第三章:娘ざかりのお嬢さん


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「座りましょうか」
 そう呟かれた言葉は酷く優しくて、何の抵抗もなくするりと真雪の中に染み込んでいった。
 あの日、匠が彼女の腕を引いて走り去った後、真雪に出来るのはただ泣くことだけだった。お気に入りの赤い傘も放り出して、雨に打たれながら、他のホームレスや通行人の好奇な視線に晒されながら、出来ることはただ、泣くだけだった。雨のせいで指先は冷えていて、涙腺はネジが二、三本飛んでいた。その真雪の手に触れたぬくもりが、シュウだった。声をかけられ顔をあげた真雪に、シュウはただ微笑んだ。そのまま、その場に落ちていた傘や鞄を拾い上げると、まるで周りの視線から真雪を守るかのように真雪の肩を支えて歩き出した。緑地公園の中でも人気の少ない小公園に連れて行ってくれ、そこにあった砂山の土管の中に荷物と真雪を入れた。雨音が奇妙に反響する土管の中へ、シュウは自分のテントからタオルまで持ってきてくれた。所持品の中で一番綺麗なタオルを選んだのだろう。幾度も洗濯されてほつれ始めてはいたが、そのタオルはホットミルクみたいに優しかった。
 砂山の土管は、子供だって背をかがめなきゃ入れない狭い場所だ。その中に中学生の真雪と、いい年のホームレスが一緒に入っているのは何だか奇妙に思えた。コンクリートの土管は、狭くて暗くて、息苦しい。それなのに、その場所は優しかった。子供の頃は、よく親に連れられてこの緑地公園に来た。この小公園のこの土管で、匠と走り回ったことだって何度もある。今のように雨宿りに使ったこともある。耳を済ませれば、土管の反対側から『まーゆきっ』と小さな匠が飛び出して来そうにさえ、思えた。
 雨音が土管の中に染み込んでいく。わんわんと反響する土管の中では、自分のすすり泣きさえ増幅して耳に届いてきて、少しだけ恥ずかしかった。それでもそのうち、気付くとすすり泣きはおさまっていて、雨音だけが土管に静かに響いていた。
 シュウは何も言わなかった。真雪も何も言わなかった。ただ、安っぽくて肌触りが粗いタオルを大切に抱きしめていた。
 真雪が泣きつかれ、静かに繰り返される雨音も相まってうとうととし始めた頃になってようやく、シュウは言葉を漏らした。
「雨は好きですか?」
 雨音の中で囁かれた言葉は、夢の中の言葉のようにふわふわしていた。だからなのか、真雪も夢見心地のようなふわふわした気持ちのまま答えていた。
「嫌いです」
「そうですか」
「だって、じめじめするし。靴、汚れちゃうし。傘持って歩くの面倒だし。頭痛くなるし。寒くなるくせにプールの授業やめにならないし。お母さん、洗濯物乾かないってぶつぶつ言うし」
「ああ、洗濯物は確かに困るんですよねえ」
 徐々に言い訳じみてきた真雪の言葉に、シュウは笑いながら同意する。けれど、同意しながらもその顔がお風呂場の湯気みたいだったので、真雪はシュウの横顔を見上げて訊いてみた。
「好きなんですか、雨?」
「はい。好きですね」
「……洗濯物、乾かないのに?」
「洗濯物、乾かないのにです」
 お風呂場の湯気と同じ温度で、シュウは笑う。土管の外で、土の地面をぱらぱらと叩いている雨粒を見つめて、彼はそのまま微笑んでいる。
「ほら。草も花も木も、嬉しそうでしょう。だから、私も嬉しいんですよ」
 人差し指が伸びる。その先には、夏色の葉を茂らせた木があった。花があった。草があった。そのどれもが、久しぶりの雨を喜んでいるように見えた。
「でも、喜んでるのは草花で、おじさんは洗濯物が乾かなくて、困るじゃないですか。草木が嬉しいからって、自分の嬉しさにはならないです。なれないです」
 他人の喜びを自分の喜びと感じる。シュウはそう言いたいのだろう。それが美徳だということは真雪にだって判った。けれどそれを納得出来るほど、真雪は善人のつもりもなかった。
