第四章:それでも君を


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 文化部の休みは毎週木曜日で、けれど今日は月曜日だ。仕方がないので今日は頭痛になって部活を休んだ。ESSをやめて以来ずっと帰宅部の匠に見つからないように、ホームルームが終わったあと即教室を飛び出した。濃くなった自分の影を置いてきぼりにするほどに通学路を早足で抜けて、美咲台緑地公園へと向かう。その中でもホームレスが多くいる噴水のある小公園へ足を向けた。色煉瓦で象られた地面。噴水が中心にあって、周りにはベンチが備え付けられている。シュウの姿もあの子の姿も、もちろんそこにはなかった。通学路のほうを振り返った。あの子が通るかもしれない。けれどそれは杞憂だったらしく、まだミキタ生は殆ど通っていなかった。僅かに乱れた呼気を整えて、真雪は首を巡らせた。どうしよう。胸中で呟いた。とりあえず、ここまでは来たのだけれど――あの人が、いない。シュウの笑みを思い返して、足がすくんだ。判っていたはずだけれど、やはり、苦しかった。それでも、ここまで来たのだ。唇を引き結んで、顔を上げた。居心地の悪さを、何とかしたかった。
 近くにひとり、ホームレスがいた。ゴミ箱を漁っている。汚いと思ったし、怖いとも思った。心臓がどきどきと早打つのを何とか押さえ込みながら、真雪は傍に寄った。
「あの」
 声が上ずったのは、仕方がなかった。振り返ったホームレスは、意外にも優しい目つきだった。五十過ぎ、六十には少し手が届かない程度の男性だった。
「ここで……絵を描いてた、おじさんのことが知りたいんですけど」
 あの子がおかしくなったのも、匠がおかしくなったのも、自分の中の溜まっていく何かも、シュウがいなくなったからだ。何をどうすればいいのかは判らなかったけれど、それだけは判っていた。だとすれば、シュウのことで何かを手にすることが出来れば、少しは変わるかもしれない。漠然とした、勘でしかなかったけれど、真雪はそう考えた。
 言葉をかけられたホームレスは不思議そうに丸くしていた目を、すぐに穏やかに細めた。悲しげな笑みだった。
「あんた、シュウさんのファンかなんかやったんか?」
 シュウが絵を描いて売っていることは、恐らく他のホームレス仲間にも知られていたのだろう。どうやら、その絵を買いに来ていた客か何かと思われたらしい。とりあえず頷くと、彼は少しだけ目を伏せた。
「シュウさんなぁ。ちょっと……なぁ、遠いところに行っちまってなぁ。もう、絵を売ることもねぇんだなぁ。買いに来たんやったら、残念やったけど」
「そう、ですか」
 知っている。もうあの絵も笑顔も見れない。ホームレスは死を告げずに、こちらを悲しませないように気を使ってくれていた。判っていることを、その場にいたことを、彼は知らない。ただ、少しだけ不思議だった。どうしてこの人たちは、こうして人を思いやれるのだろう。決して自分たちは幸せでもないだろうに、どうして人を思いやれるのだろう。
「ちびちゃんも見んくなったし、寂しいなったなぁ、この公園も」
「ちびちゃんって」
「ほら、一緒に絵売ってたちっちゃい子、見んへんかったか? ちっちゃい裸足の女の子」
 あの子の事を指しているのだとすぐに判った。曖昧に頷くと、彼はふぅと息をついて空を仰ぐ。夏色をした空が、大きく広がっていた。
「どうしたんやろなぁ」
 制服を着て、ローファーを履いて、学校に通っている。そんな事は、どうしてか言えなかった。たぶんそれは、彼を少しばかり落胆させるはずだったから。
「ああ、そうや。あんた、シュウさんのファンなんやろ?」
 問われて、少し戸惑った。だけど、すぐに頷く。たぶん、そう――きっと、あの人に少し憧れていた。あの絵にも、あの人にも。たった二度しか、会話はしていないけれど、きっと人に抱く感情なんてものは、回数ではないのだ。
「ちょぉ待っとり。ええもん、持って来るわ」
 言うなり、ホームレスは青いテントの並ぶ中へと消えた。たぶん、自分のテントへ行ったのだろう。戻ってきた彼の手には、三枚の画用紙が握られていた。
「シュウさんの家……ちゅうたかて、あんたらみたいなん違うくてダンボールとブルーシートのやけどな、それはもう、ないんよ」
 たぶん、警察が調べたのだろう。身元が出るものがあったかどうかは判らないけれど、調べはしたはずだ。その辺りも曖昧に濁しながら――たぶんそれは、このホームレスの優しさなのだろう――彼は、笑った。
「そやけど、そうなる前におじさんちょっと忍び込んでな、残ってた絵を勝手に持ってたんよ」
 言うと、三枚の画用紙を真雪に突き出してきた。
「ナイショやで? あんたがファン言うからなぁ、おじさん、これあんたに託すわ」
 渡された画用紙を手にして、真雪は動けなかった。三つの花が、咲いている。
「シュウさんの絵は、ほんまに大切にしたがってる人のとこへ、行きたがってるはずやからな」
 彼の言葉と、三枚の花。
 気付くと、自然と涙が零れ始めていた。

