第一幕:邂逅―めぐりあふ―  壱


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「松風」
 背後からの呼びかけに、松風亮はのんびりと振り返った。
「先輩」
 ひとりの少年が、渡り廊下の人ごみをするりと器用に抜けてくる。この暑いのにきっちりとブレザーの上着まで身に着けていた。校章はひとつ上の二年生を表す緑色。長めに切られた癖のある髪に縁なしの眼鏡。口元には薄い笑みが浮かんでいる。制服のネクタイを緩め、叶時也は亮の前で足を止めた。
「もう帰るの、松風?」
「はぁ、まぁ。別に用もないですし」
「淋しい生活」
「ほっといてください」
 半眼で告げると、時也はくつくつと声を立てて笑った。
 時也はこの学校の生徒会長だ。亮が入学してすぐの四月の半ば、校内で道に迷っていた所を助けて貰って以来、何かと付き合うようになった。遊ばれている、が正しいところのような気がしなくもないが。
「つまり君は、この梅雨の晴れ間の金曜日に、暇なわけだ」
「つくづくほっといてください」
「じゃあ僕に付き合ってよ」
「は?」
 妙な話の流れに、思わず眉間に皺が寄る。時也は一見人畜無害な笑みを浮かべて、くいっと親指を立ててみせた。
「体育館。女バス、練習試合らしいよ」

 ◇

 体育館の二階は観覧席になっている。入学式や卒業式では保護者席になる椅子に座り、反響する音に飲まれたまま、亮はぼんやり天井を見上げていた。
 時也はというと観覧席から身を乗り出し、コートを見下ろしている。
「へぇ。上手いね、石川さん」
 感嘆の声。出された幼馴染みの名前に、亮は椅子に預けていた背中を持ち上げた。時也の傍により、見下ろす。コートでは女子バスケ部員が走り回っている。その中によく見慣れた顔を見つける。幼馴染みの石川理沙。バスケの上手い下手は正直よく判らないが、確かに理沙の長身の体は跳ねるようにコートを飛び回り、オレンジ色のボールを見事に操りゴールへと近づいていく。その度に、高く結んだ髪がさながら踊るように揺れた。
 理沙の体が跳ねた。そう思った次の瞬間には、オレンジ色のボールがゴールネットを揺らしていた。わっと歓声が上がる。
「ナイスシュート」
 隣で時也が口笛を吹く。チームメイトと笑顔を交わすと、理沙はまたすぐに走り出す。その姿を見下ろして、亮はふっと息をついた。羨ましいと思う。敵わないとも。
「あいつ昔から上手いんですよ。体力あるし」
 自分なら、コートの外でランニングをしていたとしても、とっくに息が上がって座り込んでいるだろう。あんなにやたらめったら走り回れない。
「俺、体力はないんです」
「言葉は正確に使うべきものだよ、松風」
「はい?」
「体力『も』ない、でしょ。君、頭も別に良くないでしょう」
「ことごとくほっといてください」
 コートのざわめきを全身に浴びながら、うめく。人間とは思いやりという文化を持つべきだ。
「つーか先輩、あんた俺の中間結果とか知ってるんですか?」
「ううん、知らない。でもどうせ全部平均とかでしょ」
 図星だった。思わず閉口した亮に、時也のつまらなさそうな視線が刺さる。
「松風」
「何ですか」
「かわいそう」
「しみじみ言わんでくださいそんなもんっ」
 怒鳴る。と、笑い声がはじけた。時也ではない。コートからだ。視線をやると、体操服姿の理沙が手を振ってきていた。どうやら、試合はいつの間にか終わったらしい。休憩中のようだ。
「亮ー、何やってんの? 夫婦漫才?」
「あほか。……見学?」
 疑問符つきで応じる。理沙の顔が怪訝に歪んだ。たまに試合の応援に来ることはあっても、大抵理沙に誘われていくだけで、自主的に見学になんて来たことがない。
「見学って、何で」
「さあ」あいまいに視線を時也へと移す。首を傾げた理沙に、時也が笑んだ。
