第四章:それでも君を


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「掛井」
「え、は?」
 不意に名前を呼ばれ、匠は顔を上げた。そして、ぎょっとする――想像もしていなかった人物の姿が、あった。襟のついたシャツに、ジーンズ。ラフなはずの格好が、どうしてかえらくきちっとしたものに見えた。年齢は四十過ぎ。恐らくはシュウと同年齢くらいだろう。しかし受ける印象が百八十度違った。
「高峰先生……?」
 二年担当の英語科教師の名を呟き、匠は呆然と見上げた。一年の一年間だけ、ESSに入っていたことがあって、顧問だった。高峰良樹。
「掛井。お前、こんなところで何をしている?」
「え。せ、先生こそ」
 虚を付かれた。いつもみたいに上手く受け答えが出来ない。表情も、自分が今どんな顔をしているのかが判らなくて取り繕いようがなかった。ただ、胸の奥に黒いものを感じた。良くないものだと直感する。何か、良くないものが疼いている。
 腕を掴まれた。驚いて、振り返る。目の前の高峰じゃない。掴んだ手は、背後だ。細い手。僅かに震えている。既視感。月曜日の、雨の日。震えた手。野良猫の小さな手。
 あの日と違うのは、野良猫の顔が下を向いているということだ。睨み上げていない。薄く小さな体をさらに縮めるように俯いている。らしくない、そう思った。
「あずさ」
 誰だろう、と思った。そんな名前は知らない。匠が知っているのは、今ここにいるのは、野良猫で、名前を捨てた少女で、だから単純に呼び名として『ちびねこ』と口にしているだけの、ただそれだけの少女だ。だが、野良猫の手に力が篭った。きゅっと強く、握られる。痺れるような痛みが僅かに右腕に走った。
「かえって」
 搾り出すような弱い声。それが野良猫の声だと、最初は気付かなかった。いつもの、強さがない。真っ直ぐ前を向く、それこそ夏の空のような声音が、一瞬の間に冬の吹雪に取って代わられたような違和感があった。
 刹那の沈黙。一瞬にも満たないその時間が、酷く長く感じられる。何が、起きたのか。匠は必死に頭を回そうとして、けれど思考が追いついていかないのを感じていた。何が、起きた。目の前には、高峰。後ろには、震えながら腕を掴んでくる野良猫。シュウはいない。守らなくては、と不意に思った。守らなくては。
「先生、悪いけど、帰ってくれませんか。俺ら、やることあるんです」
 出来るだけ普段のように、軽い声を出したつもりだった。それでも僅かに声が上ずっていた。高峰が冷えた視線を向けてくる。生徒に嫌われる要因である、その目。生徒はあくまでも生徒であって、人間ではないとでも言うような、目。視線を受け止めて、暫く睨み交わした。視線を逸らさないでいることは、真雪から学んだことだった。先に視線を逸らしたのは高峰だった。
「こんな絵を売ること、か?」
 高峰が呟いて、ブルーシートに広げてあったシュウの絵を一枚、手にした。オオイヌノフグリの、淡い青と紫の交じり合った花。悲鳴が上がった。
「触るな!」
 野良猫が飛びつくようにして高峰の手から絵を奪おうとしていた。さっきまで青褪めていた顔が、今は興奮して赤く染まっている。
「触るな、シュウさんの絵に触るな!」
「あずさ!」
 一喝。叩きつけるような叫びに、野良猫の体がびくんと跳ねるように止まった。
「帰るぞ、あずさ」
「いやだ」
「あずさ!」
「いやだ! 帰らない! 返してよ、絵を返してよっ! 匠、匠、手伝って」
