第二章:シャ・ラ・ラ


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 窓際、前から三番目の席に座って頬杖をついて空を見上げる。授業は国語だった。そんなもの習うまでもないだろうと思う――日本語なんて、こうして日常使っている。そんなものをわざわざ勉強する意味のなさに辟易する。成績が悪くなったこともない。受験だって問題なくクリア出来るはずだ。数学にしろ英語にしろ、少しばかり要領が良ければ何とでもなる程度の内容だった。少なくとも、匠にとってはそうだった。つまらないと感じるほどに。
 退屈な授業の間、よく音楽を聴いた。シン・リジィだけじゃない。ロックは全般的に聴いたし、時々は戯れ気味にジャズなんかにも手を出してみたりした。J-popは聴かなかった――好きになれないからだ。制服のジャケットの内側を通して、イヤホンを袖口から出して耳につけて頬杖をついていれば、まぁばれることはない。音はその分絞らなければいけないが。ただ、今週からはそれが出来ない。合服期間が終わって、完全夏服移行してしまったからだ。ジャケットがないとこの技は使えない。そんなわけで、珍しく久しぶりにきちんと授業の声をBGMとしていた。
 見上げた空はただ、青かった。ここ一週間ほど、梅雨だというのに空は乾いたままだ。天気予報士のお姉さん方は毎朝、今年は空梅雨になりそうですと困った顔を装って喋っている。ただ、青い。見上げながら、空想した。この青も、あの風変わりな少女が見れば違った色に見えるのかもしれない。ただの青ではないのかもしれない。実際――
 ふと、まぶたを閉じた。鮮やかに蘇るのは、三日前の金曜日、確かに瞳に焼き付けた眩しすぎる赤を秘めた夕焼けの空。そして、静かに訪れ来る夕暮れの色。交互にまぶたの裏にちらついて離れない。あの色は確かに、ただの赤ではなかった。ただの藍色でもなかった。だとしたら、この青もあのキャットウォークからなら違った色に見えるのかも、知れない。全ての色が違って見えるなら、世界ですらも。この灰色にくすんだモノクロームな世界ですらも。
 訊いてみようか。
 戯れに、そう感じた。あの少女に、世界は何色に見えるのかを訊ねてみたいと感じた。また会えるとも限らないけれど。
 授業は滞りなく進んで行き、一日も滞りなく進んでいく。時計の針はリズムを刻んで時を表現する。クラスメイトに合わせる事も、おべっかの笑顔を浮かべることも何の問題もなく出来る。出来てしまう。J-popの話題にも適当にあわせて頷く昼食時。聞いているふりをして無意味なノートを綴る午後の授業。それも終わると、適当に散らばっていくクラスメイトたち。そんな当たり前すぎる日を過ごしているときに、何かが違う、と感じることがある。それが何かは自分でも判らないのだけれど。ただ、違う。そうして過ごしている事そのものに違和感を覚えるのだ。何か違う。上手くは言えないけれど――教室でTVタレントの話題に盛り上がるクラスメイトたちと自分は、違うのだとそう感じることがあった。それは昔からのことで、たぶん匠以外の誰もが一度はそう感じているであろうということは、最近ようやく考えに至った。誰もが特別だと自覚しているのだ。自覚? ――違う。それも違う。根拠なくそう思い込み、区別しているのだ。区別しているつもりになっていて、結局区別出来ずに曖昧な境界線が溶けている。だから、違うと感じるのだ、おそらく。
 結局金曜日となんら変わらないまま曖昧な月曜は過ぎて、けれどその放課後に少しだけいつもと違う出来事が待っていた。
「――何、やってんだ?」
 放課後の昇降口。上履きのないこの学校では下駄箱なんてものはないが、代わりに昇降口の主として存在している校訓の彫られた石の前、真雪が鞄を抱えながら立ち尽くしていた。