「君の勇姿が見たくて」
「あはは。残念。あたし会長みたいなタイプってマジ無理っす」
「だろうね。僕も年下には興味がないんだ」
「あっれー、残念ー」
「ははは、残念だねぇ」
 何なんだあんたらは。
 隣で聞きながら、亮は内心うめく。よく判らない二人だ。理沙は笑ったまま、ふっと悪戯げな表情をみせた。
「会長、きさらから逃げてきたんでしょ」
 きさら――阿部きさらは理沙の高校に入ってからの友人で、近くの大衆食堂『名花亭』の一人娘だ。出された名前に、時也は無言でひょいと肩を竦めた。肯定らしい。
 名花亭の一人娘、阿部きさら。彼女の名前を有名たらしめているのは、その熱狂的なまでの『叶時也ラブ』っぷり故だ。もともと時也は男女問わず不思議と人気のある人物ではあるが、きさらのそれは一線を凌駕している。ちなみに自称『叶時也ファン倶楽部』会長だ。
「先輩、ホント阿部苦手ですよね……」
「僕、しつこいの嫌いなの」
 ぷいっとまるきり拗ねた子供と同じそぶりでそっぽを向く時也に、亮は苦笑を漏らす。見かねたらしい理沙が、笑いをこらえながら声を上げた。
「もう大丈夫だと思いますよ、帰っても。あの子、部活ない日は店の手伝いがあるから、早めに学校出るんで」
「あ、そう。じゃあ帰ろっか、松風」
「はいはい……」
 結局、この為に付き合わされたらしい。女子バスケ部の試合は、単なる口実だろう。気まぐれは、時也にとって珍しいことではない。席に置いてあった鞄を手に取る。普段は授業用具の殆どをロッカーに入れっぱなしにしているので軽いものだが、七月上旬に迫った期末テストのせいで、さすがにそろそろ重くなりつつある。
 ホイッスルが鳴った。休憩終了らしい。駆け出そうとした理沙の背に声をかける。
「がんばれよ」
「まかせいっ」
 にっと理沙は太い笑みを見せた。

 ◇

 亮の通う市立八坂高等学校はこの辺りでは最も平均的な偏差値を持つ学校だ。そこそこ程度の学力で入学でき、そこそこ程度の大学なら狙えるレベルにある。部活動も全般的に平均レベルで、バスケ部がやや強いのと美術部のOBに画家がいるのを除けば、目立った活躍も功績もない。少し前までは戦後の創立以来ずっと同じだったという野暮ったいデザインの制服がネックではあったのだが、四年前の制服改定によって今のブレザーになり、生徒の受けもよくなった。
 葡萄えび色のリボンタイに、タータンチェックのスカート。あるいは同色のネクタイとズボン。通学路には、八坂の生徒たちがちらほら見える。と、混じるように他校の制服もあった。セーラー服の三仰河高校、男女ともにネクタイを結んでいる二葉高校――近所の学校だ。偏差値では三仰河に、騒がしさでは二葉には敵わないあたりが、八坂らしいといえば八坂らしい。
 市の中心を縦に走る一級河川、三仰河。それを横に割るようにある大通りは、近辺の高校の通学路になっているのだ。本屋や喫茶店、などもあるので、寄り道には便利である。
「八坂ってあれだね」
 ふいに、時也が口を開く。どうやら隣も、雑多な通学路を観察していたらしい。
「どこまでも松風にぴったりな学校だね」
「どーゆー意味っすか」
「とことん中途半端」
生徒会長あんたが言わんでください」
 うめく。時也はただ楽しそうに笑うだけだ。つくづく妙な人だと亮は思う。言動だけをとってみれば嫌われてもおかしくないのに、何故か校内でも人気がある。阿部きさらは特別だとしても、時也を慕っているのはほかにも多くいるのだ。カリスマ性とでも言うのだろうか、他人を何故か惹きつける。一年の後期から生徒会長を務めているというエピソードがそれを物語っていると言っていいだろう。現在三年の現生徒会副会長は、そのときから副会長だ。二年後期の生徒会選挙の段階で『俺は叶のサポートでいい』と言い切ったというのだから、そこに何があったのか気になるところではある。その他にも文化祭の時には生徒対教師のいざこざを収めただの何だの、叶時也に関する武勇伝は後を絶たない。