◆ ◆ ◆ 

 左右に揺れる、紺のスカート。三階の廊下に吸い込まれていく、茶色のローファー。その二つを身に着けているのが彼女だとは、どうしてもイコールで結び付けられなかった。
 背中を見送って、匠はゆっくりと歩き出す。たぶん、違うのだ。あれは彼女ではない。高峰――あずさ、だったか。そんな名前の、不登校児だった、誰か。自分の知っている野良猫とは違うはずだ。同じであるはずがない。
「匠」
 隣にいた真雪に名を呼ばれ、匠は意識して苦笑を作った。そうすれば、何とか気持ちを抑えられる。昨日と同じ、誰かの姿を見送った後も、感情の揺らぎを押さえ込めた。
「じゃ、な」
 真雪に軽く手を振って、教室へと向かう。「匠!」何かを訴えるような真雪の声に、けれど気付かないふりをして背中を向けたまま軽く手を振った。それ以外にどうすればいいのか、判らなかった。一時の気の迷いでもないのだろう。二日続けて登校してきているのだから。夏休みは目前だ。休みに入って、会わなくなれば、その間に心の整理も出来るはずだ。少しの辛抱だと思えば、なんとでもなった。
 そう思っていても、彼女の後ろ姿は胸に苦しかった。好きなのは、きっと、確かなのだ。それは違えようのない事実で、ただ、確信が持てなかった。自分が好きなのは『野良猫』なのか、それともそうであろうとなかろうと『彼女』なのかが、判らなかった。そこに僅かなりでも違和感を覚えてしまうと、途端に動けなくなった。一時間目の授業中、ずっとその事ばかりを考えていた。短縮授業に入っているので、時間はいつもより早く過ぎていく。
 そうして過ぎた一時間目終了後の休憩時間、匠は渋面になって腕を組んだ。
「……どういうつもりだ?」
「話したいことがあったの」
 三年の教室の前で、二年の真雪が至極真面目な顔でこちらを見上げて来ているものだから、匠としては渋面にならざるを得なかった。ファッションブランドのロゴが入った、薄い、B4サイズ程のビニール袋を腕に抱えた、二年の赤い学年章をつけた真雪はこの廊下では明らかに浮いている。教室の中からも、廊下からも、同学年の好奇の視線を感じてため息を押し殺した。
「お前な。判ってんのか? いちいち教室まで来るなよ……何勘ぐられるやら」
「どうでもいいの、そんなの」
「だったら、待てよ。せめて放課後を」
「待てなかったの! 一時間目にずっと考えてて、待てなかったの。だから、来たの」
 らしくないと思った。真雪は他人の目を気にするタイプだ。特にいじめられた後からその傾向が強くなった。一緒に登校するのは、それを見込んでのことだろうと思っていた――ある程度、こちらに気があるのを他者に示すことで、あるいは登校を共にする程度の仲だと他者に示すことで、匠に対しての他の女子からのアプローチをさせ難くしているのだろうと。だけど下校は殆ど共にしないし、学校ではさほど仲が良いわけでもない。そんな曖昧さを互いの許容範囲として残して置く。登校程度なら匠が拒絶しないのも判って、だろう。真雪はその程度の駆け引きが出来るタイプだ。少なくとも、匠はそう思っている。だとすれば今の状態がその駆け引きを超えているのは真雪にだって理解出来ているはずだ。匠が拒否反応を示すことも判っているはずだ。なのに、来た。それはあまりに、らしくない行動だと思った。
 一瞬、互いの間に沈黙が落ちる。顔色を伺うような空気を破って、真雪が手にしていた薄手のビニール袋を押し付けてきた。
「これ、見て」
「いらねぇよ」
「シュウさんは」
 押し返そうとした手を遮られ、匠は口を閉ざした。いつもの強い瞳が、射抜いてくる。真雪の口からその名が出る今を、どうしてもやはり奇妙に感じた。
「シュウさんは……」
 その違和感は、真雪自身も感じ取っていたのだろう。やや戸惑うように口に名前を馴染ませてから、続きの言葉を吐いた。
