Chapter6. テノチティトランの夜明け - 4

 風が吹き、星が瞬き、雲が流れる。星明かりは雲に紛れ、また風が吹き光を大地に放つ。
 葉擦れの音がする。軽く揺さぶられた緑の匂いに、水の匂いが混じる。土の香りもする。静かに響くのは虫の音だ。水路のせせらぎも聞こえる。
 全てがゆっくりと、時を刻んで過ぎていく。
 マリンチェは時折、何かの詩を口ずさんだ。それはマヤ語でもエスパニャ語でもなかったのでアギラールにもコルテスにも判らなかったが、祈りを感じる響きだった。
 ピィッと甲高い鳥の鳴き声がした。同時にマリンチェが立ち上がった。アギラールとコルテスも腰を上げた。
 空が白ばみはじめた。テスココ湖が色を帯び、その向こうの山が煌めき始める。陽射しが溢れる。
 それは紛れもない――朝だった。
「ふふ……ふ」
 マリンチェが笑い出した。最初は小さく、やがてその笑い声は大きくなった。彼女がぐっと手を空に伸ばす。そして勢い良く振り返った。
「――おはよう!」
 明るい声で言われ、アギラールは驚いた。コルテスもさすがに驚いた様子だ。
「お、おはよう……」
「朝ね!」
 笑いながら言うマリンチェの顔が涙で濡れている。
「本当に朝が来たわ。朝になっちゃった! テノチティトランで心臓を捧げていないのに、朝が来ちゃったわ。ふふ、なんだろう。おかしいのか悔しいのか嬉しいのか、全然判らないの。でも、笑わずにいられないの。朝が来たわ!」
 高らかに笑って、マリンチェは踊るようにくるりとその場で回った。朝の光が、反射する。
「ねぇ、素敵ね。アギラール!」
 その姿が眩しかった。
 ――そしてアギラールは諦めた。胸のうちに生まれつつあった感情が何かを、理解しないでいることを諦めた。ぐいと、マリンチェを抱き寄せる。
「え、何。どうしたの」
 腕の中で驚いたように彼女が目を丸くする。だが、興奮が収まらないのだろう。その表情も明るいままだ。
「いや……、抱きしめたくなった」
「はい?」
「おいこら、抜け駆けか」
 コルテスの苦笑が振りかかる。
「すみません。貴方に渡すことを考えたら嫌がってる自分がいました」
「……言わなきゃよかったよ」
 コルテスの苦笑が深くなる。腕の中のマリンチェは目を白黒させていた。その様子も愛らしいと思ってしまい、アギラールは自分の俗世的な感情に苦笑した。
「マリンチェ、すまない」
 アギラールはそっとマリンチェの頬に手をかけた。
 唇を寄せる。マリンチェの唇は薄く、けれど柔らかだった。
 少しの間、時が止まったかのような錯覚があった。だが、次の瞬間にはマリンチェの腕に弾かれていた。こちらを突き飛ばしたマリンチェは黙ったまま幾度か口をぱくぱくとさせたあと、くるりと背を向けて駆け出していった。危うい動きで神殿から降りていく。
「あーあ。お前どーすんのあれ」
「どうしましょうかね。まぁ、貴方と違って殴られはしませんでしたから」
 コルテスがはは、と小さく声を立てて笑った。
「お前そんなこと覚えていたか」
「考えないようにしてはいたんですけどね。無理でした」
「……開き直りやがって」
「覚悟を決めた、ということにしておいてください」
 言いながら、アギラールは首にかかっていた十字架を外した。一度額に捧げてからそれをアステカの神殿の上、生贄の台へと投げ捨てる。
「――やめるのか?」
「貴方のお言葉を借りるなら、神への裏切りですが」
 空を見上げた。陽は温かい。
「この身を神に捧げると誓い、修道士になりました。ですが気持ちが抑えられなかった。それは神への裏切りです。実はオルメード神父に話もしましたが。……今、選びます」
 見渡す眼下では、テノチティトランが朝の光に包まれていた。人々が恐る恐る、空を見上げている様子が伺えた。
「私はここの民に彼らの神を捨てさせたも同然です。なら、私も捨てましょう。どの神も、何も、望んでなどおられないのでしょう」
 コルテスがひょいと肩をすくめる。
「ま、止めやしねぇがな。せっかくお前の望みとやらを作ってやったというのに、面倒くさい奴だ」
「すみません。それは、オルメード神父がしてくださるでしょう。神は縋るものです。縋るものがない状態で立っていられる人間はそう多くはありません。ここの神々の価値が揺らいだ今、オルメード神父がお伝えするキリストの言葉は染みていくでしょうね」
「ああ。だろうな。人は変わっていく。土地を変える時に人の信じるものを揺るがせるのは、一番確実だ」
 アギラールは頷いてもう一度空を見上げた。
「私の望みが決まりました」
「ほう?」
「ここで、彼女と生きて行きたい」
「……俺は無視か」
「彼女が貴方を選べば、従わざるを得ませんけど。まぁ、その辺は今は置いておきましょう」
 風が吹く。冷たいが、気持ちいい風だった。空は青い。今日は快晴だろう。
「――いい朝ですね」



 しどろもどろになりながら説明したマリンチェに、テクイチポはきらきらとした顔を見せた。
「ずいぶんと、大胆な殿方ですのね」
「信じられないわ……どうしてよ。そりゃコルテスだって……でもあれは」
「え、コルテス様とも?」
「違うわ! あれはだって、奴隷に対しての扱いだったのよ。だから私怒って……」
 だが、アギラールは違うだろう。彼が奴隷としてマリンチェを見ているとは思えない。だとすると口付けの意味も変わってくる。
「あー、もー、馬鹿……!」
「あは、マリンチェ様かわいらしいです」
 随分年下のテクイチポに笑われて、マリンチェはさすがに頬をふくらませた。だが、テクイチポの次の台詞にその思いも吹き飛んだ。
「ねぇ、マリンチェ様。朝が来ましたね」
「……ええ、テクイチポ様」
 ふと、微笑み合う。メヒコに生まれたものとして、その事実がとてつもなく不思議で、恐ろしくて。同時に苦しいほどに嬉しかった。