 偏差値、部活動、全てにおいて平均で平凡な八坂高等学校の唯一にして最大の飛びぬけた点、それがこの生徒会長叶時也の存在だろう。
 身長はあまり高くない。並んで歩いていれば判る。平均身長の亮よりも、少し目線が低いほどだ。顔立ちも整ってはいるのだが、いまどきの華やかさはない。どこか古風といってもいいほどだ。そのくせ、そこにいるだけで人目を惹く。叶時也はそんな人物だった。
「いーい天気。今日は良く晴れたねぇ、松風」
「そうっすね。久々に今朝、洗濯物外に干してきましたよ。帰ったらとりこまないと」
「松風……主夫だね」
「ほっといてください」
 時也は軽やかに笑う。久々に広がる水色の空を見上げたまま、呟いた。
「ところで松風、振り向かないようにね」
「へ?」
「つけられてる」
「……はいっ!?」
 唐突な――あまりに唐突な、それでいてさらりと紡がれた言葉に、亮は思わず素っ頓狂な声を上げていた。騒ぐな、とでも言うように時也が睨んでくる。慌てて、口を噤んだ。しかしその視線も拗ねた子供のようで、言葉から想像するような緊迫感は欠片もない。
「ちょっ……まっ……え?」
「さっき本屋の硝子戸で確認したよ。子供だね。女の子。中学生くらいかなぁ」
「いや、え、ちょっとまってください。意味判りません」
「取り乱さないで普通にしてなよ。肩に力が入ってる。力抜いて。そう、それでいい。ばれて自爆しないでね。僕の楽しみがなくなる」
「ちょっと先輩っ」
 潜めた声を荒らげる。時也はただにっこりと微笑むだけだ。静かに、と人差し指を唇に当てる。あまりに緊迫感のないその仕草に、亮は思わず深いため息をついた。
「先輩、何やったんですか」
「人聞き悪いな。どうして僕なの?」
「俺、あんたと違ってまっとうに生きてるんで。つけられるとかそういう人生送ってません」
「まるで僕がまっとうに生きてないみたいに言うね」
「違うんですか」
「想像にお任せするよ」
 ふふっと時也が肩を震わせた。その様子を見ながら、亮は眉間に皺を寄せた。実際、どうかしていると思う。つけるとかつけられるとか、そんな刑事ドラマか何かのような状況で、いつも通りにただ笑うこの先輩を、少し気味が悪いとさえ感じる。
 亮はといえば、時也に言われるがまま肩の力は抜いたものの、その分首と背中が痛いほど張っていた。振り向いて確認したい。ただ、してはいけない気もする。背中が汗をかいていた。必死に、背後の気配を探ろうとする。誰かがいるのは、判る。ただそれがつけられているのか単なる下校生徒なのか通行人なのかまでは判らない。判るほうがどうかしている。
「松風、次の角左ね」
 時也が囁いた。軽くあごを引いて頷く。角を左に曲がる。それだけで、周りの景色が一変した。大通りはそこそこ開けているが、一本中筋に入るとそうでもない。昔ながらの床屋や駄菓子屋が立ち並ぶ町並みになるのだ。特に、三仰河を挟んで東側はその傾向が強い。もう少し西側に行けば団地や一軒家が立ち並ぶ、二十年ほど前からのベッドタウンになるが、東はそれよりずっと旧い建物が残っているのだ。自然、道も細く複雑なものになっていく。中筋に行くほど、道路ではなく路地になり、特に東の一宮と呼ばれる地域はちょっとしたタイムスリップ感覚が味わえるほど、昭和然とした町並みが残っている。
 入り組み旧いその路地を、時也は気負いのない足取りで進んでいく。亮は黙って時也に並んで歩を進めていた。何のつもりだと問うたところで返ってくるのはいつもの微笑だけだろうと判断したからだ。ふっと時也が視界から消えた。ぎょっとして足を止めて振り返る。時也は道の端にしゃがみ込んでいた。一瞬にして不安感が襲ってくる。一体、どうしたというのだ――?
