第六章『大脱出!』


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「キィ!」
 裏返った悲鳴を上げたのは久野だった。
 こーすけが弾かれたみたいに立ち上がって、壁に駆け寄る。たけるは一瞬反応が遅れたみたいだけど、すぐに転がるようにしてこーすけの後に続いた。
 ガンッ!
 鈍い音が、白い船内に響く。こーすけが〈マザー〉の光を殴りつけたんだ。
 だけどもちろん、壁には傷ひとつついていない。こーすけはちっと舌打ちした。
 ぼくは――
 ぼくは、何も出来なかった。
 久野もぼくの横を過ぎて、こーすけの元へ走っていく。壁を叩いて、キィの名前を呼んでいる。たけるは、床に落ちた鍵を拾って、それから壁を蹴りつけた。
 だけどぼくは――何も、出来ない。動けない。
 頭が熱くて、顔中の筋肉が引きつっているみたいだ。足がセメントで固められたみたいで、動かない。
「〈マザー〉! キィを出せや!」
 こーすけの怒鳴り声に、〈マザー〉は反応しない。こーすけは苛立たしげにもう一度壁を殴りつけた。また、鈍い音が響く。
「ひろと!」
 こーすけが怒鳴って振り返って来た。
 なんだか、こーすけが遠くに見えた。
「何ぼーっとしてんねん! キィ、消えてまうかも知れんねで!」
 走りよってきたこーすけが、ぼくの腕を掴んだ。イタズラが好きそうな、茶色の目が、いまは真剣な色に変わっている。ぼくと同じように、おでこに汗が浮かんでいて、髪がくっついている。そんなのをじっと観察してしまうくらい、ぼくは不思議と静かな気持ちだった。
「片瀬っ」
「ひろとぉ!」
 久野と、たけるも叫んだ。だけどぼくはそれに応えられなかった。
 汗が浮かんでいるこーすけの手を、振り払う。頭が、熱い。ぐらぐらした。
「……無理だよ」
 ぼくの呟きに、振り払われた手を持て余して呆然としていたこーすけの顔色が変わった。
 ローラー・ブレードの爪先をみながら、ぼくは震える声で呟いていた。
「無理だよ。キィの気持ちは、変えられない」
「――ッ」
 次の瞬間、左の頬に衝撃がきた。
 体の中心がぶれて、反動と衝撃をそのまま受けたローラーが滑る。バランスを崩して、そのまま床に転がる。床で打ち付けたヘルメットがじんっと鈍く響いて、頭の中をかき回した。
 左の頬の熱さが痛みに変わったのは、その頃になってからだった。
「こーすけ! バカッ、何やってんの!?」
「アホはひろとや」
 走りよってきてこーすけの手を掴んだ久野に、こーすけは冷たい言葉を吐いた。――ううん。久野にじゃない。ぼくにだ。
 床に転がったまま、ぼくはこーすけを見上げた。
いつも持ち上がっているくちびるの端が、今は強張ったみたいに下向きになっている。
頬は熱かった。頭も。だけど、胸の奥は寒いくらいに思えた。
「何が無理やねん。お前、キィが消えてもええ言うんか。キィが消えてもうてもええんかよ!」
「そうじゃない」
「そう言ってるんと同じやろ!」
「違うッ!」
 一気に、熱くなった。体中の血が沸騰したみたいに熱くなった。指先がしびれる。ぼくはその熱さを外に出すみたいに、大声で叫んで立ち上がっていた。
 こーすけの胸倉をひっつかんで、引き寄せる。
「人の話きーてなかったのかよ、バカやろう! キィが消えてもいいなんて言ってねぇだろ!」
 ほんの少し、こーすけのほうが身長が高い。ローラー・ブレードをはいている今は、ほとんど同じくらいだった。そのこーすけの瞳を睨みつけながら、ぼくは叫んだ。
「消えて欲しくなんかない。だけど、逆だったらお前どう思う? キィがなんて言ったか思い出せよ! 逆だったら、ぼくたちが逆の立場だったら、どう思うんだよ!」