 請うような、響き。らしくない。また、胸中で呟く。いつもだったらこんな風に震えたりしないだろう? そう思った。思ったらすぐ、野良猫の言葉が蘇ってきた。「お前でも、怖いことあるの?」そう訊いたら、返ってきた言葉。「あるよ。あたし、怖いこといっぱいある。臆病だもん」――怖いことは、いっぱいある。らしくないんじゃない。普通のことなのだ。
 立ち上がっていた。高峰の手から、シュウの花を取り返そうとした。それはたぶん、シュウの花であって、野良猫の裸足であって、キャットウォークであって、自分にとってのロックだった。奪われてはならないもの。本当に大切な、一握りのなにか。理不尽に奪われることは、許されないなにか。手を払われた。野良猫も、地面に転がっている。地面にぽつりと雫が落ちた。雨がまた来たのかと思ったが、違う。野良猫の、涙。
 高峰の手が、画用紙の端にかけられ、そして、花が手折られた。
 手折られたと、感じた。実際には、破かれただけだった。だが、手折られたのだ。ただ生きるために咲いていた花が、シュウの手によって画用紙の中で息づいた花が、手折られた。オオイヌノフグリが、死んだ。野良猫が、悲鳴を上げてもう一度飛び掛る。弾かれるように視線を上げて、匠は息を呑んでいた。すぐ、傍。高峰の背後。驚いたような、怯えたような、そんな表情で立ち尽くしている少女。青いワンピース姿の、真雪。何故。疑問は浮かんだが、野良猫の声にかき消された。高峰が強く、野良猫の腕を掴んでいた。
「帰るぞ、あずさ」
 有無を言わさぬ強い語調。周囲の視線なんて気にしていないようだった。高峰は野良猫を引きずって歩き出す。野良猫がもがいて、すぐ傍にいた真雪の腕に触れた。真雪の顔に一瞬傷ついたような色が走って、けれど真雪は反射的になのか、野良猫の手を振り払っていた。シュウの絵を広げてあるブルーシートをまたいで、匠は駆け出していた。野良猫の空いている方の腕を掴む。細かった。か弱いと称していいほどに、頼りないほどに、細い。すがりつくように、野良猫の指がこちらの腕に絡まってきた。
「先生!」
「掛井。娘を家に連れて帰るだけだ。お前が口を出すことじゃない」
「口出すに決まってんだろ!? どう見たって怯えてんじゃねえか!」
 教師だということすら考えるゆとりはなく、匠は叫んだ。娘、という言葉には驚いたが関係ないと弾き出した。野良猫は自分で言っていた――「親は捨てた」。だったら、関係ない。こちらの言葉に高峰が表情を険しくし――そして、よろけた。強く体を押されたのだ。同時に野良猫が、匠の手も放して走り出していた。小さな背中が、遠ざかっていく。
「あずさ!」
「ちびねこ!」
 全く同時に叫んで、全く同時に駆け出していた。少し遅れて、真雪がついてくるのが判った。野良猫は足を止めない。汚れた足の裏が視界に飛び込んでくる。裸足。奪われてはいけないもの。だけど今、それを奪われようとしているんだと理解できた。だから、彼女は逃げている。
 美咲台緑地公園は全体的には広い。ただ、今いた場所は人通りが多いところを選んだせいで公園の外周付近だ。とすればすぐに公園の外に出る。通学路とは逆のほう――商店街が近いほうに出る。野良猫が行こうとしている場所は判った。シュウの傍に、行きたがっている。
 野良猫の足は速かった。それは意外でもなかったが、隣を走る高峰の足が速いことは驚いた。
 整備された公園。並木道の中。陽射しが濃い影を作っている。汗が流れた。息が、苦しい。
 緑に覆われた視界が、はれた。外に出たのだ。公園の外。道路を挟んで向こう側に、商店街が延びている。
 匠は心臓が掴まれた気がした。
 いた。シュウだ。遠いけれど、すぐに判る。道路の向こう側、驚いた顔で野良猫とこちらをまとめてみている。野良猫の、助けを呼ぶ声が響いた。
「シュウさん――!」

