第二幕:梔子―ものいはず―  参


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 ◇

 雨の中、纏わりつくようなくちなしの香が漂っている。
 世界は濡れそぼっていた。五月雨に濡らされ、木々も俯いて雫を垂れている。すぐ傍を流れる川は次第に水量を増していくだろう。時也が雨宿りに選んだ杉の樹も、旧い家々も、目の前の朱い鳥居も、全てが雨に濡れている。
 何故か、眼球が熱くなった。こみ上げてくる熱に、時也は瞼を閉じた。泣きたいのか。自問する声に、口の端に苦笑を浮かべた。肯定するしか他ない。
 さらさらと耳を濡らす雨音に、どうしようもなく泣きたくなった。
 理由などない。くちなしの香に酔ったのか。雨音に眩んでいるのか。
 朱い鳥居が、揺らいで見えた。
 時也は小さく囁いた。

 山吹の 花色衣 ぬしやたれ
  問へど答へず  くちなしにして――


 ◇

 時計の針は夜の十時を過ぎていた。
「風邪、引くぞ」
 声をかけると、少女はゆったりとした動作で振り返った。黒髪がさらりと流れる。
「松風さん」
「何見てたんだ?」
 縁側に座っている少女の隣へと足を進める。手に持っていた湯飲みをひとつ手渡す。
 雨は少し前に上がった。姉がでたらめに植えている庭の植木や花は、雨に濡れてつやつやとしていた。公園にあったくちなしも咲いている。甘い匂いがした。理沙の中学時代の寝間着を借りた少女は、湯飲みを受け取ってもう一度顔を上に向ける。
「月を」
 隣に座って、亮も空を仰いだ。途切れた雲の合間から、片方だけふっくらとした白い月が覗いている。
「明日は晴れるといいですね」
「ん?」
 手にした茶を飲みながら首を傾げると、少女は少しだけ部屋の方を振り返った。
「理沙さん、張り切ってらっしゃったから」
「ああ」
 小さく笑う。今日は遅くやってきた理沙は、食事をとり、風呂に入ると早々に客間へと引っ込んだ。自宅には帰らないあたりが、理沙は理沙なりに心配しているのだろうと判る。明日は試合だと張り切っていた。今日の部活もハードだったのだろう。夕食時には、念を押すように観に来いと強く言ってきた。明日は行かざるを得ないだろう。
「そうだな、晴れるといいな」
「はい」
 少女がこくりと頷く。幼い横顔を見ながら、亮はため息を飲み込んだ。
 雨に濡れて帰ってきてから、今日は一日家にいた。二人きりで、だ。危ないだろうか、とは少しは思った。だが、感情は否定していた。直接的に危険な気がしなかったのだ。彼女のことが、掴めない。よく判らない、と言うのが素直なところかもしれない。今だってこうして茶を飲んでいるし、まる一日傍にいれば、少しは会話らしい会話をしてくれるようにもなった。本当に殺そうとしている相手と、こんな風に言葉を交わせるとは亮には思えないのだ。