「待ってたの」
 セーラー服の裾を風に靡かせながら、至極当然のように答えてくる真雪に、匠は頭痛を覚えずにいられなかった。呆然と立ち尽くす匠の隣を、なんとなく興味深そうな視線を投げてきながら生徒たちが昇降口を抜けていく。
「何でだよ……」
 うめくと、拗ねるように唇を突き出してくる。確かに行きは一緒に登校するが、下校まで一緒にする理由はない。偶然一緒になることは今まで二度、三度あったが、待たれていたことは初めてだ。さすがに、冗談じゃないと思う。
「だって匠、なんか変だったし――ってちょっと、置いてかないでよ馬鹿っ」
 無視して歩き始めると、後ろから駆け寄ってくる。駆け足にならない程度に歩を速めるが、真雪も真雪で追いすがってくる。さすがに奇異なその光景に、何人かが冷やかしの声を投げかけてきて、匠は苛立たしげに声の主を睨みつける。が、真雪は気にした風もない。
「匠が変だったから心配して待ってたんじゃない、逃げることないでしょ?」
「本日の奇行大賞は絶対お前の方だろうがっ」
「奇行って何よ奇行って、すっごく失礼それ」
「奇異な行動、奇妙な行動のこと」
「そーゆーこと聞いてるんじゃないわよっ、匠って馬鹿」
「お前ね……」
 遠慮の欠片もない発言に、呻きながらに歩を進める。
「大体お前、部活はどうしたんだよ、美術部」
「本日北野さんは腹痛のために部活休みました」
「腹痛い奴は一人でとっとと帰ってろよ」
「じゃあ看病してよ。連れて帰って」
「何でそうなるんだよっ」
 いいかげん埒があかなくなり、この無意味かつ頭が悪そうな会話を通学路で――帰宅途中の生徒たちがわらわらしている中で――続けるのはさすがに憚って、匠はさっと周囲を見渡して人が見ていないタイミングをはかると真雪の細い手首を掴んだ。そのまま、通学路から少しそれた公園の中に引っ張り込む。木陰でため息をつくと、真雪は不服と不満を顔面に張り付かせた表情でこちらを睨み上げていた。
「お前ね、一体どういう了見だよこら」
「こういう状態でその台詞だと、カツアゲかリンチかって感じじゃない?」
「真雪……?」
 低く唸ると、あまり反省はしていない様子で真雪がひょいっと肩をすくめた。
「だから。匠がなんか変だったから、心配して待ってたんじゃない。ねぇ、どうしたの?」
「どうもしねぇし。……だいたい、変って何がだよ。なんか変、じゃ判んねぇし」
 死に損なったことを、それでもやはり変わらない現実に辟易し始めていることを、真雪は気付いているのかもしれないな――ぼんやり、考える。昔から割りと、人の感情の機微に聡いところがあった。それは、彼女の瞳を見据える癖が関係しているのかもしれない。
 けれどそう感じていることはおくびにも出さず、冷めた表情をしてみせる。薄めた視界をこじ開けようとするかのように、真雪はこちらを見据えてきたまま、言った。
「なんか、薄い」
「……はぁ?」
 妙な答えに声を上げると、真雪はさらに拗ねたような顔をして見せた。
「だって、そう感じるんだもの。なんか、薄いの。物理的に、じゃなくて、感覚的に。たぶんいつもと同じなんだけど、だけど違うの。何だろう、心ここにあらず、って感じ?」
「お前の村だけで通じる言語を俺に聞かせるなって」
「匠っ」
 声を荒らげる真雪を軽く手を振って往なす。けれどそうしながらも内臓は少し冷えていた。これ以上会話を続けていると、うっかり見透かされそうだ。それは勘弁願いたい。会話を適当に切って歩き出す。
「あれ? 金曜日の死に損ないだぁ」
 不意に背後から掛けられた声に、匠は思わずうっと呻いてその場に足を止めた。

◆ ◆ ◆ 