わたしはそんなのは、耐えられない。
あなたたちには、あなたたちとして、この星で――この町で、笑っていて欲しい

 指先のしびれがひどくなって、ぼくはこーすけの胸元から手を解いた。ズボンにこすれて、小さく手が音を立てた。
「……同じじゃんか。ぼくたちがキィに消えてもらいたくないのは、キィがキィでいて欲しいからだろ。バグだってなんだっていいから、キィにいて欲しいからだろ」
 視線が落ちる。ヘルメットからはみだした前髪がうっとうしくて、ぼくは手で顔を覆った。
「キィがキィのままでいつづけるのは、〈マザー〉と一緒にここに留まるってことだろ。そうしたら『母なる計画』の最終候補地に地球がなるってことだろ。そしたら――」
 声が震えないように、ぼくは額に爪を立てた。小さな痛みが、ぼくをつなぎとめてくれますように。
「そしたら、ぼくらは消えるってことだろ。この〈船〉の中にいる以上、ぼくも、こーすけも、たけるも、久野だって、人質とかわらないんだよ!? キィはそれを嫌がったんだ! ぼくらがぼくらじゃなくなることを、嫌がったんだ! 同じだろ!?」
 キィが、キィでいて欲しいとぼくらが願うように。
 ぼくらが、ぼくらでいて欲しいってキィはそう考えてくれたんだ。
 それに、キィがキィのままでい続けたら、いつか〈マザー〉がバグに耐えられなくなって、消えるかもしれない。そうなったらキィ自身も一緒に消える。遠い星の希望も全部一緒くたに、消え失せる。
 そうならないように、この星を『母なる計画』の最終候補地として決定すれば、今度はこの星が、地球が地球でなくなる。ぼくらは、ぼくらでいられなくなる。
 だからキィは、自分を消して『母なる計画』を続行することに――地球以外の星にすることに――しようとしたんだ。
 ぼくらの、ために。
 ぼくには判らなかった。どうすればいいのか、判らなかった。
 たた。ただ――悔しかった。何も出来ないことが、悔しい。
「――ひろと」
 静かな、低い声。こーすけの呼びかけに、ぼくは顔を上げることはできなかった。肌に食い込むほど強く、額に爪を立てる。
「おまえ――バスケん時でも、絶対オレにパスするよな」
 ――?
 唐突過ぎるその台詞に、ぼくは思わず顔を上げていた。
 まゆげを逆立てたこーすけが、睨むみたいにぼくと視線をあわす。
「おまえの方がゴール近かっても、オレにパスするよな」
 ――バスケ?
 何で、こんな時にそんな話なんだろう。訳が判らない。だけどぼくは、あいまいに頷いていた。
「あれ、何でなん?」
「それは……」
 ぼくは一瞬答えに詰まって、それからこーすけを正面から見据えた。
「その方が、シュート率があがるから」
「ちゃう。シュート率ちゃう。ゴールが決まるかどうかやろ」
「どっちだって、同じだろ」
 バスケは、こーすけのほうがどちらかといえば強い。サポートに徹するぼくと違って、こーすけはポインターだ。シュートの練習も、ぼくとは比べ物にならないくらいやってるはずだし、その分こーすけの放ったボールがゴールネットを揺らす率は、ぼくよりずっと高い。
 ぼくだって、下手ってわけじゃない。だけど、確実にゴールを決めるなら、こーすけにパスしたほうが賢いし、そうするだけの連携プレーをぼくらは持ち合わせている。だから、いつもそうしているんだ。
 こーすけはなんだか苦そうな顔をして、ぼくに軽く舌打ちをした。
「単純にシュート率で考えたら、おまえがやったってええやん。オレ、時々そういうんが気にくわんねん。おまえ、いっつもそうや」
「……いま、関係ないだろ」
「一緒や! こうしたほうがええとか、そんなん抜きに、おまえはどうしたいねん? たまにはおまえかて、自分でゴール決めたいんちゃうんか! キィが消えるのをどうしようもないとか言うなや。おまえは、おまえはどうしたいねん!」
 その言葉に――
 ぼくは気付くとこーすけの顔を殴りつけていた。
