第二章:シャ・ラ・ラ


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 朝七時。
 部屋にある目覚まし代わりのコンポが大音声の洋楽を吐き出す。
 たいていそれよりも先にいつも目が覚めるのだが、その音が鳴るまで布団から出ることはない。眠っていたようなコンポにちかっと明かりが点ると、来るな、と感じて布団を頭まで引き上げる。その瞬間、部屋に音楽が満ち始める。そして暫くは止めることもせず、聴く。たいてい一曲目が終わる前に、隣の部屋からばたばたと騒々しい足音が聞こえてきて――
「お兄! うるせえ!」
 癇癪を起こしたような表情で弟が飛び込んでくる。小学生にしてはそれなりに身長もある、自分と相似形のような顔をした望に、匠は布団の中から抗議の声を上げた。
「お前、敬愛するフィルの声をうるさいとはなんだうるさいとは」
「起きてンじゃねぇか! だったら止めろよ!」
「朝からフィルの声を聴いて活力を溜めてる最中だ」
「い・い・か・ら・お・き・ろ!」
 布団を問答無用で剥がされて蹴られる。口中で小さく毒づきながら匠は身を起こした。消せと喚いている望を無視して、少しだけボリュームを絞る。コンポの中から、変わらずフィル・ライノットのどこか甘い、そしてえらく早口な歌声が響いてくる。ベッドを簡単に整えていると、望がコンポの隣で呆れたような顔をして立っていた。
「止めるなよ」
「つか、毎朝同じの聴いてて飽きねぇの?」
 CDケースをひらひらとさせて、望。その手からケースを奪いながら、肩をすくめる。
「同じじゃねえよ。昨日はコールド・スウェット。今日はサンダー・アンド・ライトニング。明日はアウト・イン・ザ・フィールズだな」
「いや、わかんねぇから」
「フィルの声を一言で切るような男が弟ってのは、俺的に悲しい現実だよ」
「お兄にとって悲しくない現実なんて存在しないくせに」
 望にとってそれはいつもの軽口だったのだろう。だが匠は思わず閉口した。軽く睨んでから、「そうだよ」と答えると望は冷たい視線をよこしてきた。
「つまんねぇの」
「うるさい」
「はいはい。早く支度しろよ。また真雪姉に怒られっぞ」
「それも理不尽な話だよな」
 別に自分が頼んでるわけではないのに毎朝迎えに来る幼なじみの顔を思い浮かべて、匠は嘆息した。朝っぱらから不景気だなぁ、と大人びた口調で笑う望と一緒に部屋を出て、顔を洗い歯を磨く。制服に着替えるために部屋に戻ると、曲は変わらず流れていたが、数曲先のどこか物悲しい音楽になっていた。これは目覚ましには使えないな、と考えながら音を切る。身支度を整え、鞄をとる。コンポの代わりに、今年のお年玉で買ったMP3プレイヤーをポケットに突っ込んだ。入っている曲は殆どが洋楽――それもハードロックで、ついさっきまで聴いていたフィル・ライノットの甘い声ももちろん入っている。ブリティッシュ・ハードロックバンドのシン・リジィ。匠の一番好きなバンドで、けれどもう随分前にバンドも解散していて、フィルは他界している。何せ、匠が生まれる前だ。リジィの活躍したのは七十年代後半から八十年代にかけてだから、匠が直接聴けたわけがない。それでも、リジィの曲には何かしらの魔力があった。少なくともリジィを聴いている間だけは、この世界を嫌いにならなくてすむ。
 簡単な朝食をとり、天気予報と星占いを見て、ジャスト八時。匠は家を出る。望は毎朝それより十分前には家を出ている。とはいえ、決して優等生ではない。むしろ問題児も問題児で、両親などはいつも嘆いている。まだ一学期だというのに、すでに二度、学校から親呼び出しがかかっているような奴なのだ。それでも学校は好きらしい。小中合わせても呼び出し経験のない匠からすれば、望の行動は理解しがたいものがあった。呼び出し経験もないが、学校が好きだった記憶もない。
 家を出るとすぐ門の前に、見知った頭を見つける。それも、毎朝の光景だった。変わり映えのしない光景。変わり映えのしない毎日。
「おはよ、匠」
「ん」
 首につけたヘッドフォンを弄りながら、軽く頷く。センター分けにされた肩までの長い髪とスカートを翻して、真雪が歩き始める。はすむかいに住むひとつ下の北野真雪は、毎朝こうやって門の前で待っている。小学校のときからの習慣で、けれどそれが中学に入っても続いているというのは、なんとなく奇妙な感じがする。とはいえ、真雪はそうは思っていないようで、匠もそれを問うのも面倒だったので好きにさせている。
「望、今日学校でハードルのテストなんだって。自主練するって張り切ってたよ」
「へぇ」
