Chapter1. 東の地より来たりしもの - 5

「どうして。こんな辺境でやらなくても、どうせテノチティトランでモクテスマが行うわ。ここでやらなくても朝は来る。ここでやるのは首長の自己満足にすぎないわ!」
「ま、そうだろうがな。戦には負けた。それもあんたらに、だ」
 皮肉な笑みを、トゥクスアウラはマリナリの背後にいたアギラールに向けた。
「白い肌。東の地からやってきた得体のしれない生物や武器を携えたもの。――ケツァルコアトル」
「またその名か」
「俺はまぁ、あんま信じちゃいねぇんだけどな」
 ひょい、とトゥクスアウラは肩をすくめた。
「ケツァルコアトルは夜の神テスカトリポカと仲が悪い。ま、ケツァルコアトルをアステカの地からおんだしたのは夜の神だってんだから、仕方ねぇわ。で、だ。そのケツァルコアトルがいることを知ったら、夜の神がどう動くかってな。がむしゃらに現れようとするんじゃないか。その力に太陽神が負けちまうんじゃないか――なんてな。怯える輩もいるんだよ」
 帰ってくる神があらわれた。追い出した神は夜の神である。太陽の神と夜の神の戦いに影響があるのではないか――タバスコの民はそう考えたのだろう。そして首長は、その不安を収めるために行動に出たということだろう。政治的判断として、間違ってはいない。マリナリにもそれは理解できた。
 だが、納得したくはなかった。
「そんな理由で」
「マリナリ。お前は賢い。判るだろう? うちのご主人様は首長の考えに同意して、手持ちの奴隷から俺を選んだ。ま、怪我のおかげで仕事も出来ないからな」
 兄が妹に言い聞かせるように、トゥクスアウラはマリナリの頭をくしゃりとなでた。それから、アギラールに視線をやる。
「マリナリは俺の大切な友だ。奴隷だがな、逸品の女だ。ぞんざいに扱うなよ」
 アギラールは答えない。だが、トゥクスアウラはそれで満足したようだった。ぽんとマリナリの頭を軽く叩いて歩き出す。
「じゃあな、マリナリ。元気でな」
「トゥクスアウラ!」
 歩きだしたトゥクスアウラは、後ろ手にひらりと手を振った。それだけだった。あっけない別れの挨拶の後、すぐに闇に紛れていってしまう。
 闇を睨みつけ、マリナリは唇を噛んだ。背後から、アギラールが声をかけてくる。
「ケツァルコアトルとはなんだ」
(こんな時に!)
 無遠慮な問いかけに苛立ちを覚えながら、マリナリは細く息を吐くことで何とか気持ちを落ち着かせた。
「……昔の神様よ。今モクテスマが収めるアステカ帝国が力を持つ前、トルテカ時代の神様。平和の神様だって言われてるわ」
「平和の神。お前たちの神は何人いるんだ」
「沢山よ。その神様は白い肌を持つ神だった。大昔テスカトリポカに騙されて戦に負け、この地を去った。ただ、予言を残したの」
「予言とは」
 マリナリは振り返った。
 アギラールの色の定まらない瞳を見据え、告げる。
「我はまた帰ってくるだろう。東の地から再びこの大地へ。そしてこの地を収めるであろう。その年は」
 こくん、と我知らず喉が鳴った。
「一の葦の年。……今年よ」
 アギラールは何も言わなかった。暫く、互いの心情を読みあうように見つめあった。しかし変化はない。マリナリは視線をはずした。歩き出す。背中に、声がかかった。
「真実の神はお前たちの神の中にはない。明日、お前たちには洗礼を行う。名も、改める。そこでお前たちは真実の神を知るだろう」
「どうでもいいわ」
 切り捨てた。神はある。だが、神は数多いる。神に真実も否もあったものではない。そして何より、今のマリナリには些末な事だった。
 友の命。
