第二章:シャ・ラ・ラ


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 時計の針は九時を過ぎていた。
 風呂上りの火照った体のまま、匠はソファに腰掛ける。コンポのスイッチを弄り音楽を部屋に満たした。流れてきたのはやはりリジィの曲で『サラ』だった。ロックというよりはポップスに近いような、穏やかなメロディラインの曲だ。上半身だけをベッドに横たえて、匠は小さく笑みを浮かべた。このタイミングでランダム再生にしていた中から『サラ』が流れてくることに、ちょっとしたいたずらを感じたのだ。
「――ボクの人生に君が現われ、ボクの世界を変えてしまったWhen you came In my life, You changed my world.、か」
 フィルの歌う英語歌詞を口にして、匠はふっと息を切った。そこまで劇的ではないが、似たようなものだろう。あの野良猫のおかげで、今訪れている夜に不安感を覚えてはいない。それどころか、少しだけ優しい穏やかな気持ちにさえなっている。風呂上りでやや眠気があることを差し引いても、こんな気持ちは久方ぶりだ。
 ベッドに横になったまま、匠はベッドサイドの小物入れの上に視線を投じた。一枚の画用紙が、場違いな自分を恥じ入るように謙虚な様で存在している。
 公園に植えられていたパンジーの絵だ。
 結局あの後付き合わされ、何故かあの少女とシュウと一緒に絵を描いた。シュウは雑草としか思えない野草の絵を、あの彼女は公園の風景画――のように見えなくもない抽象画を。少なくとも美術教師が見れば曖昧な顔をするしかなさそうな絵ではあったが、彼女もシュウも生き生きと筆を動かしていた。安い画用紙と、安い絵の具が数種類だけ。足りない色は混ぜ合わせたり、時には葉や花を搾って色をとっていた。伸びやかな筆で描かれるそれらの絵は、決して上手という括りでは肯定できないだろうが、インパクトはあった。対して自分の描いたパンジーの花は、そこそこ上手に描けたとは思うのだが、インパクトはない。それがもしかしたら、自分と彼女たちとの決定的な差異の表れなのかもしれない。
 突飛な言動をして、無垢な笑顔を浮かべる彼女と、その横で穏やかに微笑むシュウ。シュウの描いた花は匠の描いたパンジーよりも光合成を楽しんでいそうに見えた。シュウの絵を見つめていた匠に、何故か彼女のほうが得意げに教えてくれた――毎週土曜日には、公園で絵を広げてシュウは商売をしているそうだ。彼女自身も毎週手伝っていて、中には毎週通ってくれる熱心なシュウのファンもいるらしい。
 毎日傍を通っているあの公園でそんな事があったなんて、匠は今まで知らなかった。自分の中の世界は学校と週二で通っている塾と自宅、それだけでしかなかったのに、こんなに身近に言ってしまえば異世界が存在していた。絵を描き、売るホームレス。裸足でキャットウォークに住む少女。想像もしていなかった、身近な異世界。
 ただしそれは、少しばかり今までの日常に亀裂を走らせる要因とはなった。真雪のことを思うと、若干胃が重たくなる。他意はないというと嘘になるだろうが、傷つけるつもりはなかった。ただ、あの時は――目の前にあった異世界に焦がれた。現実に引き戻そうとする真雪の手がただ、煩わしくて。
 似たようなもんだ。匠は瞼を閉じて独りごちた。似たようなものだ。そこそこ古くそこそこ安い日本の一軒家の中で、ロックを流していることも、共同社会の中で上手く周りに合わせながらどこか浮ついている自分が生きていることも、毎朝迎えに来る真雪も、居心地悪そうに咲いている安い画用紙の中のパンジーも全て、似たようなものだ。どこかしら、何かしら、違和感がある。違和感を抱えている。他者との差異を埋められないでいるのに埋めようとしている。他者とは明らかに別個の存在として確立している彼女やシュウとは違う。そこに、憧れる。
 おそらく明日から、日常の方には多少の歪が生じるだろう。真雪のこと。あるいは、野良猫たちと触れ合ったことで、上手く周りに合わせられる自信が揺らいできた自分のこと。それでも、それを補って余りあるほど、今日のあの夕暮れの一瞬は記憶に刻み込まれていて、おそらく自分はそれを生涯記憶し続けるだろうと思った。