 時也は帰ってきていない。連絡もない。自宅に帰ったのかもしれないが、明日にはひょっこりと現れるかもしれない。何しろ気まぐれな時也のことだ。何があってもさほど驚きもしない。
「何ですか?」
「え? あ、悪い」
 見つめすぎていたらしい。慌てて首を振った。言葉を探す。
「少しは、落ち着いてきたみたいだな」
 少女は目を瞬いた。視線を手の中の湯飲みへと移す。
「松風さんが落ち着いてらっしゃるからです」
「そうかな」
 首筋をかく。少なくとも昨日は全身全霊で取り乱していた。それに比べれば多少は落ち着いているのかもしれないが、だからといってどうというものでもない。普通でいられる、それだけだ。時也あたりなら鈍感と罵るだろう。
「普通、家に泊まらせなたりこんな風に喋りかけたりしないと思います」
「普通なんて言葉、現状にことごとく合わないからいいんじゃないか?」
 少女は複雑そうに口を閉ざした。答える術を持たない時、こうして口を閉ざすらしい。それから、茶を啜る。一口、二口と啜ったあと顔をあげた。
「あの、理沙さんは?」
「寝た。あいつ、おやすみ三秒だから」
 ふう、と息を吐いてみせる。少女の顔が、少し緩んだ。亮は思わず目を瞠る。微笑った――のだろうか。
「どうしました?」
「いや」
 湯飲みを床に置く。問いたいことはいくらでもあった。ただ、答えが帰ってくる問いは少ない。判っているからこそ、口篭もってしまう。
「あのさ」
「はい」
 膝に置いていた左の拳を軽く握った。息を吸う。
「名前は?」
「え?」
「あんたの名前」
 問いたいことだった。少女の目が、大きくなる。沈黙が落ちた。庭で虫が鳴いていた。
 今日一日、一緒にいた。少女自身は、理沙や時也の名前も知っていた。聞けば、昨晩理沙が教えたらしい。二人の名前を出して言葉を交わしもした。けれど亮は、彼女の名前を知らない。「なあ」とか「あんた」とかでしか呼びかけられない。それが少し、淋しい気がしていたのだ。だから、訊きたかった。
 彼女は目を見開いたまま、亮を見つめていた。答えはない。亮は小さく笑みを浮かべた。当然のことなのかもしれない。彼女の目的が消えない限り、名前を言うのは愚かなことだろう。判っていながら、訊いてしまった。その行為も愚かなのかもしれない。浮かんだ笑みは、その愚かさへの嘲笑だ。湯飲みを持って立ち上がる。空いた手で、少女の頭を軽く撫でた。
「悪い、変なこと訊いた」
「あの」
 自室へと踏み出しかけた足を、少女の細い声が止めた。振り返る。
 微笑んでいた。黒髪を肩へと流した少女が、夜の庭を背に、微かに笑みを浮かべていた。
「ほたる、です」
「え……?」
「わたしの名前。ほたるです」
 言葉に、胸が熱くなる。嬉しいのか。自分で、驚いた。彼女の名前を訊けて、どうやら自分は嬉しいらしい。顔に浮かぶ笑みを、隠し切れなかった。
「そっか。ありがとな。――おやすみ、ほたる」
「おやすみなさい、松風さん」