 鈍い衝撃が右の拳から伝わってきた。こーすけは倒れない。少しだけ体を揺らして、それだけで耐えた。手のひらで頬をこすって、ぼくを睨む。
 その視線を受けて、ぼくは睨み返した。
「ぼくは――ぼくは、こーすけじゃない! おまえみたいに単純でもバカでもない! 何にも考えないで平気だとか大丈夫だとか、考えられない!」
「ほなおまえは、キィが消えてもええ言うんやな!」
「違う!」
 怒鳴りつけて。
 その拍子にまた、顔が熱くなった。視界が揺らいで、ぼろぼろ雫がこぼれてきた。
 腕で顔を隠す。久野も、たけるも、見てるのに。恥ずかしいのか、悔しいのか、よく判らなくなっていた。
「……キィに、消えてほしいなんて、思わない。一緒にいたい。だけど、ぼくも消えたくないし、こーすけもたけるも久野も消えるのはいやだ。どうしたらいいか判らない。ぼくは、キィの気持ちを変えられる気がしない。だって、ぼくと同じだから。キィに消えて欲しくないって考えてんのは、ぼくも同じだから。どうしたらいいか――判ら、ない」
 震える声を必死につなぎとめて、言葉にするのだけで精一杯だった。頭の中がぐるぐるして何を言っているんだか、自分でも判らない。
 だけど、ぼくがそうやって言葉を吐き終えて顔を上げたら――
 びっくりした。
 こーすけは、笑っていた。
 嫌な笑い方じゃない。いつもの、くちびるの端を持ち上げた笑い方。ぼくが投げたパスを受け取ったときみたいな、そんな笑顔だった。
「それで、ええやん」
「……?」
「おまえは、どっちも消えるのは嫌なんやろ? キィも、オレらも」
 言われた言葉に、ぼくはほとんど何も考えずに頷いていた。
「そやったら、それでええやん。どっちも助かる方法を考えようや。そやから、無理やとか言うなや。ええか?」
 こーすけはそういって、まるで何かを確かめるみたいにぼくの胸を手のひらで押した。
「元からそのつもりやったやろ。作戦は、まだ終わってへん」
 そういってぼくを真正面から見つめてきたこーすけの目は、ムカツクくらいカッコよく思えて。――だからか、って思った。だからだ。こいつのこういう目が、信用できるから、信頼できるから、ぼくはいつでもこーすけにパスをする。あの崖から飛び降りるなんて無茶をやった時だって、こーすけの声の向こうでこの目が見えたから、カウント・ダウンの声に身をまかせられたんだ。
 悔しい。
 ぼくはぐっと腕で顔をこすった。
 今のままじゃ、ダメだって思ったから。今のままじゃ、キィを助けられないし、こーすけに勝てる気もしない。だけど、負けるつもりだって、ない。
 鼻から思いっきり空気を吸い込んだ。肺にいっぱい溜め込んで、飲み込んで、それからぼくは言った。
「――ああ」
 こーすけがもう一度にやりと笑う。いつもと同じ、くちびるの端を持ち上げた笑い方。
 ぼくも笑い返そうとして――それはすぐに、遮られた。
「……ねぇ」
 弱々しく、強張った声。ついでに、その声と正反対の強さで肩をバシバシ殴られる。
 久野だ。
 なんだろうと思って振り返った。久野は窓に張り付いて、こっちは見ないまま後ろ手でぼくらを殴りまくっていた。上下していた手が、こーすけの顔面をこする。
「いたっ。……つか亜矢子おまえ、すぐ暴力に訴えんのやめぇや」
 久野は答えないで、バシバシバシバシバシ、連打でこーすけを殴りまくる。
 ……待って。なんか、見たぞ。いつだったか、これと良く似た光景を、見た気がする。
「……」
 いやぁな予感を覚えたのは、ぼくだけじゃなかったらしい。久野の手首を掴んで、とりあえず殴られるのを避けたこーすけと、鍵をにぎりしめていたたける、それからぼくは同時に顔を見合わせ――そっと、窓に近づいた。
『……』
 窓の外に目をやって。ぼくらは思いっきり呼吸を止めていた。
 心臓が止まるかと思った――というかたぶん、自力で心臓止まるんだったら、止まってた。
 それくらい、びびった。
 地上が。ぼくらの学校が。海のある町が。角野町が。

