Chapter8. 悲しき夜 - 2




 傷を負い、息を切らし、ぼろぼろになりながら対岸のトラコパンの街へたどり着いた。コルテスがいた。ここまでたどり着いた者たちを彼は順に抱擁した。マリンチェを見ると、その腕を広げた。
「よく辿り着いた」
強く一度抱擁された。
 コルテスは自身も負傷しながら、先にたどり着いた者たちとともにその街を占拠していた。たどり着いた者達に抱擁をしたあと、神殿へ行け、と言った。神殿では休息が取れる様子だった。マリンチェは神殿に向かわなかった。対岸で待ち続けた。
ひとり、ふたりと息絶え絶えになりながらエスパニャ兵が、トラスカラ兵がたどり着いてくる。だが、辺りがとっぷりと暗くなっても望んだ二人の姿はなかった。殿にいたはずのペドロが対岸にたどり着いた段階で、コルテスはマリンチェを引きずって神殿へと向かった。休息をとれ、と言われた。だがすぐに神殿もまたアステカの戦士に囲われた。雨は降り続けていた。星の灯も、月の光も何もない中を逃げ続けることとなった。シコテンカトルは生きていた。トラスカラまで行けば必ず安全だといった。全軍、それに従うしかなかった。
 暫く先へと進み、追手の気配が消えた所で再度の休息が取られた。とても大きな糸杉の樹の下だった。
 皆、倒れこむように大地に横たわった。無傷なものなど一人もいなかった。降りしきる雨の中、掠れた呼気だけが染み渡る。
暫くした頃、頭から血を流したままのコルテスが立ち上がった。ふらりとした足取りで陣中を歩き出す。
 そして彼は、エスパニャ兵たちの名をひとりひとり、呼び出した。時折返事が上がり、しかし大半は答えがなかった。ふう、とコルテスは大きく息を吐いた。月のない雨空を睨み上げていた。その横顔に涙の形跡を、マリンチェは見た。
「――アロンソ・ヘルナンデス・プエルトカレーロ」
 返事はない。雨音だけが染み渡る。
随分と待ってから、コルテスはちらりとマリンチェに視線を寄越した。そして、ふっと、口元を緩めた。
「おい、こら。部下一」
 空中に、小さな声が溶けた。間があった。コルテスが目を伏せた時――
 声が、した。
「……アギラール、です」
 心臓が跳ねた。
 少しだけ頼りないような、そんな声音。いつも通りの茶番なやりとり。それを、聞き違えるわけがない。
 振り返る。
 青が――あった。
 雨の中、僅かな篝火に照らされた青の瞳が、こちらを見据える。一瞬、その目が驚きに見開かれる。
 その瞬間、マリンチェは走り出していた。疲労で足がもつれてまともに前に進めない。それでも転がるようにその姿を求めた。
 名を呼ぼうとしたが、喉が張り付いたようで声が出ない。少しの距離が酷くもどかしく感じた。
 大きな腕が広げられていた。飛び込むと、一緒になってもんどり打って倒れた。誰かが小さく笑った。支えきれずに倒れながら、それでも彼はマリンチェを強く抱いてくれた。
「アギラール」
 ようやく声が出た。背に回る腕に、力がこもる。
「ああ」
 紛れもなく、アギラールその人だった。
 がさりと足音がした。すぐ後ろに、コルテスが立ったようだった。苦い笑い声だった。
「……遅せぇんだよ」
「すみません。ちょっと死体のふりをしてたんで」
「馬鹿野郎」
 次の瞬間、アギラールもマリンチェも悲鳴をあげていた。コルテスが二人をまとめて抱擁したからだった。
「いっ、痛い、痛いです、コルテス殿!」
「くるし、重いわよ! 離れてよ!」
 また、誰かが笑った。さざなみのように、疲れきった軍に笑い声が染みていった。泣き声と、鼻を啜る音と、それでも確かに混じる笑い声が、雨の夜に響いた。
「うるせえ。生きてる痛みだ」
 コルテスが泣きながら、笑った。
「――よく戻った。よく戻ってくれた。アギラール。……感謝する」
 アギラールは一瞬あっけにとられたように目を丸くし、そして微笑んだ。
「はい」