 それから先、何が起きたのか、匠はいまいちはっきり覚えていない。

 野良猫がさらに強く地を蹴った。それは覚えている。手を伸ばして、シュウを求めた。それも覚えている。ただ、そこから先が曖昧だった。体中をかき乱すような甲高い音が聞こえた。黒板に爪を立てたときの音を、さらに酷くしたような音。赤い絵の具が飛んだのが見えた。画用紙が数枚、風に舞った。それがどの瞬間だったかが、判らない。黒い乗用車。それも見えた。ただいつ見えたのかが判らない。「ちびねこ!」「あずさ!」「お嬢ちゃん!」自分の、高峰の、そしてシュウのそれぞれの声が彼女を呼んだのも覚えている。どの順で呼んだのか、全く同時に呼んだのか、それとも呼んだつもりで、聞こえたつもりで、誰も声を発していなかったのか。それも曖昧にかすんでいる。真雪の悲鳴。それもどこかのタイミングで聞こえたはずだ。それは覚えている。ただ、いつ、どのタイミングだったかは判らない。野良猫の小さな背中。シュウの腕。引きつったように動かない自分の足。それは、判った。青い空。馬鹿馬鹿しいほど熱い空気。七月の空。枯れた様に鳴いた、蝉の声。車。また、音。青空。悲鳴。シュウの手。背中。転がる野良猫。シュウの背中。背中。車。それから、今度は今までと違って腹に響くような、鈍い音。弾かれた、シュウの体。赤。それから、また、青空。
 獣が叫んでいる。そう思った。少ししてからようやく、それが自分の悲鳴だと匠は気付いた。
 匠は走り出していた。真雪のことも、高峰のことも、車のことも、一瞬全て視界から、思考から消えていた。
「シュウさん!」
 泣いている。自分でそう、気付いた。涙はない。だけど、たぶん、自分は泣いている。
 撥ねられたのだと、そう認識するための単語を引っ張り出すのに、随分と時間がかかった。シュウが道路に横たわっている。野良猫は巻き込まれなかったようで、傍に転がっていた。青褪め、表情はそこに何もない。何が起きたのか、判っていないのだ。
 乗用車から、若い男が降りてきた。こちらも、青褪めている。ただそれをよく見ようとは思わなかった。全く、思わなかった。ただシュウの傍に寄った。寄ろうとして、足が竦んでいた。心臓が狂ったように鳴る。耳の奥で鼓動が強く聞こえて、そのうち耳鳴りがしてきた。
 倒れたシュウの体。頭部が赤い。いつも巻いていたタオルが、赤い。何故か、を考える余裕なんてなかった。考えようとしなかった。考えたくなかった。
 自分の足を叱咤して傍に寄った。シュウの頬を叩く。「シュウさん」呼びかけた。「大丈夫ですか」頬を叩いた。反応はない。暖かい。気を失っているんだ。そう思った。だけど、指が震えていた。頬を叩いた指は、気付いていた。呼吸がない。
「シュウ、さん?」
 呆然とした、野良猫の声。心無い、上ずった声。幼子のように手で這って、シュウの傍による。震える指が匠の手に触れた。いつかのように震えを止めてやろうと強く握りたかった。だけど、握れば握るほど、震えは増徴して胸を痛めつける。自分も、震えている。
「シュウさん!」
 叫んだ。反応がない。「どいて!」声と同時に、肩を引かれた。真雪だ。横たわるシュウの体を仰向けにして、胸に耳を寄せる。暫くして、手を組んで胸を上から強く押した。何をしているんだろう、とどこか空虚な気持ちで考えた。それが心臓マッサージだと気付くのには、いくらかまた時間がかかった。そんなもの、と思う。そんなものは、死に掛けた人間にするものだ。シュウは違う。そう考えようとして、けれど自分で出した単語が胸を締め上げた。ついさっき手折られたオオイヌノフグリが、瞼の裏でちらついている。
 あの瞬間、何が起きたのか。よくは判らない。ただ、判ることはある。跳ねられかけたのは野良猫で、跳ねられたのはシュウだ。それが、全てだ。
 守ったのだ。そう、気付いた。
 シュウが野良猫を、守ったのだ。
 遠くから、サイレンが聞こえた。救急車か。警察車両か。恐らく、高峰が呼んだのだろう。今自分に何が出来るのか、匠は判らなかった。判らなくて、ただ、野良猫の手を握った。目の前で、真雪が懸命に人工呼吸を繰り返している。その目に、涙が浮かんでいる。
 
「シュウさん……?」

 野良猫の呟きは、枯れ鳴く蝉の声と共に、七月の空に溶けた。


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