 ◇

「おはよう松風。今日は晴れたね」
 翌朝、居間でにこりと微笑んでくる時也を見て、亮はぽりぽりと頭をかいた。エプロンを身に着けながら、目をこする。
「おはようございます。……いつ帰ってきたんですか?」
「ついさっきだよ。お風呂も借りちゃった」
「はぁ。どうやって鍵あけたんですか……」
「石川さんが起きてたよ。今シャワー浴びてる」
「ああ」
 頷いた。理沙は毎朝ランニングを欠かさない。亮には死んでも出来ない行為だなとつくづく思うが、どうやらその時間にちょうど帰ってきたらしい。もう暫くすれば理沙も出かける準備を終えて居間に顔を出すだろう。
「松風。僕おなかすいた」
「座って待っててください」
「昨日から何にも食べてないんだもの」
「すぐ作りますから黙って待っててください」
 昨日の事など何もなかったかのように笑う時也を諌めて台所へ向かう。食品ラックから食パンを取り出し、冷蔵庫を開ける。卵と牛乳は常備してあるので問題ない。ボウルに卵と牛乳、砂糖を入れて卵黄液を作り――
「……先輩」
「何だい?」
「俺、何て言いました?」
「黙って座って待ってろ」
「あんた今何してます?」
「君の傍をうろついて話し掛けようとしている」
 悪びれもせず微笑まれ、亮は朝からため息を吐く羽目になった。
 食パンを切って卵黄液に浸す。今朝はフレンチ・トーストだ。
「ねぇ松風」
「何ですか」
「昨日もあの子泊めたの?」
 一瞬、口篭もる。それから頷いた。
「泊めましたよ。それが何か?」
 ぶっきらぼうな口調になっていた。昨日の豹変した時也を、忘れてはいない。あの時は呆然としていたが、考えてみれば相当酷い行為だと思うのだ。そのくせ、一夜明けるところりと態度を変えて戻ってきているのだから、時也は全く持って良く判らない。
 流し台に置いてあった牛乳を勝手にコップに入れていた時也が、その手を止めた。「ふうん」と短く声を漏らす。
「君って意外と命知らずだね」
「別にそんなつもりじゃ」
「どうしてさ。あの子は『殺人鬼』なんでしょう?」
 腹の底の見えない笑みを向けられる。強く睨んだが、時也には効かなかった。何食わぬ顔で牛乳を飲んでいる。呆れて時也から視線を外した。フライパンにバターを引く。じゅっと気持ちの良い音がした。
「ほたるは、そんなんじゃないと思います」
「へえ」時也の声が高くなった。肩に手がかけられる。
「名前聞き出したんだ。すごいね。どうやったの? もしかして寝たの?」
「何でですかっ!」
 思わず怒鳴る。時也は手を放して肩を竦めた。亮はフライ返しでびしりと居間を指した。
「下品な詮索してないで、居間で座って待ってろあんたはっ!」
「はいはい。もう怖いなぁ。怒鳴らなくていいじゃんか、ねぇ?」
 時也が台所の入り口に視線をやる。つられて視線をやり、亮は危うくフライ返しを落としそうになった。
 入り口にかけてある古い暖簾の下、小柄な少女が寝間着のまま顔を覗かせている。驚いているような、怯えているような表情だ。
「ほたる」
「あ、ご、ごめんなさ……、声が、したので、あの」
「うるさくてごめん。おはよ。とりあえず着替えて来いよ。理沙、もうシャワー終わったと思うから。服貸してくれる」
「あ。は、はい」
 ぱたぱたと頼りない足音を立てて、ほたるの後姿が廊下へと引っ込んでいく。「へぇ」時也が再度、声を漏らした。
「すごいね、松風。ずいぶん手なづけちゃってまぁ」
「だぁかぁらぁっ」
「判った。判ったよ、居間で待ってる」
 コップを流し台に置き、時也が台所から出て行く。息をついて、顔をあげた。明り取りの小窓からは、昨日とは違い明るい陽が射している。暑くなりそうだが、天気が良いのはやはり心が軽い。笑みが浮かんだ。台所には芳ばしい香りが立ち込める。戸棚からセイロンティーの葉を取り出し、ミルクパンでお湯を沸かす。そうこうしているうちに、理沙が台所に顔を覗かせた。部活用のジャージ姿だ。高く結んだポニー・テイルが揺れる。
「手伝おっか」
「ああ、サンキュ。もう殆ど出来てるから、それ食卓に運んでくれ」
「あーい」
「あ、理沙」
 四つの皿を器用に両手で持った理沙を呼び止める。
「服なんだけど」
「ああ、ほたるちゃん? うん、さっき貸したよ」
「サンキュ。――名前聞いたんだ?」
「さっきね」
 笑って、理沙が出て行く。理沙はほたるに好意的に接しているようだ。少し、ほっとする。
 淹れ立ての紅茶を盆で運ぶ。食卓には理沙と時也が座っていた。ほたるの姿がない。そう思ったとき、琴の声がした。
「あのう」
「あれ、ほたるちゃん。どうしたの?」
「これ、どうやって結べばいいんでしょうか……」
