第二章:シャ・ラ・ラ


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「いいの、あの子?」
 隣から覗き込むように見上げてくる少女の言葉に、匠はあいまいな笑みを浮かべた。良いわけがない。明日から面倒なことになるのは目に見えている。けれど、ああいうしか方法がなかった。ああして切り捨てる以外の選択肢を発見できなかった。
「話してなかったんだ? 友達じゃないの?」
「別に。単なる幼なじみ」
「ふぅん? でもあの子、あんたの事好きでしょ?」
 あっさりと告げられて、匠は思わず瞼を下ろした。あっさりと言われていいものでもない。確かに真雪が好意を持ってくれているらしいという事に気付いているかいないかと問われれば前者だが、それは他人に指摘されることじゃない。真雪本人が口に出さない以上、しらばっくれるのが一番だと匠自身は考えているのだから。下手に気付いていることを表に出して、今の関係が崩れてもただ面倒だとしか考えられない。
「……気付いてないふりってことか。ふぅん」
「あーっ、うるさい、文句あんのかよ」
「え、何で? ないよ? 関係ないじゃん」
 喚いてみると実にあっさりとした返事が返ってきて、匠は首を垂らした。そのままずるずると樹の幹に背中を擦り付けながら座り込む。綺麗に整えられた芝生に手をつくと、僅かに草の先が掌を刺した。その刺激が、心地良い。僅かに胸の奥は軋んだが、振り払うように顔を上げた。彼女がしゃがみ込んでこちらを見つめている。どこか優しい色をしたアーモンドに、小さく笑いを返す。それだけで、理由もなく心が少しだけ晴れた気がした。
「――あそこ以外でも、裸足なんだ?」
 何にも覆われていない足の五本の指を視線で示すと、彼女はあっさりと頷いた。
「いつだって、裸足だよ。ルールだから」
「またルール? 誰が決めたんだ、そんなの?」
「あたしのルールを決められるのはあたしだけだよ。裸足は、あたしが決めたルール」
 何か意味があるのだろうか、と考えたが、その答えがうっかり理解の範疇を超えている可能性があることに気付いて訊ねることは出来なかった。曖昧に、頷く。彼女は立ち上がって腕を伸ばすと、呟きとも話しかけてきたとも取れる程度の声音で、言葉を漏らした。
「さっきの子も、ルールがあるね。あんたにもあるのかな。でもそのルールは、あたしとは相容れないルールだ」
 ――答えようがなかったので、独り言だと認識することにして黙っていた。ふと、彼女が笑いながらこちらを向く。笑うと、もとより幼い顔立ちがさらに子供じみる。その無垢さ。
「また、会えたね。偶然」
 再会を喜ぶかのような発言に、匠は一瞬反応が遅れた。吸い込まれそうなアーモンドを凝視しながら、機械的に首を縦に動かしていた。
「ああ。……偶然、だな」
「――でもない、かな? あんた、ミキタの生徒でしょ? ってことは通学路だよね、ここ付近。あたしこの公園、活動拠点だし、どっちにしろいつか会うことにはなってただろうね」
 再会は別に特別なことでもなんでもない、というのだろう。実際彼女の言うとおり匠はミキタ――美咲台北中学校の生徒で、通学路として毎日この公園付近は通る。そしてこの公園の目の前には、例の建物未満。あそこで住む彼女がこの公園を中心に行動していても、何の不思議はない。それでも、何故か匠は彼女に再会出来たことが不思議に思えた。何故か――と思考して答えに行き着く。彼女と出会った時の自分は死ぬ事を前提とした自分で、つまり生きて彼女に会っている今に違和感があるということだ。生きていることに違和感がある。
「でも、なんとなく会わない気がしてた」
 そう言った彼女の言葉には、だからなのか皮肉な笑みが浮かぶのを止められなかった。
「今、俺がここにいることに、違和感がある?」
 生きていることに。
「ううん。あんたがいることも、あたしがいることも、違和感はない。ただ、こうして会話していることにはちょっと違和感がある気がする。理由は判んないけどね。ああ――あれかな」
「あれ?」
「あたしが、あんたのことを覚えてたことに、あたし自身が違和感を覚えてるのかも」
 ――つまりは、それほどに自分はどうでもよかったのか。
 一瞬言葉に詰まり、そのせいで言に発する事はなかったが、それでも顔にはしっかりとその事が刻まれたのだろう。表情を読んだらしい彼女が、いたずらの現場を見つけられた子供のような顔で小さく声を立てて笑った。
「別にあんたがどうってわけじゃないよ。あたし、基本的に人の顔とか覚えるの苦手なんだ」
 その言葉に、妙な感じを受けて匠は眉を寄せた。
 人の顔を覚えるのは苦手。けれど、匠は覚えていた。つまり彼女はそう言っているのだ。
 認識されていた? 彼女の中で?
