良猫。覆すことの出来ない事実。
 脳裏を駆けるそれらの単語を一瞬で追い出し、匠は努力して苦笑を浮かべた。おそらく彼女にとって、それは真実ではないのだ。名を捨てたということは真実ではなく、ただ純然とした事実なのだろう。それに立ち入るだけの何かを、自分は持ちえていない。だから、匠は何とか浮かべた苦笑のまま、出来るだけ軽い声で頷いた。
「そっか」
「うん。じゃーね、バイバイー」
 あっさりとした様子で手を振る彼女に背を向けて歩き出しながら、背中越しに手を振る。
「じゃあな。――『ちびねこ』」
 その単語は不意に脳裏に浮かんだだけの代物で、大して意味があったわけでもない。ただ、背中から彼女の声がする。
「ねぇ、ちびねこって、あたしのこと?」
「他に誰がいるよ。んじゃ、またな」
 名前を捨てた野良猫なら、適当に名前の代わりのものをつけて呼んだって構わないだろう。抗議の声が背中にかかるかと思ったが、特にそれもなかった。今度は振り返らず、匠は建物未満を後にする。上りにくかった階段は、やはり下りにくくもあった。それでも足取りは、行きよりはずっと軽い。上りと下りという物理的なもののせいなのか、あるいはそれ以外の何かのせいなのか、それは考えないようにした。
 建物未満を出て、空を見上げる。
 夜はすぐそこに迫っていたが、漠然としたあの不安感はまだ、襲っては来なかった。
 ただ、綺麗だと思った。


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