 無論、奴隷であるからにはいつかこういった日が来るであろうと思ってはいた。今までの友の中にも、あの祭壇で散っていった者はいる。諦めと、享受。どちらも感情としてある。だが、今回は違った。ただの贄ではない。この一軍がいなければ、散らなくてすんだ命だ。
(まだ、道はある)
 きゅ、とマリナリは小さな手を硬く握りしめた。



 闇の中、アギラールはすっと瞼をあげた。夜の静けさの中、微かに波音と寝息が混じる。そして、気配も揺れている。アギラールは息を殺したまま待った。気配は静かに移動する。寝台へ。一瞬、指先が震えたがなんとか握りこんで抑えた。
 影が――動く。
「思い切りが足らんな」
 低く、笑みを含んだ声がした。同時に女の悲鳴が上がる。ほっと息を吐いたアギラールに声がかかった。
「お前の言ったとおりだったな、アギラール」
「ええ。残念ですが」
 手元に用意してあった洋燈に火を灯すと、眩しさが闇を押し返す。その灯りの中に浮かび上がったのは寝台で身を起こすコルテスと、そのコルテスに組み伏せられたマリナリの姿だった。
 そのマリナリの手の中には、灯りを受けて鈍く輝く短刀があった。
「まったく、寝込みを襲われちゃおじさん困っちゃうなぁ。襲い返しちゃうぞーっとな」
「放しな……さい」
「思い切りが足らんな。もっとすぱっとばさっと行かねぇとどっちにしろ死なないぞ」
「何を言っているか判らない!」
 片やエスパニャの言葉で、片やマヤの言葉で好き勝手に喚いている。若干混乱しかける頭を抑えながら、アギラールは声を絞り出した。
「マリナリ。何の真似だ。死にたいのか」
「私は自ら死を望むなんてことはしないわ。死ぬまでは生きる」
「ならばなんだ、この事態は。コルテス殿を殺めようとしたように見えるが?」
「そうよ」
 はっきりと言い切られ、さすがに頭痛がした。
「自分の立場を理解しているのか」
「しているわ。私はトゥクスアウラの友よ。貴方たちがケツァルコアトルだなんて信じない。けれど、この男がいなければ――あるいはただの人間だと判れば」
「友を救える、か? 随分安直な考えだな」
 マリナリがこちらを睨みつける目に力がこもった。コルテスがマリナリを組み敷いたまま呑気な声を上げた。
「おーい部下一。お前らの言葉さっぱりなんだけど」
「……、アギラールです。馬鹿な娘だということを再確認したまでです。どうしますか、コルテス殿。この娘は」
「そのままでいいだろ」
 言うなり、コルテスが動いた。ぎりっとマリナリの腕をさらに捻り上げる。マリナリの口から悲鳴がさらに漏れた。同時に、短刀が床に落ちる。アギラールがそれを拾い上げたのを見てから、コルテスはぱっと手を放した。マリナリが倒れこむ。が、すぐに身を起こした。相当痛んだのだろう――右の手首を左手で抑えながら、肩で息をしている。
「お前の力と技術では、俺にもアギラールにも敵わん。さっさと糞して寝てろ、お嬢ちゃん」
 さすがに汚い言葉のところは伏せたが、コルテスの言葉をマヤ語に訳して告げた。マリナリはぎっときつい視線を投げてきたが、そのまま立ち去った。軽い足音が遠ざかっていく。
「いいのですか、行かせて」
「いいだろ? 俺生きてるし」
「……結果論では」
「結果が大事」
 コルテスが軽く首を回す。
「ま、油断してたら危うかったかもしれんがな。忠告どうもな、部下一」
「アギラールです」
 あの時、なんとはなしに感じた不安をコルテスに告げただけだ。実際あんな強硬手段に出るとは思わなかった。よほど、あの友とやらが大事なのだろう。
「しかしまぁ、俺が神か」
「野蛮な民の考えです」
「面白いじゃないか」
 コルテスが、にっと笑みを深く刻んだ。薄く、口を開く。
「一芝居、うつか」