第五章:脱獄


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 防波堤によじ登ると、手のひらも足の裏も熱さにじりっと痛んだ。染み入る熱さを受け入れて、顔を上げる。眩しかった。青いというより、純粋に白い。光が波間を光らせていて、目に痛いほどに真っ白だった。直視できないが、目を細めて見つめた。風がスカートと髪を舞い上がらせて、潮風が胸に詰まる。防波堤の下には砂浜があって、波が境界線を一瞬一瞬変えていた。この辺りはあまり泳ぐ人もいないらしく、人影はまばらだった。
「下りよう」
 匠に頷いて、階段を下りた。海辺のアスファルトは、街中以上に熱い。自然飛び跳ねるようにして下りていき、砂浜に降り立った。次の瞬間、たまらず悲鳴を上げていた。
「熱っ」
 細かい砂の粒は、アスファルトより熱かった。というよりも、アスファルトは飛び跳ねてる間は熱さが持続しないのに、砂粒は足にしがみついてきて離れないのだ。
「熱っ、ちょっと、うわ、熱いっ」
 ぴょこぴょこ飛び跳ねるしかなくて悲鳴を上げていると、隣で笑い声がはじけた。ふいっと体が浮く感覚がして驚いた。匠に抱きかかえられていた。思わず、顔が赤くなる。
「うわ。お前軽い。やばいってこの軽さ。食え。肉とか」
「じゃなくて、何してんの!? 何して――って、うわっ」
 投げられた。
 ひょい、とまるで荷物か何かのように放り投げられて、派手な水しぶきが上がった。水面に叩きつけられた痛みと、潮水が目に入った痛みに、もう一度悲鳴を上げた。なのに、匠は笑っている。
「何すんのさっ」
「投げてみた。熱いって言うから。冷えたかー?」
 冷えはした。だが、服を着たまま海に投げ込まれて喜ぶわけがない。スカートはひらひらと波に踊っているし、下着まで濡れている。これはいくらなんでも手荒じゃないのかと思って睨みあげた。匠の目は笑ったままだ。笑った目と、暫くにらめっこする。そのうち根負けして、笑い声を上げていた。むちゃくちゃだ。だけど、負けた。楽しい。
「あーあ、もう。どうすんの、これ。着替え、今、ないよ?」
「あとでお前の城行けばいいじゃん。置いてるだろ?」
「置いてる」
 どこに住んでたのかと良樹に強く問い詰められはした。だが答えなかった。あそこだけは、あのキャットウォークだけは、荒らされたくなかった。だからきっと、行かなくなったあの日のまま、大きなシャツとショートパンツの何着かが着替えとして残っているはずだ。
 あの場所に、戻る。もうシュウのいないあの場所に。
 失ったものは帰ってこない。手のひらの中を砂粒みたいにすり抜けていって、繋ぎとめられない。この場所も、本当ならシュウと一緒に来るはずだった。真雪も一緒にいて、ちょっと険悪な雰囲気になったりなんかもしつつ、それでも四人でいたはずだ。それはもう叶わない。髪の間をすり抜けて頬に落ちてきた潮水は、涙によく似ている。
「シュウさん、来たがってたな」
 匠の不意な言葉に、泣きそうになって無理やり笑う。泣かない。きっと、シュウが困った顔をしてしまうから。
「一緒に来たかったな」
「うん」
「でも、もう無理なんだよな」
「うん」
「悔しいな」
「うん」
 すっと、匠の手が伸びてきた。頬に触れられる。振り払わないで、少し俯いた。
「ちびねこ」
 泣いていた。笑っていたはずなのに、涙が勝手に零れていた。シュウがいなくなってはじめて流す涙だった。匠の指が涙をこする。涙は海水にきっと混じりやすいから、泣いたんだ。
「俺、ずっと考えてたんだ」
 そうだろうと思った。この少年が異様に悩みやすくて考えのループに陥りやすい性格なのは、傍にいた少しの期間ででさえ気付かされた。自分とは違うと思ったが、同時にとてもよく似ているのだ。海水と涙と同じ程度には違って、同じ程度には似ている。