 幼なじみの女子と一緒に学校に通うという習慣が恥ずかしいと思わないでもなかった。が、所詮学校につくまでの十五分足らずのことだ。そんな事でいちいち目くじら立てることのほうが恥ずかしいと思っていたし、何よりともかく面倒だった。問い詰めてやめろと告げて、それでうっかり真雪の機嫌を損なえば、掛井家の両親と北野家の両親、ついでに望に何を言われるやら判りはしない。だったら時折からかってくるクラスメイトやら、理不尽な因縁をつけてくる、真雪を好いているらしい一学年下の奴らを無視するほうが、ずっと楽だ。
 こちらの適当な相槌にはなれているのだろう、真雪は特に機嫌を損ねた様子もなく、さくさくと早足で歩を進めている。五分ほどもすると、緑地公園に差し掛かる。美咲台の中央に位置する緑地公園は、小さな公園をいくつも抱えたこの町で唯一他の町に自慢出来る総合運動公園だ。もっとも、浮浪者の数は年々増えていて、それが市を悩ます材料になっていることは否めないのだが、それでも日曜には親子連れが集まる。緑地公園の向かいには、例の建物未満が今朝も変わらず立ち尽くしている。真雪はそれを気にも留めない。けれど、と口中で呟く。あそこは、今日も存在『している』。あの風変わりな彼女があの建物未満を認識している限り。
「どうしたの?」
 不意に真雪が訊ねてくる。匠は視線を建物未満から剥がして肩をすくめて見せた。
「別に」
 死に損なったのが先週の金曜日で、今日は月曜日だ。とは言え、真雪はその事に気付きはしないだろう。真雪だけではない。両親も、望も、例えば今後ろから肩を叩いてきて、そのまま前を歩んでいっているクラスメイトも気付くはずがない。その素振りを見せていないのだから。見せるつもりもない。そしてある日突然この世という舞台から去ったとして、誰が気付くのか。望は毎朝叩き起こす兄がいなくなってせいせいするだろうか、それとも拍子抜けするだろうか。真雪は毎朝自分を待つことをしなくなって他の女子たちと一緒に登校するようになるのだろう。違和感を覚えるのはほんの数日だけで、すぐにそれに慣れる筈だ。誰も彼も。人間は忘却する生き物だ。忘却して、やがてはないものを当然として受け入れて生活を始める。そうして、生きる。少なくとも匠はそうだった。数年前に祖父が他界して、それまでは仲が良かった祖父のことを今では思い出すことすらしなくなっている。それが当然なのだ。そもそも、自分はあの建物未満と同じだ――少なくとも、先週の金曜日まではそう考えていたあそこと同じだ。つまり、確かにそこにあるが、そこにない。眼にしているし、望や真雪、両親にクラスメイト、あるいは塾友といった連中は確かに自分のことを知っているが、しかし突然消えたとしても大して彼らの生活に支障はないはずだ。それは、存在していることになるのか。認識は薄く、すぐ消えるものなら存在に対しての意味もないのではないか。
 真雪との会話も途切れた辺りで、匠はヘッドフォンを耳に当てた。スイッチを弄るとツインリードギターが内耳を揺らした。リズミカルなベースの音に、柔らかな、甘い、フィル・ライノットの声。
 例えば。
 口中で呟く――
 例えば、そう、フィル・ライノット。
 他界してもう何十年にもなる彼は、未だにこの世界に存在している。あるいは、エルヴィス・プレスリー。彼もまた、死後数十年になる今も、確かにこの世界に存在している。認識は強く、存在は消えない。エルヴィスは死んだ。ロックンロールの王様の死を、かつてフィルは一晩中ワインとジンを傾けながら嘆き哀しんだという。けれどその音楽は永遠の命を授かった。エルヴィスの名は永遠に存在し、人々の中に認識されている。そしてその死を嘆いたフィルの名も、フィルの音楽も永遠に存在している。認識されている。
 けれど。
 地球は、それほど広大な惑星か? フィルにしろエルヴィスにしろ、あるいはジミ・ヘンドリックやらジョン・レノンにしろ、死去したあとも存在し続ける人々が確かにいる。別にロックに限った話じゃない――ベートーベンだってチャーリー・パーカーだってそうだろうし、音楽以外でも、宮沢賢治やらピカソやら、ナポレオン・ボナパルトやらヘレン・ケラー、変わったところではアドルフ・ヒトラーやら――死後も名を残している人々は、それこそ腐りそうなほどにいる。それらを全て受け入れている地球は、やがてそのうち存在の飽和に耐えられなくなるのではないのか? 死後も存在し続ける人間がいるのなら、生きているうちから存在を認識されない人間が出てくるのではないのか? 存在がやがて飽和する。そうならないために、飽和する前に除去される人間がいることだって、あるだろう。認識される存在に限度が来ないと、誰が言える?