 それは予想外のことであり、意外でもあった――多少望んではいたが、その可能性はとてつもなく低いだろうとはなから切り捨てていた事柄でもあった。
「何で覚えてたんだろう――って、ああ、そっか」
 匠を見据えながら首を傾げていた彼女が、不意に納得したように頷く。
「何?」
「さぁ?」
 答える気はない、というように彼女がふっと目を細めて笑った。幼い顔立ちが、一瞬大人びて見えた。今までの笑みとは全く種類の異なる、微笑。その笑みを、匠は見た事がある。真雪や、クラスメイトの女子たちが最近時折見せるようになった、得体の知れない何か特別な笑み。ただの好意でもないらしいその笑みの心理までは判らない。
 不思議な感じがした。真雪が浮かべる笑みと酷似した笑みを、彼女が浮かべるその事に。つまり彼女は決して、全く自分と異なる生き物というわけではないのだろう。人であり、真雪と同年齢の少女なのだ。それがまぁ、多少他と違う価値観を有しているというだけで。
「おや、お嬢ちゃん? どうかしたんですか?」
 不意に横手から声を掛けられる。真っ先に反応したのは目の前の彼女だった。微笑が無邪気な笑顔に早変わりし、弾んだ声を上げる。
「シュウさん!」
 傍に歩み寄ってきた男性に駆け寄る彼女を視線で追い、匠は立ち上がった。世界はゆっくりと橙に染まり始めている。滲み始めた空の中、その男性は穏やかな表情で存在していた。
「こんにちは」
「あ、こんにちは」
 挨拶され、匠は反射的に返していた。返しながら、無礼だろうかと考えつつ観察する。ホームレス、だろう。無精髭に、長くばさついた髪。それを覆うようにタオルで巻いている。服装もどれほど甘く点数をつけたところで、小奇麗とは評価出来まい。年齢はいまいち判断できなかった。おそらく四十は越えているだろう。シュウと呼ばれたその男性は穏やかな笑みを湛えたままで匠に問い掛けて来た。
「ミキタの生徒さん、ですか? お嬢ちゃんのお友達かな」
 お嬢ちゃん、は彼女のことだろう。匠はちらっと彼女を一瞥してから、曖昧に首を動かした。
「いや、友達っつーか……」
「単なる知り合いだよ、シュウさん。ほら、こないだ話したじゃん。金曜日の死に損ない」
「ああ、はいはい。金曜日の死に損ない君!」
 至極あっさりとした口調で酷い言葉を口走る彼女に、シュウもまた笑みを絶やさないままで頷く。話されていたのもあれだが、それ以上にその呼称はさすがに居た堪れなくなり、匠は控えめな抗議の声を上げた。
「……あの、その呼び名はちょっと……」
「呼び名なんて何でもいいじゃん」
「何でもいいが俺が嫌がるのはやめてくれ」
 妙にはたきやすい位置にあった彼女の頭を軽く手のひらで押してやると、けらけらと転がるような笑い声が返って来た。夏の夜、涼やかに空気を割る風鈴の音と似ている気がした。心地良く鋭く、心地良く柔らかい。
 名前を告げる気にはなれなかった。別に彼女に倣って名前を捨てようと思ったわけでもないのだが、彼女の中で『金曜日の死に損ない』と認識されている今、その死に損ないと掛井匠がイコールで結ばれるのはなんとなく心地悪い気がしたのだ。そう考えると言うこと自体が、彼女とは違い自分が名前に意味を見出していることでもあるのだろうが。意味は必要だ。理屈なしに事象は成立し得ない。少なくとも、匠はそう感じていた。名前の意味。生きる意味。草木や風や宇宙の意味。人を愛する意味。人を殺す意味。全てに理由は、あるはずだ。その存在や事象が空洞でない限り。
「ねぇ、あんたこの後暇?」
 不意に彼女が訊ねてきた。匠は一瞬何を聞かれているのか理解出来ずに彼女を凝視してから、殆ど無意識のうちに首を縦に振っていた。
「じゃ、決まり。絵、描こうよ。あたし今、絵、描きたい」
「絵?」
「決まりー! シュウさん道具貸してね、行こっ」
 素足のまま、芝生を蹴るように飛び跳ねた彼女が匠の腕をとる。空洞ではないはずなのに、理屈も何もありそうにない彼女の突拍子もない言動に引きずられ、匠は公園の奥へと歩き出していた。夕焼けが鮮やかに世界を染め抜く。