◆ ◆ ◆ 

 翌日から、玄関先に真雪の姿を見ることはなくなった。
 しきりに何があったと問い掛けてくる望をかわすのには辟易したが、それも一週間もすれば自然と収まった。結局、そんなものだろう。日常は変化にも容易に対応する。容易すぎるからこそ、変化を変化と見られない。つまり、刺激は薄れていく。
 僅かな空虚感を意識することはあった。けれど、その程度だった。自然な素振りを取り繕うことも問題なく出来た。それだけ、慣れていて身に染み付いているということだろう。ただ、違和感を意識すると疎外感は増す。真雪と関わることがなくなった分、増した疎外感――何に対する疎外感かは自身でも把握できなかったが――の分、匠は彼女たちと会う事でそれを埋めようとした。塾のある水曜と土曜以外の放課後を、匠は公園に寄って野良猫とホームレスと過ごした。特に何か意味のある事をするわけでもない。絵を描いたり、話をしたり、公園を散歩したり、本物の野良猫と遊んだり、時々は空き缶回収を手伝わされたり――そんなものだった。
 シュウはほぼ毎日、絵を描いていた。飽きることのない様子で、次から次へと、まるで何かに取り付かれたようにただ筆を握る。画用紙に咲いていく野草は、社会に対する敵愾心やら何かを一切持ち合わせていなさそうで、それがなんだか描き手によく似ていた。
 野良猫は相変わらず世間体なんてのは無視するどころか存在すら忘れている様子で、やりたいことをやっていた。寝る時間もまちまちらしく、夕方に会いに行っておはようと声を掛けられたことも少なくない。好奇心は旺盛なようで、時折匠に対しても質問をぶつけてきた。
「ねぇねぇ、あんたいつも首からそれ下げてるけど、音楽好きなの?」
「ああ、うん。好き」
「どんなの聴くの?」
「ほとんど洋楽。ロックばっか」
 ヘッドフォンを貸してやると、興味津々といった様子で耳に当てた。流れ出たノリのいいライブアルバム音源に、野良猫がぱちくりと目を瞬かせる。
「シン・リジィ? ヤツらは町へボーイズ・アー・バック・イン・タウン?」
「知ってんの?」
 今度目を瞬かせるのは匠の番だった。ロックファンなら知っている人間も多いだろうが、ロックを聴かない人間がリジィを知っていることはかなり珍しい。匠の目が丸くなったのを見て、野良猫が笑う。
「好きだよ、リジィ。前、よく流れてたから、聴いてた」
 ――どこで?
 不意に胸中に沸いた問い掛けは、匠の口内で外に出されることなく溶けていった。言えなかったのは、野良猫の横顔に僅かに走った、痛みのような苦味のような郷愁のような、表現のしようのない複雑な色を見たからだった。気付かなかったふりをして、匠は微かに笑った。
「よかったら、貸すけど?」
「音楽鑑賞できるような環境、ないよ」
「MDでいいなら、ポータブルプレイヤーと一緒に貸してやるよ。俺もう使わんし」
「ホント? ありがとう」
 使わなくなったポータブルMDプレイヤーと、好きな曲を編集したMDをセットで貸すと、野良猫は気に入ったようだった。
 二週間目に、土曜日の塾をサボった。シュウと彼女のやる『仕事』がどうしても見たくなったのだ。ブルーシートの上に広げたシュウの幾枚もの花の絵は、公園を散歩する老若男女の足を止めた。常連を自称する美大生の女性は嬉しそうに絵を吟味する。ねだる子供に父親が苦笑しながら絵を買い与える。何人か、同級生にも会った。彼らは一様にその場に匠がいることに驚愕の表情を見せていたが、匠は彼らの驚く様子が楽しくて仕方なかった。ついでに何枚か買わせてみたりした。塾で勉強してばかりだったここ数ヶ月の土曜日を吹き飛ばすような、そんな晴れ渡った土曜の空だった。
 帰宅後、母が曖昧な顔で迎えてくれた。塾側から連絡が行ったのだろう。
「匠、あんた今日塾――」
「うん、サボった」
「匠」
「来週は行くよ、たぶん」
 早々に会話を打ち切って、自室に閉じこもる。鍵はかけないが、母親はこちらに踏み込もうとはしない。そのくせ、扉の向こうから小言が空気のように入り込んできた。「あんたは望とは違って真面目だから安心してたのに」「何かあるなら理由を教えなさい」「勝手にサボったりして、受験が控えてるんだから」――
