第六章:ヤツらはデンジャラス!!


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 懐かしい曲だった。
 スピーカーから大音声で吐き出される音楽に身を任せ、高峰良樹は壁に背を預けたまま廊下に座り込んだ。
 授業の真っ只中を、突然の放送ジャックにしてやられた。今日、二度目だった。一度目は掛井匠が教室から娘を掻っ攫っていった。それだけでも異常な事態だというのに、とりあえず授業だけは、と五時間目に教卓に立った自分を嘲笑うかのように、今度は放送ジャックで全校生徒の聞いている中、娘からの批判を浴びた。放送室に乗り込んで止めよう。そう決心して教室を出た途端、今度は大音声のロックが流れ出した。毒気を抜かれて壁に寄りかかっていると、あちこちの教室から生徒たちが飛び出してきた。あの大人しかった北野さえ、軽口を叩いて走っていく。
 懐かしい曲だ。胸中で繰り返して、苦笑いを浮かべた。シン・リジィの『ヤツらは町へ』。学生時代には良く聴いた。あずさが生まれてからも暫くは聴いていたはずだ。ただ、あずさの母――妻がいなくなってから、聴く回数が減った。そしていつの間にか、聴かなくなっていた。それを、こんな形でまた聴く羽目になるとは。
 反骨精神、か。
 口の中で呟くと、苦笑いはさらに深くなる。力がある。成し遂げようとする力。貫こうとする力。押さえつけられても、もがくように溢れ出てくる力。それはたぶん、いつか自分も持っていて、けれど失くしてしまった一つだ。
 ふっと息を吐いて天井を見上げた。チープな電灯に、薄汚れた天井。不思議と、今も昔も変わらない気がした。自らの中学時代が、既視感と共に脳裏に蘇ってきた。あの頃は自分も、そうだった。親や教師に反発していた。
 妻がいなくなる直前に、口にした。あずさのこと、頼むね、と。
 その言葉がずっと、ずっと長い間、内耳にこだましていた気がする。
 流れてくるロックの音が、こだましていた言葉を消していく。
 少しだけ、笑った。
 肩の力が、抜けていく。

◆ ◆ ◆ 

 放送室のドアには張り紙をしてきたし、鍵は手の中にある。屋上で浴びる風は湿り気を帯びていたが、心地良い土の匂いを運んできた。
「ね、見て見て匠。ほら、あそこ、三年生の教室。誰か顔出してるよ。おーい」
 屋上の縁から身を乗り出して、野良猫がぶんぶんと大きく手を振っている。隣に並びながら見下ろすと、三年の教室から男子生徒が一人、手を振り返しているのが見えた。見知った顔だったので、にやりと笑って匠も手を振る。学校中で鳴り響くロックの音楽はまだ消えていない。放送室は今のところ無事らしい。もっとも、と匠は胸中で笑った。
 いまさら音楽止めても、さほど効果はないだろうけれど。
 校庭から、わっと歓声が聞こえた。見やると、何人かの生徒が教室を飛び出してきたらしい。校庭のど真ん中で、ロックのリズムに合わせて踊り始めている。その様子を見て、野良猫が腹を抱えて笑っている。その横顔が、眩しかった。
「ちびねこ」
 呼びかけると、満面の笑みが振り返ってくる。目を細めて、匠は不意に問い掛けていた。
「楽しい?」
 口に出してから、既視感に包まれた。
 ――お兄。楽しい?
 いつだったか、望が口にした問い掛けと同じだった。あの時は、その質問の意図は判らなかった。ただ、自然と頷いていた。今なら判る。望の問い掛けの意味。
 今、ここに存在していることが――楽しい?
 野良猫は一瞬目をぱちくりと瞬かせた後、降り注いでいる太陽に負けない笑みを浮かべた。
「うん。サイッコー楽しい!」
 言うなり、小さな体を目一杯伸ばして手を空へと掲げる。青空に、小さな手が浮かび上がる。
「見えてるかな、シュウさん。見てるかな」
「見てるよ」
「楽しんでるかな」
「にこにこしながら、楽しいですよ、って答えるよ。たぶん」
 あはっ、と軽く野良猫が声を立てた。アーモンドの瞳に、青空の光が反射する。眼差しに射抜かれて一瞬動けずにいると、手をとられた。小さな、熱を持った手が、触れる。
「踊ろう、匠」
 微笑まれて、頷いていた。
 音楽が変わっていた。力強いメッセージの歌詞。ギターの音。ベースの音。ドラムにキーボード。フィル・ライノットの甘い声。血管をリズムが流れていく。体が勝手に動いていた。
「匠!」
 荒々しく屋上のドアが開けられ、声が飛び込んでくる。リズムに体を揺らしながら振り返ると、真雪が笑って立っていた。走ってきたのか、肩が軽く上下している。
「やっぱり、いた。二人とも」
 笑いかけられ、自然と笑みが浮かんでいた。真っ直ぐな眼差しが、強い。
「うん。ありがとな。真雪」
 ふっと真雪と野良猫の視線が交差した。一瞬、背中に冷や汗が流れたが、杞憂だったようだ。何故か二人の女子は顔を見合わせると口を開けて笑い出した。
 いがみ合っていたはずなのに、と少し首を捻る。女子の気持ちは、全く持って移ろいやすくて判らない。
「真雪、踊ろ踊ろ! ダンス・パーティー!」
「ちょっ、判んないわよロックの踊り方なんて」
「いいからいいから。ほらほらっ」
 真雪の両手を掴んで、野良猫が身を翻して踊りだす。つられるように、真雪のスカートも、ひらりと舞う。
 まぁ、いいか。
 一緒にもう一度リズムを刻みながら、匠は肩を竦めた。屋上のコンクリートに、スニーカーのゴム底が円を描く。
「けど、真雪よく判ったな。俺らがここだって」
「判るわよ。何とかと煙は高いところが好きって言うでしょ」
 あっさりと馬鹿呼ばわりされ、匠は思わず野良猫と顔を見合わせていた。反論の仕様がないので、すぐに苦笑いが浮かんだ。
 初めて逢った時も、キャットウォークの上だった。今は、屋上だ。高いところが好きと言われても、間違いではないかもしれない。
「あ、それと。高峰先生から伝言。『お前らは本当に、全力で、阿呆だ』だって」
「おとーさまには言われたくありませーん」
 べっと野良猫が舌を出す。その様があまりに子供っぽくて、今度は真雪と顔を見合わせて笑っていた。
 笑い声が、リズムになる。


