第五章:脱獄


戻る 目次 進む


 リノリウムの床が気持ちいい。
 匠に手を引かれて走りながら、野良猫は高揚する気持ちを抑え切れなかった。匠は止まらない。走り続けている。手を引かれて走っている彼女自身も止まる気がしなかった。廊下を抜けた。校門を飛び出した。並木道に出た。木漏れ日の間から、槍のように光が瞳を突き刺した。
 夏だ。
 そう思った。それから不思議に感じる。いつの間に、夏はやってきていたのだろう。蝉の声が耳に痛いほど響いている。昨日も一昨日もここは通ったはずなのに気付いていなかった。何故だろう。考えるまでもなかった。
 あたしはたぶん、死んでたんだ。
「匠、匠、どこ行くの?」
 走りながら彼女は声を上げた。匠の足がどこへ向かっているのか、生き返ったばかりの脳には少し考えが及ばない。声を上げても匠は振り返らない。背中が大きかった。
「海」
 短く、鋭い、強い声だった。
 ざあっと視界に青が広がる。空の色で、海の色だ。でも、知っている。海も空も、ただ青いだけじゃない。朝焼けを、毎日見た。あのキャットウォークで。細く頼りない足場の上から、毎朝街を見渡した。美咲台は輝いていて、海と空が口づけするように遠くで笑っている。そのときの色は、いつでも毎日違っていて、だから毎日見るのをやめられなかった。晴れた日には胸が詰まるような鮮やかな色。曇りの日には白くけぶって緩やかで、雨の日には泣いていた。それでも、海と聞いて思い出すのは幼いころに見た夏の浜辺の色だ。本当の色はいくつも抱えているのに、青という色が印象を奪ってしまっている。それはたぶん、自分たちも同じで、けれど決して悪いことじゃない。沢山の色があることを知っているなら。
 あそこに行くんだ。そう思うと、胸が痛んだ。あそこに行くんだ。シュウが行きたがっていた海へ行く。もうあの人は、海へ行くことは出来ないのだけれど。
 怖かった。まだ自分の中のどこかで、事実を認めたがっていない部分がある。公園に行けばいる気がした。その僅かな縋りは、海に行ってしまうことで消えそうな気がする。
 それでも。
 心臓が生き物のように胸を押し上げるのを感じながら、野良猫は匠の手を強く握りなおす。
 今はこの手を、信じようと思った。
 素足で、街を走った。駅まではそう遠くない。それでも全身が熱くなる。太陽が強い陽射しを降り注いでいて、街全体が白く輝いて見えた。空気でさえ肺を焼くように熱い。足の裏のアスファルトは目玉焼きでも焼けるのではないかというほどに熱されていて、走るのをやめたら飛び上がりそうなほどだった。それが生きていると全身を震わせてくる。
 美咲台駅は商店街のすぐ傍にある。ホームに入ると電車がタイミングよく滑り込んできた。銀色の車体に青いライン。飛び乗るとすぐに、疲れたため息みたいな音を立ててドアが閉まる。重たげに動き出した電車の中で、二人は揃って息を吐いた。銀の手すりに身を持たせかけて、顔を見合わせる。途端に、笑いが込み上げてきた。喉の奥で堪えきれない笑いが、音となって漏れてくる。匠も同じだった。それこそ夏の陽射しみたいに、大口を開けて笑っている。今まではこの電車と同じ、どこか疲れた雰囲気を持っていたのに。
「すごいね」
「な。すごいな。俺、すげぇ事しちゃった」
「めちゃくちゃだね」
「めちゃくちゃだな」
「でも、すっごくクール。最高!」
 笑いかけると、頭を撫でられた。最初の金曜日と同じ仕草。あの時は、関係のない他人が体に触れてくるのが我慢ならなかったが、今は違う。心地良いとさえ感じる。目を細めて見上げながら、問い掛ける。
「ね、気付いてた?」
「何が?」
「真雪、見てたよ」
 その台詞に匠の目が丸くなる。気付いてなかったらしい。
「廊下、走ってるとき。あの子二組なんだね。顔こっちに向けて、笑ってた。笑って、でもばれないようになのかな、教科書ですぐ顔覆っちゃった」
 匠はすぐにその時の様子を想像できたのだろう。ぶらぶら揺れる手すりを見上げて、苦笑する。
「誘えばよかったな、真雪も」
「だね」
 素直に頷いてから、ふいに不思議な気持ちになった。ついこの間まで、どうでもよい事ばかりだった。野良猫である自分の生活の中に必要なものは、シュウとキャットウォークと朝焼けだけで充分で、それ以外のものは必要なかった。故意に遠ざけていたのもある。何かを手にすればするだけ、自由に重石が乗りかかってくる。自由に身軽は必須なのだ。身軽じゃなくなると自由からは遠ざかる。だから、身軽でいようとしていた。深く関わらなきゃいい。自分の決めたことに口出しされるのは嫌なのだから、それと同じように、他人のことは他人に任せればいい。匠の自殺を止めなかったのだって、そう思ってたからだ。だけどたった一ヶ月程なのに、自分は今素直に頷いた。真雪が来なかったのは彼女の意思なのに、誘いたいと思った。
「匠ってさ」
「ん?」
「意外とすごいね。真雪も」
 唐突な台詞だったのだろう。匠が奇妙な顔をして、それから笑った。
「お前ほどじゃない」
 その言葉は嬉しかった。他人にどう思われようとどうでもいいけれど、匠にすごいと思われるのは嬉しかった。それはたぶん、匠が他人じゃないからだ。
 電車の中には、陽射しが差し込んでいる。クーラーが効いているのに太陽は熱い。そのギャップはなんだか今にすごく似ている気がした。