「うっぜぇ……」
 延々続きそうな扉の外からの小言に、匠はうなだれて布団を頭から被った。こうなるであろうことは予想していたし、あくまで覚悟の上でサボったつもりだったが、それでも実際にやられると滅入るのは確かだった。何も望と比較しなくても、と思う。
 ――真面目でいい子なんて、今までそうじゃない自分をやるのが面倒だったからやらなかっただけであって、実際のところ全部を許容していたわけでもないのに。
 学校にしろ両親にしろ反抗するほうが面倒くさいのが判っているからしないだけであって、周りに合わせているほうが楽だからしないだけであって、そうしようとしているわけでもない。そうしようとしているのは、むしろ真雪だろう。匠の姿を見て真似た部分があるせいか、真雪はいやに真面目なきらいがある。今日のことが真雪の耳に入ったらまたうるさいことになるのだろうと確信にも似た予感が胸をよぎって、さらにため息は深くなる。
「お兄、塾サボったってマジかー!」
 と――唐突に、騒がしく扉が開かれた。お兄、お兄と騒ぐ声に叩き起こされ、匠は布団から顔を出した。時計を見ると一瞬の間に時間が三十分ほど消えている。どうやら気付かないうちに眠っていたらしい。シーツをばしばしと無遠慮に叩く手を払いのけると、やけに弾んだ顔の望がそこに立っていた。
「塾サボったってマジ? マジ?」
「……なんでお前そんな嬉しそうなんだよ……」
 訳が判らない、と匠が顔を顰めても、望は気にする様子もない。幼い顔立ちににやにやとした笑みを満面に浮かべながら、ひゅうと口笛を吹く。
「うわあ、マジかー。マジかー。うははは。やっべ。やっべ。明日辺り雪降るんじゃね? お兄が反抗的ですよ。ようやく反抗期か。おかん泣きそうだったぞー。何で何で。そういうの面倒なんじゃなかったん? フォロー面倒とか言ってなかった? どういう心境の変化? あ、あれか! 女? 女? ねぇお兄、女? 誰々、どんな奴? オレにも紹介してくれげふ」
 息継ぎなく一気にべらべら騒ぎ立てる望を全力投球の枕でとりあえず黙らせてから、匠はゆっくりこめかみを揉んだ。
「黙れ、小坊」
「なーんだよ、せっかく忠告持ってきてやったのに」
 拗ねた様子で意味深な台詞を吐く望に、匠はうんざりしながら目をやる。
「忠告って何だよ」
「今、家出ないほうがいいぞって。外見てみ?」
 ほれ、と親指で窓を示され、匠はさらに渋面を深くした。まだ眠気の残る体を引きずってカーテンを開く。夕暮れ過ぎだったはずの空はすっかり夜に侵食されていた。視線を軽く下げると玄関が見える。家のすぐ前の街灯の下、人影が二つ。片方は部屋着にエプロン姿の中年女性。片方は制服のままの女子中――
 最後まで確認し終える前に、匠はしゃっと勢いよくカーテンを閉めていた。
「……ちょっと待て」
 今見た光景があまりに危惧していたそれと似すぎていて、匠は静かに呻いた。額を窓ガラスに押し付けて、カーテン越しの清涼感で何とか頭を冷やそうとする。が、あまり効果はない。
「もー、外空気ピッリピリだぜー。真雪姉マジ顔怖ぇし、おかんはずーっと愚痴ってるし。お兄判る? 偶然帰りにその現場に出くわしたオレの心境。泣くよ? 匠はあんたと違って真面目だから安心してたのに、匠まであんたみたいに問題起こしたら、あんたときたら、ってずっと言われんの。いやーもう、勘弁してよ。お兄のせいだかんな」
「……ごめん」
 その光景を妙にリアルに脳裏で再現してしまい、匠は素直に謝った。確かにそれは望じゃなくても嫌だろう。望はよく通る声で笑うと、そのまま踵を返して扉に向かった。どうにでもなれと不貞寝を決め込もうと布団を被った匠のもとへ、望の声が届いてくる。
「お兄」
 布団の隙間から顔を出すと、望は扉から頭をひょっこり覗かせたまま訊ねてきた。
「楽しい?」
 ――意図の知れない質問だった。何に対して訊いているのかも判らなかった。唐突で意味深でその上意図の判らない問いかけに、けれど匠は自然と笑みを浮かべて答えていた。
「うん」


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