 トラスカラまでは随分と距離があった。誰もが疲れきっていたが、だが、前に進んだ。幾度か追手が現れ、その度に戦になった。誰も諦めなかった。途中の街でクイトラワクが大勢の戦士を携えて待ち構えていたが、必死に先を切り開いた。
 皆、生きたかったのだ。
 クイトラワクがこちらの壊滅作戦を諦めて撤退した。身も心も傷を負いながらエスパニャ軍は進軍した。山を越えた。草原を越えた。川を渡り、街を抜けた。
 そしてようやく、トラスカラの域内に一行はたどり着いた。
「さあ、トラスカラです。もう追手は入れさせません」
 シコテンカトルが宣言した。生き残ったエスパニャ軍は歓喜した。水を求め、酒を求め、倒れこんだ。トラスカラの民はその全てを受け入れてくれた。食糧も、休む場所も惜しむことなく提供した。
「助かった、シコテンカトル。恩に着る」
「何の。我らは友です」
 コルテスの言葉にシコテンカトルは太い笑みを浮かべた。マリンチェがほっと息をついた時、ふらりとアギラールが寄ってきた。死体のふりをした、との言葉通り、彼は満身創痍だった。簡単に手当はしてあったが休める場所で休まずに歩きまわっていい状態でもない。マリンチェは顔をしかめたが、アギラールはそのまま、シコテンカトルにマヤ語で話しかけた。
「シコテンカトル殿」
「何でしょう」
「訊いてもいいだろうか。何故、ここまで、と。それほどアステカを憎んでいらっしゃるのか」
「古くから相容れない国ではありました。ですが、同じナワトル語を解し、同じ先祖を持つものです。ただの憎しみでは、貴方方にここまでは出来ません」
 マヤ語の会話に入れないコルテスが、マリンチェに訳すようにつついたがマリンチェは黙った。二人の会話は、とても大切な物に思えたからだった。
「では、何故」
「いつか言ったでしょう。勇敢なるマヤの戦士の中に、エスパニャの魂を見たと。その魂の輝きは、今もまだ消えていない」
 アギラールは暫く黙った後、きつい眼差しで空を睨み上げた。だがその横顔には、微かな笑みが浮かんでいた。



 休息が取られ、怪我が癒え始めた頃コルテスが皆を呼んだ。トラスカラの中心、神殿の前の広場だった。夕刻だった。ゆらゆらと揺れる赤い陽が血のようだった。
 彼はその場でまず、助かった者の無事を喜び感謝した。そして、亡くなったものへ祈りが捧げられた。オルメード神父が無事だったので、彼の歌声が染み渡るように響いた。
「皆に、告ぐ。一度俺はあの首都を脱出した。だが――再度、戻るつもりだ」
 一瞬、ざわめきが広がった。
「愚かだと思うか?」
 苦笑交じりの声はざわめきに杭を打った。静まり返った広場で、コルテスはまるで懐かしい物語を語るかのように目を細めて続けた。
「夢がある。俺はあの地に新しいエスパニャを作りたいんだ」
 新しいエスパニャ――ヌエバ・エスパーニャ。それはまるで、魔法のように響いた。
「物資豊かで、美しい街だ。水路があり、街路樹がある。だがそこに血に濡れた神殿はない。誰も、どんな幼子も大人も、いつか生贄に選ばれるかもしれないという怯えはない。友を、家族を生贄に捧げられることもない。形式じみた〈戦争〉もいらぬ。周りに重い税を課すこともない。そういうことが叶えられる。あの地には、その力がある。俺はそう考えているんだ」
 いつしかトラスカラの民も周りに集まっていた。コルテスの言葉はエスパニャ語だ。話す内容は判らないだろう。だが、不思議と誰もが彼を見つめていた。
「今回の戦は、確かに痛手だった。多くの者を、人を失った。それは指揮官である俺の技術不足だ。だから俺は、皆に決めてほしい。自分で決めろ。覚悟を持て。自分の進むべき道を、未来を、望みを選べ。エスパニャにキューバに帰りたいのならそれも正解だ。船は用意しよう。咎めることなどしない。俺を切り捨てたいのなら、それでもいい。受けて立とう。どんな選択肢を選んでもいいんだ」
 それでも、とコルテスは言った。
「それでもなお、俺とともに来てくれるものがいるのなら、共に築こう。新しいエスパニャを。誰も涙しない、新しいエスパニャを築こう」
 コルテスが立ち上がった。だが、彼以外の者はその場に座り込んだままじっと考え込んでいる。
「明日、朝までに決めてくれ。俺はここで待っている」
 夕焼けがすべてを包み込み、赤く揺らいで落ちた。