第二章:シャ・ラ・ラ


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 月曜日は珍しく雨だった。
 久しぶりに出番になった傘を手に家を出ても、玄関前に真雪の姿はなかった。なんとなく安堵の息を漏らして足を進める。重たげに体を横たえている灰色の空からは夏間近の太陽は見えなくて、夏服のままだと少し寒いほどだった。それでも、久しぶりの雨は道端の雑草には恵みなのだろう。茂り始めた草は天に向かって腕を伸ばし、近所の家の庭に植えられている紫陽花は鮮やかな紫を、今年最後の姿とするように誇っている。暫くすれば枯れるだろう。夏はもう、すぐそこに来ている。
 匠は雨が嫌いではなかった。というよりも、雲が好きなのだ。雲ひとつない晴天は居心地が悪い。晴天は何も含んでいない。けれど雲があれば、雨になったり雪になったり、太陽を時に隠したりする。そういうのが好きなのだ。何もないよりは、少しでも何かを含んでいたほうがいい。それに雨音は耳に優しい。アスファルトを叩く雨音と土壌を叩く雨音の違いもある。そんなことは誰も気にしてはいないだろう。けれど、それで良い。灰色の世界が正しく灰色に染まる姿も、見ていて何故か安心した。青空は、少し、鮮やか過ぎるのだ。
 授業はやはりいつも通り退屈で、けれど教師の話の合間に滑り込んでくる雨音が少しだけ嬉しかった。いつも通り授業を終えた後、足は自然に美咲台緑地公園へと向かう。ここ二週間ですっかり習慣となっていた。
 その足が――ふいに、止まる。
 意識しての行動ではなかった。足が歩を進めるのをやめてから、理由が判った。目の前。いつも通り公園の中核にある噴水の前。彼女がいる。この雨の中だというのに変わらず素足のまま、噴水を背に立っている。雨具代わりのつもりかビニール袋で作ったような粗末なレインコートを被っている。その隣には同じような格好のシュウが、困ったような表情を張り付かせて立っている。彼女と彼の前には、赤い傘があった。――正確には傘を広げてたっている、一人の少女らしき後ろ姿。顔は見えない。けれど、その髪の長さもセーラー服も、全て見覚えがあるどころかよく見知っている。ここ二週間ほど顔は会わせていない。同じ学校で家が近くても会わなければ会わないものだ。それでも、判らないはずがない。雨音の合間に、聞きなれた少し甘い声が届いてくる。雨音が聞きたくてヘッドフォンを首に下げていたことを、音楽を流していなかったことを、匠は心中で後悔した。言葉が否が応にも内耳に入り込んでくる。脳を満たしていく。
「匠と関わらないで」
 冷たい声に、野良猫のほうはきょとんと目を瞬かせるだけだ。匠が誰だかも判らないのだ、彼女は。それでも後ろ姿の中学生は言葉を紡ぐことをやめない――
「土曜、匠塾をサボったんだって。何でって思ってたら、先輩の一人が教えてくれたの。公園で変な女と一緒に妙な絵を売ってて、買わされたって。それ、あなたでしょう?」
「あたし別に変じゃないよ」
「はぐらかさないでよ」
 まるで陳腐なテレビドラマだ。そんな言葉が脳裏をよぎって、けれど匠は苦笑も何も出来なかった。それこそテレビドラマでも見るような心境で、目の前で広げられている光景を、ただ光景として知覚するしかなかった。枠の中にある、別次元の何か。手を出すことも口を挟むことも出来ない。何故ならそれは、ここではないどこかで起きている偽物だから。そう、偽物だ。イミテーション。作り物だ。何が作り物なのだろうとぼんやり思考は問いを残していく。世界が。日常が。全てが、作り物なら。今これを見ている自分はどうなのだろう。判らないまま、微動だにすることも出来ずに立ち尽くした。雨粒が安い傘を叩いてぱらぱらと音を広げていく。
「あいつが、来たいって言ったんだ。だから、あたしはいいよって言ったの。それだけだよ」
 野良猫のあっさりした答えは、けれど十分に棘を含んでいた。シュウがいさめるように彼女の肩を抱く。その手を払いのけて、野良猫は中学生を睨み上げた。
「妙な絵って何のこと? あれはシュウさんの絵だよ。シュウさんの絵を妙って言うな」