「違いますよ」
 シュウはそんな真雪の気持ちを見透かしたように笑っていた。
「私が、嬉しいんです。私は絵を描きますから。雨露に濡れた後の草花はとても生き生きしていて気持ち良さそうなんです。そうすると、私も気持ち良くなって筆が乗る。そうやって描いた絵はやっぱり気持ち良い絵になる。そういう絵はですね、やっぱりちゃんと売れるんですよ。そうすると、私も生活できるわけです。ほら、意外と俗物的でしょう」
 種明かしをするマジシャンのような顔で微笑まれ、真雪は思わずつられて笑っていた。薄暗くて狭い土管の中で笑うシュウの子供っぽさに、思わず笑っていたのだ。血管に詰まりかけていた澱みが、薄れたのが判った。
「どうして、絵を描くんですか?」
 気付くと真雪は、シュウにそんな質問を投げかけていた。
「何か意味があるんですか?」
 シュウは一瞬だけ思案するように唇に手を当てた。真雪はその仕草を見つめる。
「ナスカの地上絵です」
「――は?」
 唐突な言葉に、真雪は思わず裏返った声をあげていた。その答えを告げた主はというと、伝わらなかったかと困ったような顔で呟いてから、もう一度土管に妙な言葉を響かせる。
「知ってますか、ナスカの地上絵?」
「知ってます、けど」
 それが一体、どういう意味を持つのかまでは判るはずがない。曖昧に言葉を濁す真雪に、シュウは変わらない笑顔で続ける。
「ですから、私が絵を描く理由です。ナスカの地上絵みたいな物だって思ってるんですよ」
「思いっきり画用紙じゃないですか」
 半ば反射的に突っ込んだ。シュウが声を立てて笑う。
「そういうことじゃ、なくて。つまりですね。私は絵を描くことで何かを示そうとしているんだと思います。それが何なのかは困ったことに私にも判りません。それは今は見えないんですよ。私はただ、日々描くだけです。今は一枚でも多く、描くだけです。それがたくさんたくさんたまって――」
 す、とシュウが人差し指を立てた。顎を上げ、土管の向こうの空を見上げる。
「いつか私が、空に逝くことになった時。素敵な絵が、上から見ることが出来たら。それは優しいことだと思いませんか?」
 いつか空から地上絵を見るために、今はただ描いている。
 尊いもの。
 ふいに脳裏に単語が浮かんだ。尊いもの。シュウの生き方はきっと、尊いものなのだ。美しすぎて、少しばかり壊れ物じみていて、こんな世の中には生きていくのが難しいような、尊いものなのだ。彼が何故ホームレスになったのかは判らなかったが、なんとなく、理解は出来た。美しすぎて壊れやすい尊いものは、世の中には馴染めなかったのだろう。自分や匠のように、周りに合わせることが出来ないのだ。それはもしかしたら、あの少女も同じかもしれない。
「ただ、地上絵は難しいですね。描いている間は何かは全く判らない。だから自分が何をしているかを知らないまま迷ってしまう。私もそうなることがあります。多分、匠くんも、お嬢ちゃんも、あなたも。そうじゃありませんか?」
 薄暗い土管の中でも、シュウの笑みは何故かはっきり見えた。その笑顔に答えられる顔を作る自信がなくて、真雪はそっと顔を伏せた。
「判りません。そうだとしても、私の絵はきっと、すごくいびつです」
「いびつなほうが、空から見る時きっと判りやすいですよ」
 シュウは微笑んで、もう一度空を示す。
「私は少し、急いでるのかもしれません。毎日毎日、たくさんの絵を描きます。それは少しでも、絵を大きくしたいからなのかもしれません」
「……ナスカより、ですか?」
「はい」
 真雪の言葉に、シュウは自転車に始めて乗れた子供みたいな顔を見せた。
「ナスカの地上絵より、大きくて、いびつで、美しい地上絵が見たいんです。私はこの美崎台に、ナスカより大きな地上絵が、見たいですね」