 そして自分は、おそらくは飽和する前に除去される側の人間だ。匠は陰鬱に独りごちた。もしかしたら、この思考はそもそもの始めから間違っているのかもしれない――肉体だけで生を歩んでいる大多数の大人からすれば、この考えは子供じみたものと鼻で笑うしかないことだろう。今も永遠に存在し、名を残している数多の先人たちと、自分。それを比べること、比べて、陰鬱に沈む気持ちを持て余すこと。それは馬鹿げたことなのだろう。彼らにすれば。
 けれどそれは、違う。先人たちは余人にはない何か特別な力を持っていたというのか? 否、持ってはいない。持っていたのかもしれないが、そんなものは大した差じゃない。何しろ、人の身という器に変わりはないのだ。同じ器を持っていたのなら、そう大した差が生まれるわけがない。なのに、彼らと自分は違う。圧倒的に存在し、生の意味を後世までに残した彼らと、この今の一瞬にすら存在が希薄な自分は、物質の持つ意味ですら違うだろう。重みでさえも。
「――匠?」
 不意に思考を断絶された。視界いっぱいに黒瞳が飛び込んでくる。真雪だ。
「どうしたの?」
 いつの間にか正面にまわりこんで、ついでにヘッドフォンまでご丁寧に外してくれている。真雪も女子にしてはそれなりに身長はあるほうだが、それでも二人の間には少し見上げる程度の身長差はある。正面から真っ直ぐにこちらを見上げる瞳は、揺らぎもしない。それは真雪の癖だった。幼い頃から、人と話すときに真っ直ぐに相手の目を見つめて揺るがせないという癖が真雪にはあるのだ。先日の彼女とは違う、艶やかな黒眼。その瞳に真っ直ぐ見つめられると、慣れていない人間は気後れするだろう。いつだったか、小学生の頃に少しだけこの癖が原因でいじめられていた事もあった。理由は単純――怖いのだ。揺らぎ無く見つめてくる瞳は、何か咎められているかのような錯覚にすら陥らせてくる。真雪の外見は割に整っている――可愛いと称してもいいだろう。頬の輪郭はまだ少しあどけなさを残す丸みがあるが、顔立ちはバランスよく整っている。幼さと、大人になる手前の美しさとが絶妙な均衡で同居している。そんな少女に正面から見つめられれば、戸惑う人間も多いはずだ。そも、大方の人間は人と話すときにここまで真っ直ぐに相手の目を見ることはしない。見ているようで、見ていない。口だったり、目より少し下の頬の辺りだったり、あるいは顔を全体見つめるように始終視線を小刻みに揺らしているのが普通だ。だけど真雪は違う。全体には興味ないと言わんばかりに、ただ真っ直ぐに瞳をこちらの瞳に向けてくる。慣れていないと戸惑うのは事実だろうが、あいにく匠は十三年間、真雪と付き合いがある。慣れていないわけがなかった。正面からその瞳を受け止めて、立ち尽くす。そうする自身とは別の部分の思考が、妙な光景だなと呟いた。
「返せよ、それ」
「いや」
「真雪」
 ヘッドフォンを掴んでいる真雪を叱り付ける様に低く名を呼ぶと、真雪は拗ねるように顔をゆがめた。それでも、ヘッドフォンから手を放そうとしない。左手の白いリストバンドがやけに目に眩しかった。大型のヘッドフォンからは、微かに音楽が漏れ出てきている――
「匠、なんか変」
「普通だよ」
 嘆息し、真雪の手からヘッドフォンを奪い返した。これ以上拗ねられても厄介なので、素直に音を切って歩き出す。暫くは背後から睨まれるような視線を感じていたが、それも少しの間だった。結局いつも通り登校し、昇降口で真雪と別れ、教室に上がり、授業を受ける。何もかもいつも通りだった。先週の金曜日と、まるで変わらない。友人たちの態度も、教師の煩わしさも、色あせた世間のつまらなさも、空気の密度も光の加減も、自分でさえも。
 死を決意する前と、何も変わらなかった。


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