「あの子はたんぽぽだって、シュウさんは言ってたの。私たちも花でいいんだって、誰かに断ることなく咲く野草でいいんだって、シュウさんは言ってたの」
 いつそんな話をしたのかは知らない。ただ、本当の事なのだろうと思った。あの人なら――あの少し変わったホームレスなら、そんな話もしそうだと思った。
「匠もあの子も、このままなのは、私はいや。匠は、このままでいいの?」
 答えられなかった。真雪も、すぐに答えを欲しているわけではなかったようだ。こちらにビニール袋を押し付けたあと、すぐに廊下を去っていった。暫く、その背中を見送った。真雪の姿が見えなくなってから、クラスメイトの一人が興味深そうに近付いてきた。
「何? 何? ラブレター?」
「ありえないから。でかいから」
 B4サイズのラブレターなんてとてもじゃないがあっていいものじゃない。鬱陶しくそいつを払いのけながら席に戻ろうとするが、好奇の意識はそれで収まるものでもないらしい。僅かに考えるような素振りを見せた後、ぴっと指を立てて言ってくる――
「判った! 弁当だ!」
「ペラいから! 海苔しかはいんねぇからこれじゃ!」
 頭の悪いクラスメイトを払いのけると同時に始業のチャイムがなって、ほっとする。教師が入ってきて、ざわついていた教室が少し静かになった。公民の授業は退屈で特に眠たくなるものだ。その間に、匠はそっと机の中に忍ばせた先ほどのビニール袋を開いた。やや眠そうな顔をしている初老の教師は気付かない。机の中、するっと三枚の白い紙が滑りでた。
 画用紙だった。
 それだけで、表に何が描かれているのか判った。すうと血の気が引いて、目の前が白くなる。何故、真雪がこれを? そう思ったが、訊く相手はこの場にいない。僅かに汗が滲んだ指先をこすり合わせて、画用紙がよれないように慎重に表返す。
 花が、咲いていた。
 三つの花を、机の上に出した。窓からの陽射しが、花をより輝かせた。
 たんぽぽだった。
 ハルジオンだった。
 それから、スミレだった。
 どれもその辺りに当たり前に咲いている野草で、いかにもシュウが描きそうな花だった。
 お嬢ちゃん、とあった。
 真雪ちゃん、とあった。
 それから、匠くん、と書かれてあった。
 癖のある文字で、それぞれの花の下に小さく呼び名が書かれていた。艶やかに元気に輝くセイヨウタンポポ。なるほど、彼女にとてもよく似ていた。薄く桃色がかった白い花びらを身に纏い、空に首を伸ばしている気高そうなハルジオンは、それも確かに真雪によく似ていた。公園の中、ささやかに、それでも確かに咲き誇っていた小さなノジスミレは――ノジスミレは。自分に似ていると、シュウは感じてくれていたのだろうか。
 眠たげに説かれる公民の授業の声は、すでに聞こえなくなっていた。鼓膜の奥でかすかに、声がする。フィル・ライノットの声。ここ数日聞いていなかった、ロックの音。それから――穏やかに微笑み告げる、シュウの声。交じり合って溶けていく。不意に、泣きたくなった。
 野良猫と出逢う前の自分を、思った。今と同じだった。
 野良猫と出逢った後の事を、思い返した。
 生きる意味。死ぬ意味。シャ・ラ・ラでしかなかったそれらのもの。キャットウォーク。美咲台のN.Y。ロック。裸足。自由。アーモンドの瞳。野草の絵。夏の陽射し。いくつもの単語といくつもの映像が脳を満たしていく。そして、目の前に咲いた三枚の、野草。

 野草なら。
 踏まれた後に、また咲くことが出来るのだ。

 椅子が派手な音を立てていた。三枚の花が、笑いながら見つめている。
 驚いた表情を見せるクラスメイトと教師に笑いかけて――
 匠は、教室を飛び出した。


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