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 煙草なんて嫌いだった。
 きついお酒の匂いも好きになれなかった。
 ただ、それでも――その目だけは、好きだったのだ。

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黒の呪縛




 唇を触れ合わせる。はじめは軽く。どんどんと、深く。吐息が漏れて、下しきれない唾液が唇の端から僅かに漏れる。舌が絡み合い、求め合う。口付けは、まぶたに移り、耳に移り、また唇に戻ってきて、こめかみに移る。それの繰り返し。
 ――彼のキスは、いつも苦い。
 ヘビースモーカーだからだろうか。舌先に残る苦味と煙草の匂いが、彼と触れ合っているのだというリアルを与えてくれる。
 だけど、ただそれだけだ。
 うすく落とした照明の中、彼の目がふわりと歪む。
 その笑い方が、好きだ。日本人にありがちな東洋人ブラウンの瞳じゃない。闇のような真っ黒な目が笑みの形に歪むのが好きだ。
 薄っぺらい、独占感。
 こうやって肌を擦り合わせているその瞬間だけは、彼のその目が私だけのものになるという、そんな――錯覚。
 錯覚に、過ぎない。それは、判っている。
 それが判らないほど、純粋ではなかった。
 下着がずらされ、胸にキスがおりてくる。彼の頭を抱いてそのキスを受け入れながら、僅かな息を漏らした。
 その瞳に――闇のような瞳に、別れを告げなきゃいけないと、判っている。

 ◆

 彼との出会いは、おそらくそれなりに劇的だったはずだ。
 だからこそ運命のような物を感じていたのかもしれない。我ながら、馬鹿馬鹿しいとしか言い様はないのだけれど。

 ◆

「さよならね」
 刺々しい声が聞こえた――そう思って振り向いたとき、彼は頭からカクテルをかぶっていた。
 流行の洒落た服も、丁寧に染めたような髪も、見るも無残に水に濡れていた。呆然とする店の人々の視線を背中に受けながら、彼にカクテルを引っ掛けたその女性はすたすたと扉から出て行った。
 髪のきれいな女性だった。その印象だけはある。
 店中の人が一瞬呆然と残された彼に視線を合わせ、それからすぐに関わりたくないとでも言うように視線を外した。
 私はそれが一瞬だけ、遅れたのだ。
 髪を拭い、顔を上げた彼と、そのとき初めて目があった。
 見た事もないほど深い、透き通った黒瞳。
 それをくしゃりと歪ませ、目をはなせずにいた私に苦笑を向けてきた。
「振られたよ」
 その言葉に、私は思わず小さく笑い声を上げ、持っていたハンドタオルを貸してやったのだ。
 その日、私自身も別れ話を追えた後、一人でそのバーに来ていたから――彼に変に同情したのかもしれない。
 その、困ったように歪む、どこか寂しげな黒瞳に惹かれたのかもしれない。
 そしてそのときから、私はたぶん彼のその目に囚われている。

 ◆

 ろくでもない男だと言うのは、付き合い始めてすぐに知れた。浮気癖に、ギャンブル好き。自分勝手でわがままで酒癖も悪く、ついでにバツイチだった。
 友人たちもそれをしり、忠告すらしてきた。彼だけはやめたほうがいいと。
 だけど、その目が私に向けられているその間だけ、妄信的になれた。
 彼もわたしを愛してくれているのだと。
 そう――思い込みたかっただけなのかも、知れないけれど。
「なに考えてるの?」
 腕を回して私を抱きしめながら、彼が囁きかけてくる。その肩に顔を預ける。
「俺のことだけ見ててよ」
 甘い言葉は、ベッドの中でしか聞けやしない。そんなときの言葉なんて、信用にあたいするはずがない。結局彼にとっての私は、そういう『道具』なのだろう――ようやくその事実に、頭がめぐり始めてきたのはつい最近だ。
 突き上げてくる感触に、知らずに声が漏れる。重く痛い快感に、彼の背に回した手に力がこもる。
「きもちいい?」
 悪戯っぽく、闇の中で目が笑う。
 黒い瞳は、黒い喜びを見つけている。答えに窮して唇をかむと、更に黒瞳は楽しそうに微笑む。
 その目に別れを告げなければいけない。
 彼を繋ぎとめる術は、もう体を擦り合わせることでしかなくなっている。そんな関係は、早々に断ち切ったほうがいい。そんなことは友人の忠告なんかがなくても、自分で判っている。
 ただ、さよならを告げる勇気がでないだけで。
 黒い目が紡ぐ快感に意識を預けながら、私はその夜――心を決めた。

 ◆

「さよならね」

 ◆
 
 彼と別れて、二週間たった夜だった。
 残業のせいで終電で帰るはめになり、私が自宅の最寄駅に着いた時には、日付変更線を跨ごうとするときだった。
 ホームに下りて、私は深いため息をついた。
 いたのだ。同じ車両に。彼が。
 見た事もない可愛い女性とともに。
 ほら、こういう男だったんだ。
 そんな言葉が、脳内で感情を持たないままにこだましたけれど、それを私が咎めるいわれもないのだとすぐに思いを振り切った。
 彼と私は、あの夜からもう他人になった。
 新しい彼女がいても、何ら不思議はないのだ。
 あの澄んだ黒瞳に囚われているのは、私だけだ。
 地下鉄から地上にでて、家路につく。
 乗る前からあやしかった空模様は、すでに崩れ始めていた。
 ぽつり、ぽつり、黒い雨が降る。
 傘も持っていない私は、結局濡れながら帰るはめになった。
 暗い空。
 暗い雨。
 夜道を一人で、歩いていく。
 その頬を滑り始めたのは、雨の雫だけではなかった。
 それは、あの夜を過ぎてはじめて零した涙だった。
 別れを告げたあの夜には、泣くことなんてなかったのに。
 結局――私だけは、あの黒瞳に囚われたままなのだ。


 煙草なんて嫌いだった。
 きついお酒の匂いも好きになれなかった。
 ただ、それでも――その目だけは、好きだったのだ。
 この暗く沈んだ夜空のような、それでも透き通ったあの黒瞳だけは、好きだったのだ。
 ろくでもない男と知りながら。
 私はそれでも彼を――たぶん今も、まだ愛している。

――End.





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お題バトル参戦作品
テーマは「黒」。お題は「照明」「雨」「カクテル」「地下鉄」。
制限時間は一時間。