「わあ、見てみて松風。このガチャポン一回二十円だって。まだあるんだね、こういうの」
「あんた何やってるんですか!?」
 怒鳴る。が、次の瞬間には口を噤んでいた。「いいから」と呟いた時也の目がぞっとするほど鋭かったからだ。一度唾を飲み込んだ。腹を括る。あきれた素振りを装いながら、時也の隣にしゃがみ込む。目の前には古いガチャポンの機械が二台並んでいた。どうやらここは、駄菓子屋の裏にあたるらしい。
 風が揺れた。否――違う。亮は胸中で打ち消した。気配、だ。今なら亮にも判る。不意をつかれてうろたえるような誰かの気配が確かにある。
 細い路地を湿り風が通り抜けていく。動いた。近づいてくる。ぐっと亮の背中に力が篭った。
「松風」
「あ、え?」
「二十円貸して?」
「――いやですよっ」
「ケチ」
 時也が不服そうな顔を見せた。ポケットから財布を出して二十円を入れる。レバーをまわす動作も何気ない。でも、判る。芝居だ。目は笑っていない。落ち着いて、亮に語りかけている。
 取り乱さないで、普通にしてなよ。
 気配が動く。近づく。そして――
 止まった。
 背中を電気が走りぬけた気がした。陽射しは暑いのに、鳥肌が立つ。喉が渇いていた。後ろにいる。それなのに、気配はそこから、動かない。
「そう来るとは思わなかったな」
 手に入れたばかりのオレンジ色のゴム恐竜を弄びながら、時也がぽつりと呟いた。安っぽいミニ恐竜をつまらなそうにポケットに捻り込む。片手には空になったプラスティックカプセル。それもまたころころと手の中で転がして遊びつつ、時也が立ち上がった。慌てて亮も、自分と時也、二つの鞄を手に取り立ち上がった。心臓が痛い。鞄が手のひらの汗で一度滑りかけるのを何とかこらえて、振り返る。
「……え?」
 思わず間の抜けた声を漏らしていた。
 小さな女の子が立っていた。
 確かに時也は子供だと言った。女の子だと言った。だからいるのは確かに、間違いではない。だけど、実際目にすれば、先ほどまでの気配の主とはやはりイコールで結び付けづらい。
 黒い襟付きの長袖ブラウス。細いジーンズとそれには不似合いな黒いローファー。肩から斜めに掛けられた黒いポーチ。長く真っ直ぐに伸ばされた黒髪。俯いたままのせいで、顔は良く見えない。ただ、露出している肌は驚くほど白い。そのせいか、印象はモノクロームだった。白と黒。色彩を何処かに置いて来てしまったかのような、そんな雰囲気がある。気付けば、影に紛れて消えてしまいそうだ。その少女が、物も言わず立ち尽くしている。
「普通、つけてた相手が足を止めたら、つけてませんって素振りで通り過ぎるか、リアクションを起こすかどっちかだと思うんだけど。ただ後ろに立つってどういう理屈?」
 カプセルを弄りながら、時也が不機嫌そうに鼻を鳴らす。少女は後ろで手を組んでいるようで、小さく肩を震わせた。怯えているのだろうか。
「あの、何か、用事? えーと、時也先輩に告白……とか?」
「莫迦」
 冷たく吐き捨てられる時也の言葉と同時に少女は小さく首を振った。違うらしい。
「じゃあ目的、こっち?」
 時也が亮を指す。俺のわけがないでしょ、と言おうとした時、薄い、掠れた声が被って来た。
「あの」
 か細い、頼りない声に口を閉ざす。少女に目をやると、彼女は俯けていた顔を上げていた。
 驚いた。黒目がちの大きな目に、小ぶりな鼻や口。頼りなげな表情が、愛らしいほどだ。少なくとも尾行をするような恐ろしさは欠片もない。
「松風亮さん、ですか?」
 見上げてくる少女は、まだ幼く見える。中学生か、もしかしたら小学生くらいだろうか。
 どちらにせよ、こんな大人しそうな女の子の知り合いなんていない。いないはずだ。亮の周りにいる女子は理沙を筆頭にたいてい騒がしい。
 しかし少女は、確かにこちらの名前を訊いてきながら見上げてくる。
 曖昧に頷く。少女の長い黒髪が、さらりと音を立てた。紅く小さい唇が開かれる。
「死んでください」
 意味を理解する間もなかった。突然すぎる言葉の意味を脳が咀嚼しきる前に、時也が動いていた。小さな悲鳴が上がる。同時に、硬いものが地面に落ちる音と軽い音。見ると、陽光に反射するナイフが地面に落ちていた。近くには、プラスティックカプセルが転がっている。
 え、何?
「一度逃げるよ、松風」
 時也が腕を引っ張ってくる。混乱したまま、走り出す。何が起きたのか、亮はまだ理解出来ていなかった。振り返る。自らの手を押さえた彼女が、こちらを見つめてきていた。
 目に、焼きついた。
 請うような、嘆くような、苦しいほどの絶望と切望を混じり合わせたかのような、両の瞳。
 ただそれだけが、目に焼きついた。



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