 穏やかな表情で、シュウがその夕陽を見つめていた。

◆ ◆ ◆ 

 家に着く数十メートル手前で歩を緩め、呼吸を整えた。ここまで走ってきたせいで心臓はどくどくと速打ち酸素を求めている。制服の下、下着が僅かに汗を吸い込んでいる。それでも走ってきた様子を外面から追い出すのにはさほど苦労しなかった。数度の深呼吸と、胸ポケットから出した折りたたみ式の小さなブラシで事足りる。スカートの裾をつまんでぴっと引っ張って、肩口に落ちていた長い髪を背中に流す。それで、装丁は整った。
 ついでにリップクリームを塗ってから真雪は顔を上げた。何でもない素振りで玄関を抜け、部屋に上がる。リビングでだらしなくソファに転がっていた母は、真雪の様子に何の疑問も持たなかったようだ。当たり前だと思う。部屋に入って鍵をかけてから、ベッドに身を投げた。当たり前だ。ばれないようにしたんだから。枕に顔を埋めて、ようやく涙が溢れた。
 何でもない素振りを取り繕う方法を教えてくれたのは、匠だった。いじめにあっていた小学生の頃、表情に出すからさらにからかわれるのだと告げたのは匠だった。
『真雪は別に何にも間違ったことしてねえじゃん。だから、何でもないふりしてればいいんだよ。お前らのやってることはくだらない、何のダメージもうけない、ってそういうふりしてればさ、からかわれることもないだろ』
 実際、匠の言うとおりにするように努力してみると、そのうちいじめていた相手方も飽きてきたのか、なし崩し的にいじめは収束した。匠はいつだって上手く周りに合わせていて、真雪はその姿をずっと見てきていたから匠の真似をすることで何とか出来たのだ。それでもその努力に気付いたのは助言をしてくれた匠だけで、両親も先生たちも知らないに違いない。ただ、匠だけが知ってくれていた。いじめが収束してしばらくした後、唐突に『おつかれ』と言って頭を撫でてくれたあの時の事を、おそらく自分は一生忘れないだろうと思う。
 その時から、思ったのだ。今度何かあったら、匠のことは守るんだと。匠が自分を守ってくれたのと同じように、自分のことを知っててくれたのと同じように、匠のことを知っていようと。匠を守ろうと。思っていたのに。
 枕元に置いてあったブルーの小さな熊のぬいぐるみを抱き寄せた。小学生の頃、長崎のハウステンボスに家族で旅行したとき買ってもらった時からのお気に入りだ。肌触りの優しさに頬を寄せると、少しだけささくれた心が落ち着くのが判った。
「ミント、匠は死にたがってたの?」
 囁いてみても、ぬいぐるみから返事があるわけがない。それでもその言葉は真雪自身の胸に突き刺さった。気付かなかった。普段通りの匠と何かが違うと、僅かな違和感は覚えていたけれどそれが何かまでは気付かなかった。先週の金曜日? 記憶の糸を辿っても、匠に特別な変化があったとは思えない。いつも通りだった。少なくとも表面上は。いつも通りの――素振りを、していたのだ。それに、気付けなかった。
 どうして。
 死にたいと願ったことが真雪になかったわけではない。あの頃は。目覚めた時に学校がなければいいと毎夜願った。このまま目覚めなければいいと毎夜願った。けれど夜明けは来た。学校は変わらずにあった。朝が来ない夜はないと、お偉い方は口を揃えて言う。その通りだと真雪は何度皮肉に笑ったか知れない。明けて欲しくない夜はいつだって、明けるのだ。来て欲しくない朝に限って、何度でも襲ってくる。善人の素振りをして、襲ってくる。あの恐怖。
 どうして。
 繰り返し胸中で問い掛けた。ミントを抱きしめて、強く瞼を瞑る。
 匠にもあの不安が、あの恐怖が、あったのだろうか。どうしてその考えに至ったのか。自分とは違って、匠は上手く周りと合わせて生活しているのに。どうしてその事に、自分は気付けなかったのか。
 ミントの優しい肌触りは、優しすぎて何も教えてはくれない。


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