◆ ◆ ◆ 

 あの日、シュウに言われた言葉がいつまでも耳に残っていた。家に帰ってきてから、考えた。昨日も今日も、ずっと考えていた。考えていくうちに息が詰まってきて、気付くとカッターナイフに手が伸びていた。弱いな、とは思う。だけど、どうしようもなかった。
 強くなりたいと思う。こんなふうに自らを痛めつけることでしか澱みを吐き出せない弱い人間じゃなくて、強く真っ直ぐに生きられたらと思う。ずっと匠みたいになりたかった。人に合わせられて、他者の弱みにも気付けて、優しい。そうありたいと思っていたのに、手に入れたのは左手首の傷だけで、結局匠の痛みにすら気付けないでいた。それが悔しい。匠のために何かをしたいと願っていた。それなのに自分は結局、匠を追い詰めていただけなのかもしれないと気付かされた。それが悔しい。
(今、何を考えてるの?)
 斜向かいの掛井家を眺めながら、胸中で問い掛ける。問いに答える声は、ない。

◆ ◆ ◆ 

 翌日もまた、雨だった。
 天気予報士は、久しぶりにまとまった雨になりそうですとテレビの中で微笑んでいた。雨は土曜日まで続くという。水不足やら農作物への影響やらは緩和されるのだろうが、それでも真雪はやっぱり雨を好きにはなれなかった。
 言い訳はいいかげん通用しないだろうと感じたのと、学校をサボるということに対する罪悪感とで、登校することにした。もっとも、匠の家に寄る勇気はさすがにない。いつもの八時より随分早くに家を出て、掛井家の前を素通りした。望にも随分会っていない。もっとも、兄の匠と違って、望はそれほど心配することはないかもしれないが。規則正しく響く雨音で、気分は陰鬱に沈んでいく。学校でも出来るだけ三年生と関わるような場所を通るのは避けた。放課後も下校時刻ぎりぎりまで部室で時間を潰した。避けていたってどうしようもないことは知っているが、他にどうすればいいのか判らなかった。雨は放課後になってもまだ続いている。
 怒鳴り声が雨音を割って耳に届いてきたのは、家路に着いている最中だった。
 緑地公園の中だ。我知らず止まっていた足を意識して、真雪は傘を握る手に力を込めた。通学路脇の緑地公園の中から、男性の怒鳴り声が漏れ聴こえてきている。シュウでないことはすぐに判った。声が違うし、何よりあの人が怒鳴る姿など想像ですら不可能だ。けれどその声にはどこかで聞き覚えがあった。
 好奇心は身を滅ぼすとはよく言ったものだ。とはいえ、好奇心がなければ人間は今の文明を気付いていないだろう。つまり、好奇心には抗えない。抗えないからこそ、好奇心なのだ。
 言い訳にならない言い訳を胸中で呟きながら、足は自然に公園へと踏み入れていた。
 雨にけぶる視界の中、公園は初夏の青さに包まれている。
「いいかげんにしろ!」
 怒鳴り声に、思わずびくりと心臓が跳ねた。自分に向けられてる台詞でないのは確かだろうが、恐怖を覚えるには十分の声量と感情が込められている。声のした方向に視線を向け、真雪は「あ」と声を漏らして固まった。
 初めて『彼女』と会った日と同じ場所だ。一面の芝生は、晴れた休日にはバトミントンをする親子や、フリスビーを追いかける子犬、サンドウィッチを頬張る学生たちで埋まるが今日は人気もなく静かだった。とても同じ場所とは思えない。がらんとした芝生を叩く雨音と、太陽を隠す分厚い雲のせいだろう。僅かに鼻を刺す雨の刺激臭もあるかもしれない。それになにより、そこで向かい合っている男性二人は異様だった。
 ひとりはホームレスだ。シュウと呼ばれている、あのホームレス。木陰で雨を避けながら、使い込まれすぎてぼろがきている画板を手に、鉛筆を走らせている。表情は静かで、思わずそこだけ切り取って壁に飾りたくなるほどだ。そうすれば、どんなに心がささくれ立っているときでも落ち着ける気がする。けれど、それはただの絵画の風景ではなかった。むしろその落ち着きは場違いにも程があった。
「こっちを見て話したらどうだ。手を止めろ」
 声を荒らげている男は、いわゆるクールビズ姿だ。年齢は四十を少し超えたか、その手前ほど。シュウよりは若いだろう。傘を手に、真面目そうな顔を怒りに染めている。
 馴染みのある横顔だった。今日も見た、顔。
 何故。
 疑問が膨れ上がる。あの二人が、知り合いだとは夢にも可能性にも入らなかった。むしろ、想像すらしていなかった。今目の前にしても、理解が追いつかない。何故、あの人が、シュウに怒鳴っているのか。
 不意に既視感が身を包んだ。
 匠は。
 渇いた言葉が口の中で消える。匠はあの日、こうして、自分とあの少女の口論を見ていたのだろうか。遠くから。雨粒のベールの向こうで。同じように「何故」と思ったのだろうか。違和感のある目前の光景に、何故と唱えたのだろうか。
「あんたが、あずさの居場所を知っているのは判ってる。何故隠す。何が不満だ!」
 二人は気付かない。気付かれないように、真雪は我知らず息を潜めていた。


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