 きりきりする胃を持て余しながらぎこちなく振り返ると、公園の噴水の近くに彼女は立っていた。振り返った匠の顔を確認すると、笑いながら近寄ってくる。言うまでもなく、彼女だった。キャットウォークにすむ、野良猫少女。相も変わらず大きなシャツとショートパンツ、それから裸足といういでたちだ。地面に足を縫い付けられて動けずにいる匠に、何の気負いもなく寄って来る。表情筋をつりそうになりながら、何とか笑みを浮かべてみた。匠の隣で、殺気にも似た緊張感がピリピリと空気を震わせ始めている。真雪だ。端正な顔立ちだけに、敵意を表情に選択すると恐ろしいほどだ。その様子を感じ取った『ちびねこ』のほうも、それこそ毛を逆立てる猫のような表情ですっと真雪を見据えた。視線の交差は一瞬だったが、恐怖はそれで十分だった。胃が悲鳴を上げる一瞬に何とか耐えると、彼女のほうはそれで興味を失くしたようだった。真雪を無視するような形で、こちらを見上げてくる。
「生きてたの?」
「え、えぇとまぁ、おかげさまで……」
「あたし何にもしてないよ?」
 言いながら、屈託なくけらけらと笑う。その笑い声が高まるのに比例するかのように真雪の機嫌が悪くなっていくのが判った。空気中の微粒子が揃いも揃って『不穏』という名の別の物質に変化していくかのような居心地の悪さ。
「匠……?」
「いや、は、良い天気でもうすぐ夏だなぁと思ったりなんかしたりして」
「た・く・み?」
「いやだからええと」
「死に損ないって、どういうこと……?」
 低く抑えられた声に、二の句が紡げなくなり閉口した。勘弁してくれ、と脳裏で泣き言を漏らしたくなる。が、そんな匠の様子はどうでもいいのか、『ちびねこ』のほうはきょとんとした表情で真雪を見る。
「死に損ないの友達? 友達、いたんだ?」
「いやごめんちょっと黙っててくれないかお願い」
「ちょっと匠、この子誰? どういうこと?」
「どうって……知らないの? 金曜日、こいつあたしのお城で死――」
 言葉半ばで無理やり体のフリーズを解いた。伸ばした手で少女の口を塞ぐ。が、もはや手遅れだろう。決定的な言葉はなかったとしても、この現状で判らないほど、真雪の頭は軽くない。匠に口を塞がれた少女は、やはり現状を理解していないのか――あるいは理解はしていても興味がないのか――丸い眼をぱちくりとさせているだけだ。
 沈黙。
 長くなった陽は、それでも夕方らしくやや西に傾いている。伸びた長い影を見つめながら、空気が痛む時間を無為に過ごした。ややあってから、沈黙を保っていた真雪が口を割る。
「どういうことよ、匠」
「――お前には、関係ないだろ」
 意識するより先に、冷たい声音が漏れた。感情の入り込む余地すらないような音の響きに、匠自身若干眉を顰めそうになったが、それも押し殺して顔を上げた。首につけたヘッドフォンの重みを今更ながらに自覚しながら、深く浅く、嘆息をつく。
 と――唐突に、真雪の手が腕に触れた。白いリストバンドが巻かれた左手。日焼けもしていない右手。両方の手で強く引っ張られる。匠は思わず少女の口から手を放していた。
「帰るわよ、匠」
 有無を言わさぬ口調で断言すると、そのまま腕を引っ張られた。反射的に、その手を振り払う。こちらを見据えてくる真雪の黒い瞳に、一瞬痛みが走ったのを確かに眼にしながら、匠は視線をそらした。ぬるい風が冷や汗を乾かしていく感触を肌に覚えながら、呟く。
「一人で帰れよ」
「匠!」
「帰れ」
 切り捨てた。
 再度落ちた沈黙は長くなく、すぐに視界の外で誰かが駆け出す音が聞こえた。視線を戻すと、真雪の姿はもうそこにはなかった。
 匠はもう一度漏れかけたため息を何とか深呼吸へと変換して、傍の樹の幹に体を持たせかけた。仰いだ空は夕焼けを迎えるための準備をしているような、淡い色だった。


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