「そんな事は今はどうだっていいでしょう? 私は匠と関わらないでって言ってるの」
「どうでもよくない。重要なことだよ。物事の本質を見極められない人はいつもそう言うんだ。大人と一緒。くだらないことを重要って言う。本当に大切なことを知らない」
 噛みあわない話は、けれど中学生の――真雪の感情に油を注ぐものでしかない。シュウは困った顔のまま、顔を付き合わす二人を引き剥がそうとしている。匠はそれを見つめるしか出来なかった。真雪が声を荒らげ始めていた。
「そうやっていつも匠を言いくるめてるわけ? 立派に洗脳出来そうよね! こんなところで馬鹿みたいにホームレスやってないで新興宗教の教祖様にでもなれば? 信者だっていっぱい出来るでしょう! 勝手にやってればいいわ。けど、匠に関わらないで! 貴女と関わることで匠が迷惑するじゃない。私だって迷惑よ、こんなとこにあんたみたいな馬鹿がいるのなんて、許容できないわよ。匠に取り入ってどうするつもりよ。何がしたいのよ!」
 暴言でしかない叫びは、終いには泣き声に変わっていた。怒鳴られた当の彼女は強張った顔で立ち尽くしている。唇が色褪せているのは、肌寒さのせいだろうか。
「これ以上匠に関わらないで。あなたと関わることで匠に悪い影響があったら、あなたはどうやって責任を取るつもり?」
 静かな泣き声の合間に滑り込んだ言葉に、野良猫はすうっと表情を消した。
「――あんた、死に損ないの、何なの?」
「そんな呼び方しないでよ!」
 手が、出た。真雪が裏返った声で叫びながら彼女のレインコートを引っ張ったのだ。安いビニール袋の簡易レインコートはそれだけであっけなく破れる。「やめなさい!」シュウの叱咤の声に、けれど二人とも微動だにしなかった。静かに視線を結び合っている――
「これも、重要なことだよ」
 野良猫が、表情を消したまま静かに呟く。
「あんたがあいつの何かなんて知らないし興味ないけどね。恋人? 妹? 友達? 別に何でもいいけど、ひとつだけ教えてあげるよ。他人の人生に口出しできる奴なんていないんだよ。家族でも恋人でも友達でも。そいつの人生に口出しできるのは本人だけだ。周りがどうこう言うことじゃない。土曜にあんたたちと一緒にいることじゃなくてシュウさんとあたしと一緒にいることを選んだのは、あいつの責任。あいつの選択。あんたがどうこう言うことじゃない」
 瞬間、赤色が跳ねた。
 ほぼ同時に甲高い破裂音が匠の耳に届いた。真雪が傘を放り出して空いた右手で彼女の頬を打ったのだ。その事実に理解が及んだ瞬間、動かなかった体が弾くように動いていた。バッグと傘をその場に放り出し、水捌けの悪い地面を蹴り、駆け出す。
「ちびねこ!」
 意識せず口から漏れた叫びは、真雪の名ではなく彼女の呼び名だった。匠自身その事にやや驚きながら、真雪と彼女の間に体を滑り込ませていた。雨を全身で浴びながら、真雪と向き合う。真雪は赤らんだ頬のまま複雑な顔で匠を見上げていた。
「……どういうつもりだよ」
 後ろ手に野良猫の手首を掴んだ。掴んで、驚いた。僅かに震えている。怖かったのだろうか。そう考えて不思議な気がした。彼女にも怖いものがあるのだろうか。それは判らなかったが震えは確かに本物だった。落ち着かせようとして、少し強く握った。掴みながら、真雪を見つめた。こんな時でも真雪は瞳を揺らさない。正面からこちらを見つめてくる夜に似た黒瞳。
「何で俺に言わないんだよ。何でこいつのとこ来るんだよ。こいつは何の関係もないだろ。塾をサボったのも放課後こいつに会いにいったのも、こいつの言うとおりだよ。俺がシュウさんとちびねこと会うことを選んだ、それだけだよ。ちびねこは何の関係もねえよ」
「死にたいって」
 強張った言葉尻に、真雪が口を挟んできた。心臓を捻られる様な思いで目を見ると、真雪も同じような表情を見せていた。
「――死にたいって、思ってたの、匠?」
 いまさら否定してどうにでもなるものじゃなかった。雨粒がこめかみを伝い顎を滴っていくのを感じながら、匠は唾を飲み下す。低い声が漏れた。
「そうだよ」
「なんで」