「いなくなって、元に戻っただけだと思ったけどそうじゃなかった。残したものが、でかすぎるんだよな、あのひと」
「うん」
 呆けた子供みたいに、ただ頷くしか出来なかった。
「いなくなっても、シュウさんが消えるわけじゃない。それに、ちびねこもいたしさ」
「あたし?」
「そう」
 しゃがみ込んで、匠が視線を合わせてきた。子供を見るような、慈しむみたいな瞳だった。
「お前も、俺にとってはたぶんシュウさんと同じか、それ以上にでかくて。で、野良猫で野草だから。誰にも飼われないし誰にも囲われてない。それがお前だから、やっぱり学校で俯いてるお前は、見てて辛かった。そんでぐるぐるしてたんだけどさ」
 くしゃりと髪を掻き回された。微笑まれる。
「お前はそれでも、野草だから。シュウさんが、たんぽぽがお前だって、言ってたんだって。真雪に聞かされた」
「たんぽぽ?」
「そ。で、真雪がハルジオンで、俺がノジスミレらしい。くすぐったいけど、嬉しいよな」
 大きく頷く。シュウの絵が見えるようだった。海水に反射する光が、花に見えた。
「野草はさ。踏んづけられてもまた生えてくる。しぶといし、強い。まさに、ちびねこだ」
「あたし、強い?」
「うん」
 ――強い。その言葉が、おなかの中でじわっと膨れ上がった。例えようのない嬉しさは、まるでソーダ水みたいにぴりぴりと全身を刺激する。
「シュウさん、怒ってるかな」
 呟くと、匠が首を傾げた。
「だってあたし、凹んでた。ずーっと。夏、来てるのすら判んないくらいに、死んでた。シュウさん怒ってるかもしれない」
「怒らんだろ。想像出来ない」
 野良猫も頷いた。確かに少し、想像しがたいものがある。
「怒らんけど、たぶん、寂しかったんじゃないかな」
「寂しい?」
「寂しいだろ。俺も同じだったし、お前が笑ってないと、寂しい」
 言われて、頬に力を込めた。精一杯の笑みを向ける。匠が目を細めた。
「うん。絶対そっちのがいい」
「シュウさんも、こっちがいいって言うかな」
「絶対」
「そっか」
 匠の言葉が、何故か素直に聞けた。シュウの言葉でもないのに、シュウの言葉と同じ効果を持っていた。すぅと息を深く吸うと、涙も止まる。潮風がべたついて、でも気持ちいい。太陽に手を伸ばしてから、ゆっくり立ち上がった。匠に手を引かれて、砂浜に戻る。波打ち際ならそんなに熱くない。
「俺らが立ち止まってたらさ、たぶん、シュウさんが悲しむよ」
 匠が、水平線を見つめながら呟いた。その横顔が、波の格子にきらきらと彩られていた。
「だからさ。苦しいけど、歩こう」
 生きよう。
 何故か、そう聞こえた。「歩こう」。それが「生きよう」に聞こえた。くしゃっと顔が歪んで、泣き笑いの表情になった。金曜日の死に損ないが、水平線を見ながらこんなことを言うなんて、たった一ヶ月前には考えすら及ばなかったことなのに。一ヶ月前には、どうでもいいことだったのに。今は、すごく、嬉しかった。
「匠」
 不意に思いついて、野良猫は声を上げていた。太陽が眩しい。
「今日はヘッドフォン、つけてないの?」
「ん、ああ。暫く音楽聴いてなかったから」
「そっか。あのね、いいこと考えたんだけど」
「いいこと?」
 背伸びをして、匠の耳に口を寄せた。不意に思いついたいたずらに、匠の目が丸くなって、すぐに子供じみた笑みになる。
「どう?」
「最高。やろう。すぐ戻ればまだ授業に間に合うだろ」
 手を引かれて、歩き出す。砂浜の熱さは、冷えた足にはまだ気持ち良いものだった。
「ちびねこ」
 防波堤に登って、最後にもう一度海を見渡したとき、呼ばれた。顔を上げると、真剣な眼差しがそこにある。
「好きだ」
 波がはじける音がした。言葉にしてそんな事を言われたのは初めてだったので、答えられなかった。好き。……好き?