 ――ありえない勢いで、ぐんぐん眼下に遠ざかっていた。

「……飛んでるん、ですけどぉ」
 ようやくになって漏らした久野の泣きそうな声に、ぼくらは止まっていた呼吸を再開させて、同時に喉が悲鳴をあげそうな勢いで、叫んでいた。
『見りゃ判るうううううっ!』

 パニックになるってのは、案外簡単なのかもしれない。
「つーか待て、ありえん。ありえへん。宇宙? 宇宙? オレらこのまま宇宙へれっつごう? 宇宙ステーション? 月は青かった!?」
 こーすけが意味もなくその場でぐるぐるまわり始めて。
「違うでしょ!? 地球でしょ! そうじゃなくて、とりあえず落ち着きなさいよ! 問題は、ええと、ええと、ニュートン! 万有引力! 重力!」
 久野がこーすけの周りで踊り始めて(ぼくにはそう見えた)。
「久野も十分落ち着いてないよ! その前にたぶん酸素! 空気!」
 ぼくはその久野を落ち着かせるために手をバタバタ振り回して。
「ニュートンってなんなの? 宇宙って息できるの?」
 たけるはたけるで、相変わらず両腕を振り回しながらの「なの?」攻撃をはじめて。
 ぼくらはしばらく『毛利さんだ』とか『毛利さんって誰なの』とか『スカリーとモルダーが』とか『宇宙船地球号』とか意味不明のことを叫びあって、それから同時にごっちんおでこをぶつけた。そのまま四人でしゃがみ込む。
 ……痛い。
「ええと……落ち着こう、とりあえず、落ち着こう」
 おでこをおさえて半分涙目になった久野が、弱々しく呟いた。ぼくらはぼくらでおでこをおさえながら、無言で頷く。
「三択ね」
 久野はそういって指を立てた。
「一、逃げる 二、あきらめる 三、見なかったことにする」
「ネガティヴッ!?」
「だって他に思いつかないんだもん!」
 思わず叫んだぼくに、かぶせるように叫び返してくる。
 ぼくは頭をかきむしろうとして、ヘルメットを被っていたことに気付いた。仕方がないので、両手でヘルメットごと頭を叩く。
「選択肢、四!」
 言って、ローラー・ブレードのまま立ち上がった。見上げてくる久野に、四本指を立ててみせる。
「――キィをなんとかして、ぼくらもなんとかする!」
「何とかってどうするの、っていうかどうやって!」
「気合」
 ばっちりがっちり言い切って、ぼくはたけるに手を差し出した。久野がメガネの奥で目をまん丸にして、口もぽかんとあけていたけれど、一切無視。
「たける、鍵」
 あわてたみたいに、たけるがぼくに鍵を手渡してくる。ぼくはそれを握り締めて、ひとつ深呼吸した。
 ローラー・ブレードを蹴って、白い壁――〈マザー〉に近付く。
「〈マザー〉!」
 淡く浮かび上がっている緑色の文字に向かって、ぼくは声をあげた。
「これ、どういうことだよ。納得いくように説明しろよ! それから、キィを出せよ!」
 一瞬の沈黙。すぐに文字は緑色に光り始めて、相変わらずの淡々とした言葉で話してきた。
 ――とんでもないことを。
最終決定を出した。地球を『母なる計画』の最終候補地として、決定する
 その、言葉に。
 ぼくらは数秒言葉を失い、それからネジ巻き人形みたいなカクカクした動きで顔を見合わせて――
 同時に思いっきり声をあげていた。
「でで、ど、ど、で――どうして!?」
 ろれつが回らなくなった久野が、それでもなんとか〈マザー〉に詰めよった。
〈マザー〉の緑色の光は、静かにぴかぴか光るだけだ。
〈チルドレン〉はあくまで調査端末にすぎず、決定を出すのは〈マザー〉だ。データ的には多少の問題は含まれていたが〈チルドレン〉がこの惑星以外と希望したことが、逆にこの惑星が規定範囲内であり、決定に値する場所だということに拍車をかける要素となった
 ――ええと。
 すらすらと出て来る言葉に、一瞬判断が追いつかなくて思わずまゆげを寄せたけど、すぐに理解した。
 ようるすに……キィが地球をかばったことが、逆に地球に決定するきっかけになっちゃった、ってことだ。
〈マザー〉やキィのいう『多少の問題』がどんなものなのかは、ぼくらには想像つかないけれど、それはこの際どうでもいい。問題は、ただひとつ。
 地球が『母なる計画』最終候補地として、決定されたって事だ。
「ちょっと待てや! 何やねんそれ、キィの気持ち、逆に利用しようっていうんか!」
そもそも〈チルドレン〉に『わたし』などありえない。〈チルドレン〉の利用は〈マザー〉として当然のことだ
「くそったれ! ぶっ壊したる!」
 こーすけが怒鳴って、壁を蹴りつけた。壁は一瞬へこむように見えたけれど、すぐにもとの形に戻った。効果なし、だ。
 ぼくはカギを握り締めたまま、奥歯をかんだ。どうする? どうすればいい? 気合で何とかするっていったけど、気合にだって方法は必要だ。
 いままでバラバラに拾った情報を、ぼくは頭の中で整理し始める。
 もしかしたら、何かのヒントがあるかもしれない。
「片瀬?」
 となりでたけるを抱きしめていた久野が、強張った顔でぼくを振り返って来た。
 ぼくは顔を上げて、久野を見る。
 そして、ふと国語の授業で習ったことわざを思い出した。
 ――三人よれば、モンジュの知恵。
 今、この場には四人いる!
 一人で考えることなんて、ない!


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