 学校中が、踊りだす。



 ――自分のやりたいことをさせるがいい


「秘儀! エアギター!」
「うわ。匠ダサい。最高ダサい」


 ――まちがってないぜ


「ねぇ、真雪意外とリズム感良くない?」
「意外とって何よ。失礼ね。昔はジャズダンス習ってたのよ」
「お前一ヶ月でやめたじゃねぇか」


 ――俺が言ってることは正しいんだ


「掛井、高峰! 北野まで! こんなとこにいたのかっ」
「松井先生来たー!」
「おお。まさにゴジラっぽい登場だなぁ」
「ゴジラ違いじゃない? それ」


 ――自分がやりたいことは


「放送室の鍵はどこだ。お前らが首謀者かっ」
「匠だよ」
「匠でーす」
「あっさり人を売るなよお前ら!?」 


 ――どんなことでもやっていいんだ


「こんなふざけた真似していいと思ってるのか!」
「たまにはいいんじゃないっすか?」
「掛井っ」
「眉間に皺寄ってますよ、ゴジラ先生。とりあえず一緒に踊ります?」


 ――好きなことをするがいい



「先生先生、鍵はここだよー」
 顔を赤くした教師に、野良猫が持っていた二つの鍵を見せた。教師が手を伸ばす。
「高峰、返しなさい! というか、なんて格好だ。制服は!」
「ヤでーす。制服も海水被っちゃって臭いから、ヤでーす」
 まるきり猫の身軽さで、教師の手を掻い潜って飛び跳ねる野良猫の姿に、また笑いが込み上げてくる。
 飛び跳ねた野良猫は、屋上の縁までいくとかしゃんと柵に足をかける。上半身を乗り出して、校庭で騒ぎを起こしている一団に大きく手を振った。
 生徒たちが見上げて手を振り返してくる。
「受け取って!」
 野良猫が声を張り上げる。
 とたん、小さな手から銀色の鍵が二つ、校庭へと真っ逆さまに落ちていく。教師が慌てて手を伸ばすが、遅い。空気を握るだけだ。銀色の鍵は校庭の砂に跳ね返る。女子生徒がそれを拾い上げて掲げた。校庭が、また、わっと沸いた。
 匠も真雪も、野良猫の隣に並んで上半身を乗り出していた。大音声のロックに負けないように、声を張り上げる。
「死守しろよ!」
「あすか、頼んだからねー!」
 真雪が笑う。どうやら、クラスメイトらしい。背後の教師に後ろ頭を叩かれた。
 校庭にも、校舎から出てきた教師陣が殺到している。校長のはげ頭と教頭の白髪頭も見えた。あすかと呼ばれた少女に手を伸ばす教師。ところが鍵は生徒の手から手へとパスを繰り返される。二つの鍵はばらばらに人の手に渡っている。空に跳ねて、捕まらない。
 陸上部の女子エースの手に渡った。文芸部の男子生徒の手に渡った。保健室の常連の手に渡った。素行不良の男子の手に、いつの間にかいた生徒会長の手に、いつもは目立たない大人しい女子の手に、鍵は次から次へと渡っていく。
 生徒の歓声と、教師の躍起になる声。そして、大音声のロックの音。
 夏の陽射しが、学校を白く照らし出す。
 
 騒動は暫く、治まりそうもない。


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