Chapter2. 昇る生命 - 1



 高く、低く。深く、緩やかに。透き通るように響きわたる歌声だった。目の前にいる白髪の老人から出ている歌声だとは到底思えないほど美しい。
 野営場にした広場の中、急遽組み立てられた即席の祭壇だった。マリナリの知る祭壇とは根本から違い、何より素朴だった。急拵えなせいか、そもそも、彼らの祭壇はこんなものなのか、目立つものと言えば大きく掲げられている十字の飾りと、船にあったらしい小振りの女性像ぐらいだ。
 その祭壇を前に、マリナリたち二十人の元タバスコ首長の奴隷は一様にひざまずき、頭を垂れていた。そうするように、とのアギラールの指示だった。反論したいところではあったのだが、昨日の今日ではどうすることも出来ず、マリナリはティルパや仲間と並んでその指示に従っていた。
 白髪の老紳士――オルメード神父とアギラールは言っていた――から紡がれる歌声は、こんな状況でも聞きほれるほどに美しい。歌詞の意味も判らないがそれは些細なことだと思えた。
 やがて歌が終わると何やらオルメードが唱え始める。
(不思議な発音ね。マヤ語にもナワトル語にもない音……)
 音に酔う、ということがあるとしたらこんな気分なのかもしれない。音が舌の上でくるりと回っているようで心地よく感じる。その隣でアギラールが一言一言、噛んで含めるようにマヤ語で何かを告げていた。神がどうとか、祈りがどうとか救いがどうとか。断片的にだけ聞き取りながら、オルメードの音にゆらゆらと意識を飛ばしていく。半分眠り始めた頃、コルテスが一歩前に出た。何事か、と見ていると、彼はアギラールとともに、女たちひとりひとりの前に立った。何かをアギラールが女に問い、その答え聞いてコルテスが頷く。それから――
 一連の動作を二人ほど見終わった後マリナリは理解した。名前だ。アギラールが女に名を訊ね、そしてコルテスがそれに近い、けれど聞きなれない名前を告げていく。
 名前の授与。
 すぐにアギラールがマリナリの前に立った。やや顔をしかめ、
「マリナリ」
 とコルテスに告げる。コルテスは頷き、ふっと笑みをこぼした。
「マリーナ。ドニャ・マリーナ」
 コルテスの言葉に、アギラールは訝しげに二、三、コルテスと言葉を交わす。すぐに短く嘆息し、マリナリに向き直った。
「マリナリ。お前は新しい名を授かった。マリーナだ。ドニャ・マリーナ。神を敬うように」
 ――そうして、滞りなく洗礼の儀礼は終わった。ややあって、ティルパが顔を綻ばせて問いかけてきた。
「ねぇ、マリナリ。貴女はなんて名前をもらったの?」
「マリーナと言っていたわ。何、うれしいの、ティルパ?」
「だって、名前の贈物ですって! 素敵だわ。あのね、マリナリ。じゃなくて、マリーナ、のほうがいいのかしら。あたしはね、ディアナって言うんですって!」
 ティルパはマリナリと違い生まれた頃から奴隷の身だ。誰かに何かを与えられる、という経験が貴重すぎるのだろう。嬉しそうに微笑んでいる。だが、マリナリは違った。
 名を与えられた。よく判らない神の教徒とされた。それは名を奪われ、アステカの神を否定されたこととしか思えなかった。それはすなわち、マリナリがマリナリとして生きてきた全てを否定している。
 それを素直に喜べと言われたところで、受け入れられるわけがない。実際、仲間の女性たちもティルパのように喜ぶ者、黙り込んでいる者、様々な反応だった。
 だが、今のマリナリにはそれすらどうでも良かった。空を見上げる。陽はもう随分と高くなっている。あと数時間もすれば、タバスコの祭壇の上、ウィツロポチトリに友の血と心臓が捧げられるだろう。
 じゃあな、マリナリ。
 内耳に残る友の声を反芻し、マリナリは薄い雲をただ睨んだ。



 トルティヤでの簡単な昼食の後、マリナリはアギラールに呼び出された。
「ドニャ・マリーナ、共に来るんだ」
「何よ」
「街へ行く」
 呼ばれたのはマリナリとティルパだった。アギラール達は、アギラール、コルテス、それから昨日の神経質そうな男――アギラールは彼をペドロと呼んだ――の三人、そしてもう一人増えていた。あのマリナリにあてがわれた温和そうな男だ。彼の名はアロンソというらしい。各々、やはり外套衣を頭から被っている。
 何故街へ行くのか。マリナリの問いかけにアギラールは答えなかった。トゥクスアウラの事はティルパには言っていない。ティルパもトゥクスアウラと友だったが、だからこそ言えなかった。向かう足は重かった。まだ儀式には時間があるが、もう準備は始められているだろう。神に捧げられることが決まった段階で、その人物は身を清められ丁重に扱われる。
 街についても、今度は真っ直ぐ広場には向かわなかった。コルテスの希望だったようだ。街をゆるりと歩き、市場や民家を眺める。時々、アギラールが質問を投げてきた。人々の暮らし、よく食べる物、そんなどうでもいいことだった。ペドロやアロンソはあまり興味は無さそうだったが、アギラールとコルテスは随分と熱心だ。それぞれに半ば上の空で答えながら、刻一刻と迫るその時をマリナリは痛いほど感じていた。
「――」
 やがて、コルテスが何か言い、皆が向かう場所を変えた。それまではただ気の向くままに歩いていたのに、明確な意思を持って進みだしたのだ。すぐに、広場に向かっていると気が付いた。マリナリはアギラールに抗議した。
「どういうつもり」
「急げ。始まる前につかなければならない」
「私をその場に連れていきたいから、呼んだのね」
「ある意味ではそうだが、お前の考えとは違うだろうな」
 急ぎ足で進んでいたアギラールがマリナリを振り返った。足を止め、正面から向かい合う。
「あの男は友なのだろう」
「……ええ。大切な友人よ」
「お前は諦めの悪い女だと思っていたが、違うか?」
 昨晩の、コルテスに対しての行動を指しているのだろう。ちらりと、コルテスに視線をやる。前を行く大きな背中は、こちらのやり取りに気付いていないわけがない。ただ、特に問題視はしていないだけだろう。
「だが、コルテス殿に手をあげようという馬鹿な真似はするな。あの方は私の恩人であり、お前の恩人でもある」
「恩人だなんて」
「ドニャ・マリーナ。お前はもう奴隷ではないんだ」
 マリナリの言葉を遮り、アギラールは告げた。
「欲したものは得ようと動いていい。その為なら、周りにあるものをすべて使え。いいか、ドニャ・マリーナ」
 強い言葉だった。
「大切な友なら、救え」