「なんでも何もねえよ。死にたいって思ったから、死のうとしただけだ」
 真雪の目が揺れるのが判った。涙が夜の瞳を覆っていく。見ていられなくて、けれど目を外すことも出来なくて、匠は僅かに顔を顰めるしかなかった。
「それだって」
 真雪の声が、彼女の腕と同じように震えていた。震えを誤魔化すように、真雪が叫ぶ。
「それだって、どうせその子の影響でしょう!?」
 叫びに殴られたように息が詰まる。瞬間的に上げそうになった手を何とか押さえ込んだ。言い掛かりだ。あまりに酷い言い掛かりだった。熱くなった脳のせいで、違うと叫ぶ声さえ喉の奥に張り付いて出てこない。けれど真雪の声は、頭をただ、揺さぶった。
「その子に変なこと言われたんでしょう? 匠の意思じゃないんでしょ!?」
 どこか乞うような響きも篭った叫びに、匠はきつく瞼を瞑る。駄目だ。胸中で声がした。駄目だ。このままこの場にいては、自制が出来ない。すぐさまにでも罵倒の言葉を叫びそうに震えている喉を誤魔化して、何とか声を捻り出した。いつの間にか真雪を諌めるように強く肩を抑えているシュウに向かって届くだけの声音で、低く呟く。
「ごめん、シュウさん」
 瞑れた言葉に、シュウが穏やかに苦笑したまま頷く気配を感じ、次の瞬間、匠は駆け出していた。傘もバッグも、真雪も、その場に残したまま。ただ、彼女の手首は放さなかった。
 雨が視界を覆いつくしていた。

◆ ◆ ◆ 

「派手に濡れちゃったね」
 キャットウォークに腰をかけた状態で彼女が笑った。濡れた体を粗末なバスタオルで拭きながら、笑う。壁にもたれ掛った匠は、その姿勢のままただ見上げるしかなかった。彼女は屈託のない表情のまま、笑う。
「ねぇ、髪拭かないと風邪ひくよ?」
 匠は答えられなかった。渡されたタオルは、力なく投げ出された足の上に乗っているだけだ。指一本動かすのさえ、今は辛かった。なのに彼女は、笑う。真雪のことを怒ることもない。真雪のことで匠に言葉をかけることもない。それが解せなくて、納得がいかなくて、匠は何も言えなかった。悔しいのか、悲しいのか、それすらも判らなかった。
 ただでさえ薄暗いキャットウォークは、灰色の空の今日は一段と暗かった。夕焼けも望めないだろう。その暗さは夜に似ていて、つまりは不安に似ている気がした。薄暗さを僅かに追い出すように、アンティーク調のライトスタンドがささやかな明かりを灯している。どうやらゴミ捨て場で拾ったらしい乾電池式のそれは、上部に飾られた白亜の天使の翼が欠けている。捨てられた天使は、堕天使になったから捨てられたのだろうか。それとも捨てられてから堕天使になったのか。
「もー」
 不意に間近で声が聞こえ、匠はライトスタンドに落としていた視線を上げた。眼前に彼女の顔がある。いつか見た、少しだけ大人びた微笑。薄茶色の瞳を見つめたまま動けずにいると、彼女の手が足に乗っていたバスタオルを拾い上げた。そのまま、彼女は匠の髪をバスタオルで乱暴に拭いた。乱暴だがどこか優しいそれは、子供のころ風呂上りに親にされた行為を思い出させる。悩むことなんて何もなく、ただ馬鹿みたいに走り回っていたあの頃。真雪とだってあの頃は上手くいっていた。周りとの疎外感なんてなかった。いつから、感じるようになったのだろう。このどうしようもない、世界からの疎外感は。
 顔が熱くなった。それが涙が込み上げてきたせいだと感じた瞬間、匠は顔を伏せていた。見られたくなかった。泣いたのなんていつ以来だろうか。少なくとも中学に上がってからは記憶にない。けれど確かに今、泣き出す寸前だった。匠は伏せた顔を、彼女の肩に預けた。髪を拭く彼女の手が、止まる。彼女の肌は冷たかった。薄いシャツ越しに感じる体温は、少なくとも涙の温度よりは低いはずだ。涙は熱すぎる。そう思ったのに、頬を滑ったそれは意外と冷たかった。バスタオルがするっと肩に落ちてきた。彼女の手が、ぽんぽんと匠の頭を叩く。ぽんぽんと繰り返されるそれが優しすぎて、涙を堪える事は出来なくなった。言葉が、震える。
「死にたい」


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