 どう答えていいか判らずに、表情すらどうすればいいか判らずに、ただ見上げた。余程呆然とした顔をしていたのだろう、こっちを見つめていた匠が声を立てて笑った。
「返事はしばらく保留でいいや」
 匠が、手を引いた。
「行こう、ちびねこ」

◆ ◆ ◆ 

 いたずらには、念入りな準備が必要なのだ。黒板消し落としなら、どれだけばれないように挟むかが肝だし、とにかく教師をびっくりさせたいのなら、時間を決めておいてクラスメイト全員で一斉に缶ペンケースを落とすなんてのもありだ。それにはクラスメイト間のコミュニケーションと打ち合わせが必須なのだ。小学校の頃はよくやったっけ、と野良猫は考えて笑いを噛み殺す。やることはあの頃と全く同じだ。多少派手になっただけで。
「へぇ……放送室なんてはじめて入った」
「あたし、小学校のとき放送委員会だったよ」
 薄暗い放送室には、独特の埃臭さが立ち込めている。小学校の放送室とは違ってかなり年季の入った場所だったが、揃っている機材などは大差ない。ミキサーがあって、それに繋がれたコンポがある。部屋の隅には集会のときに使う、マイクスタンドやドラムコードが無造作に放り出されていて、灰色の棚にはマイクの納まったハンドケースとCD類が収められていた。会議室にあるみたいなテーブルとパイプ椅子が真ん中に存在していて、そのせいで狭さに拍車がかかっている。匠はテーブルに腰をかけて物珍しげに部屋を見渡している。その隣をすり抜けて、彼女はミキサーの電源を入れた。主電源を入れられて、時間外の出番にうろたえたようにミキサーが目覚める。暫くごそごそ弄ってみて、軽く頷いた。
「何とかなりそう。意外と、簡単」
「いけそ?」
「大丈夫ー。貸して貸して、MD」
 手を出すと、テーブルに放り出してあったMDが手渡される。いつだったか、匠に借りたままだったMDだ。シン・リジィの曲が入っている。服を着替えるために建物未満に立ち寄った際、一緒に持ってきたのだ。今は大きめのシャツにショートパンツという、いつもの格好に戻っていた。しっくりくる。海水を浴びた制服はキャットウォークに引っ掛けてある。コンポの電源も別に入れてから、MDをセットする。ふと気付くと、匠が真後ろに立っていた。手を伸ばして、備え付けの卓上マイクをぽこぽこ叩いている。
「マイク叩いたら駄目なんだよ。中がおかしくなっちゃうから」
「あ、そうなんだ。で、これどうやって放送入れるの?」
「一斉放送でいいならー、そっちの主音量をあげて。うん、そこの赤いの。で……MDは三番かな。これも音量あげてー、あとは一斉放送ボタンをおせばいいよ」
「喋るのは?」
「こっち。このマイクの電源入れて、二番上げればいいの。ぴんぽんぱんぽんが欲しいなら、最初にこのボタン、終わりのぴんぽんぱんぽんはこっち」
 大雑把な説明に、匠が感心したように頷く。もう一度顔を見合わせ、にやりとする。
 いたずらを実行に移す前の高揚感は、いつだって失われないひとつだ。
 鍵は持った。普段使ってる放送室のスペアキーと、普段はしまわれているメインキー。ついでに屋上の鍵も匠が一緒に拝借してきた。マスターキーがあるかどうかは判らないが、その辺りは賭けだ。ついでにドアを破壊されては堪らないので、『先生が学校のものを壊すなんて、生徒として悲しいです。By野良猫&金曜日の死に損ない』なんてふざけた紙も用意しておいた。これを放送室のドアに張っておけば、まぁ多少の時間稼ぎにはなるかもしれない。
「さて、やりますか」
「うんっ」
 笑いあう。
 心の底から笑いあうこの一瞬が、花になり得る一歩なのだと確信した。
 そして、この窮屈な場所から、あたしたちは抜け出すのだ。


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