 駅に止まった。海の近い角野の駅は次だ。何人かが降りて、何人かが乗ってくる。そしてドアが閉まって、また面倒くさそうに電車が動き出す。
 平日の真昼間だ。こんなローカル線の電車の中にいる人は少ない。乗り合わせた車両には五人ほどの乗客がいるだけだった。若い母親と、幼稚園に入る前くらいの小さな幼児。疲れたような老人。化粧の濃い中年女性の二人組み。全員が、ちらちらと伺うようにこちらに視線を向けているのが判った。
 奇妙なのだろうと思う。
 学校がある時間に、こうして電車に乗っている中学生の二人組みだ。当然だろう。しかも片方は裸足なのだ。奇妙に思われて当然だ。好奇心と、野次馬根性と、あとはくだらない批判的な何かが交じり合った視線。
 きゅ、と手を握られた。きょとんとして見上げると、匠が視線からこちらを庇うように立ち居地をかえていた。睨むような視線を車両の端から端まで飛ばしていて、それがなんだかおかしかった。
「いいよ、匠」
「けど」
「見たいなら、見せたげればいい。あたしたちは恥ずかしいことなんて、何もやってない」
 匠の顔に納得の色が広がっていく。恥ずかしいことなんて、何もない。自分の居場所を、生き方を、ただ自分で選んだだけだ。見たいのなら、見ればいい。嘲笑いたいのなら、嘲笑えばいい。匠の体の陰から出て、乗客に視線を飛ばす。幼児以外の誰もが、目線を外した。幼児だけが純粋な興味の視線を向けてくるが、母親が視線を外させるように抱き上げた。「あんまり見ないの」と小さな声が聞こえてくる。馬鹿馬鹿しいと思った。視線を受け止める覚悟すらないなら、視線なんて飛ばすべきではない。これだったら真っ直ぐこちらを見つめて批判してきた真雪のほうが、ずっとずっと骨がある。
 大人になるってのはたぶん、誰かの視線を避けるようになることだ。
 そんなものに、何の価値がある。思うと同時に、口が開いていた。
「裸足って、そんなに変?」
 言葉は陽射しみたいに無遠慮に響いた。車両が、しんと静まり返る。匠の笑みの気配を隣に感じた。視線を合わせようとしない大人たちの顔をひとつひとつ見つめて、吐き捨てた。
「裸足で歩いたことがある? 焼けそうに熱いアスファルトの上を、裸足で、全力で走ったことがある? 細いキャットウォークから朝焼けを見たことはある?」
 他人がどう思ってるのかなんて、どうでもいい。笑われているのだって知っている。けれど自分の意見を内に溜めておくだけなんて、そんな事はしたくなかった。伝えたいと思った。伝えないで、判ってくれないなんていうのは、傲慢なだけだ。伝わらなくても、伝えるんだ。そこに、伝えたという事実は残る。たとえ、伝わらなくても、事実が存在出来る。
「走り出すことも出来ずに、窮屈な靴とスーツに鎖でつながれて、あの空を見ることもなく、意味なんてないことを繰り返して生きる。それはそんなに、偉いことなの?」
 誰もが俯いていた。叩きつけるように、言葉を吐いた。
「アスファルトは平坦じゃない。熱くて、痛くて、時々硝子なんかが落ちてて足を切ることもあるよ。だけど、あたしは裸足で行くって決めた。もう迷わない。それがあたしのルール」
 花に、なりたいから。
 自由に咲く花に、なりたいから。
「あたし、生きるって決めてる。世の中ちょっと腐ってて、馬鹿みたいなことだらけだけど、意味なんてないけど、でも生きるって決めた。裸足で全部を感じることが、あたしのルール」
 この現代日本の中で、生きるだの死ぬだのを口にするのは些か大仰に過ぎるのかもしれない。だけど実際シュウはあっけなく逝ってしまって、今隣にいる匠は死に損なった過去がある。それらが全部あって、その上で決めたのだ。生きていく。
 つんのめるように電車が止まった。ドアが開いて、しけった空気が流れ込んでくる。匠が手を引いた。
「行こう」
 頷いて、歩き出す。ドアから出る直前、すぐ傍の優先席に座っていた老人と目が合った。
 目が、合った。
 孫を見るような目つきに、一瞬足が止まる。発車を告げるベルの音がホームに響く。老人が、微笑んでいた。
「いきなさい」
 行きなさいか、生きなさいか。判らなかったが、頷いていた。どっちでも同じことだ。そこに含まれる意味があるとしたら、どちらも大差ない。ホームに降り立つとすぐ、背後でドアが閉まった。くたびれた車体を引きずって、電車が動き出す。振り返ると、母親に抱かれていた幼児が手を振っていた。ほんの少しだけ笑って手を振り返す。世の中ちょっと腐ってるけれど、全部が腐ってるわけじゃないからこんな事があって、だから朝焼けも綺麗なのだ。
 匠もたぶん、同じ風に感じている。繋いだ手からその気持ちが伝わってきた。また走り出す。
 走らないと苦しくなる。体の中の熱が、走れ走れと追い立てている。
 角野の街に来るのは久しぶりだった。久しく美咲台を出ていなかった。子供のころは何度か来ていたけれど、駅前は随分様変わりしていた。それでもかすかに匂う潮風は、変わらない。夏の匂いだ。胸が高揚する。匠と繋がってる手のひらにも汗をかき始めたが、心地悪いとは思わなかった。陽射しを浴びて、アスファルトを感じて、熱い空気を肺に入れて、汗をかいて、走っている。生きている。
 走り抜けた。
 海が、見えた。


戻る 目次 進む