 戸惑い顔で、ほたるが居間に現れた。亮は思わず目を瞬いた。フリルの沢山ついた白い襟付きブラウスに、ボリュームのある黒の膝丈スカート。白のソックス。長い黒髪も相まって、まさに人形のようだった。似合っている。ただ、どうやらネクタイが上手く結べないらしい。十字架ステッチ入りの黒いネクタイを白い手が持て余していた。
「ああ、ごめんごめん。おいで、結んであげる」
 理沙が笑って、ほたるのネクタイを結び始める。その様子を見ながら、時也がぽつりと呟く声が聞こえてきた。
「同い年には見えないよね」
「……ですね。身長差もあるんでしょうけど……俺もかなり年下相手に話している気分になったりします」
「はい出来たっ。どうよっ、今日は似合わないなんて言わせないわよーっ」
 満面の笑みを浮かべた理沙が、ほたるの小さな肩を後ろから掴んで亮に見せてくる。ほたるはかなり戸惑い顔だ。時也がふんと鼻を鳴らした。
「いいんじゃない? だいぶ袖余ってるけど」
「身長差はしょうがないじゃないっすか。スカートだって中サスペで吊り上げてるし、大体これあたしが穿いたらミニなんですよ。何故か膝丈。身長差大分あるっぽい」
「二十センチ近くか? 似合ってるとは思うけど……理沙、お前こんなの持ってたか?」
「んー? 中学の時仲間内で原宿まで遊びに行ってさぁ、滅多に行かないからはしゃいじゃって……。一目惚れして勢いで買って」
「しまいっぱなしだった」
「そゆこと」
 計画性のない理沙らしい。亮は思わず笑っていた。
 食事を始める。理沙は張り切っていたし、そのおかげが時也とほたるのぴりぴりとした空気も多少和らいでいた。亮にはそれがありがたかった。食事を終えるとすぐ、理沙は出かける準備をし始めた。亮たちも、だ。試合の応援に結局行くことになったのだ。よく判らない面子だよな、と思いながら家を出る。駅で、阿部きさらと会った。一緒に行く、らしい。
「やーん、とっきーやないですかぁ! なになに理沙、うちのために呼んでくれたん?」
「誰がとっきーだよ」
 時也が不機嫌そうにぼそりとうめく。
「んもう、照れんでええやないですか。先輩ったら照・れ・屋・さ・ん」
「僕帰っていい?」
「駄目っす。きさらちょっと落ち着いてよ、応援一緒にしてくれるんだからさぁ」
「させられようとしてる、だよ。日本語は正しく使ってよ」
「会長うるさい。きさら、この子一緒に来てくれたんだ。知り合いなの。ほたるちゃん」
 理沙がほたるを紹介する。ほたるは戸惑い顔のまま小さくぺこりと頭を下げた。「よろしゅうね。阿部きさら言うの」きさらが微笑む。
 またまた妙なことになったなぁ、とぼんやり考えながら電車に乗り込んだ。ほたるが少しきょときょととしていたので声をかけてみる。「電車って、久々に乗ります」と小さな声が返ってきた。亮は思わず苦笑を漏らしていた。まぁ確かに、田舎ではあるが大通り沿いならそこそこ開けているので、遠出する用事がなければあまり乗らなくても過ごしていけるだろう。
 辿り着いた相手校の体育館は、八坂のように二階に観覧席があるようなところではなく、応援組みは体育館の端に固まった。この学校の生徒も、八坂の生徒もいるようだ。暫くして、一年生同士の新人対決が始まった。ユニフォームに着替えた理沙が出てくる。
「頑張りぃやー!」
 きさらが声をあげ、亮たちも手を振った。笑顔で理沙が応じた。
 体育館が熱気に包まれる。歓声が溢れかえる。ホイッスルが鳴った。
 試合が始まったが、亮には全体を見るなんて器用なことは出来なかった。目を一杯に見開いてコートを見つめているほたるを見、それから理沙へと視線を移す。
 しなやかに体が伸び、跳ね、動く。綺麗な動きは、うらやましくさえある。亮にはとても真似出来ない。すごいなと素直に思う。
 まったく、己の器ひとつ満足に動かせぬとはな。
「え……?」
 亮は我知らず声を漏らしていた。拍手をしていた手が、止まる。
 何だ、今のは?
 鼓動の音が耳に残る。妙な違和感があった。気持ちが悪い。どくっ、どくっ、と血液の流れる音がする。頭が、重い。
「……松風さん?」
 隣にいたほたるが見上げてきた。怪訝そうな表情だ。慌てて手を振る。
「あ、いや、何でも――」
「亮っ!」
 亮の上げかけた声を遮るように、理沙の叫びが飛び込んでくる。と、同時に、顔面に強い衝撃を受けた。たまらず、その場でしりもちをつく。
「あ」
 誰かのうめき声が静まり返った体育館に響く。てんっ……と軽い音を残して、オレンジ色のボールがその場に転がった。



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