四幕:逃避―ねむりつく―  弐


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 ◇

「あれが神凪の女鬼だとすると、暦とはずれておるの」
「まぁ、そうなるね。けれど確かに神凪の女鬼めき……まだ、鬼宿かな。ほたるだったよ」
「何故そう思う、朱鬼とき?」
「時也。僕は見たんだよ、その場にいた。君だって見てたでしょ」
「私ではなく、この宿がな。こやつは視線をそっちにやる間もなく爪に裂かれ、眠りおった」
 不服そうな顔の亮――否、亮の身体に降りた神子は、ゆっくりと腕を組んだ。
 病院の屋上だ。数枚のシーツやタオルが、ぱたぱたと風に煽られている。とはいえあまり天気は良くない。雨を降らす雲ではなさそうだが、のっぺりとした白い空が頭上に広がっていた。
 時也は神子から視線を外し、金網に背を預けた。かしゃんと音が鳴る。
 学校は休んだ。もともと怪しまれないために通っている場所だ。行かなくてもさほど困るものでもない。今朝来てみると、晶はいなかった。仕事に行っているのだろう。昨晩何の連絡もなかったところを見ると、神子は素直に寝たふりをしていたはずだ。晶が怪しんだ様子もない。
 その神子はというと、宿である亮が決して見せないような横柄な態度で時也に接してくる。神子の性格は良く知っているつもりだし、もはや言動にいちいち腹を立てることもないのだが、顔が顔だけになんとなく腹立たしい。
「松風に優れた動体視力とか卓越した身体能力とかは期待しないほうがいいよ、神子。無い袖は振れないものだからね」
「私が使えば、多少はましになる。鍛えていない身体はどうしようもないがな」
 神子が自分の腕を見て、ため息をつく。その様子が妙におかしくて、時也は思わずこみ上げてきた笑いをかみ殺した。
「何を笑っておる、朱鬼」
「時也だってば」
「ふむ。十夜でもなく、ときやとな?」
 十夜は以前の名だ。朱鬼も同じく昔の名だが、十夜と名乗っていた時期はさほど昔でもない。
 神子が、口元だけでにやりと笑う。
「朱鬼と十夜を混ぜ合わせた。そんなところか。十の夜の鬼……それで十鬼夜ときやか。なるほど、そなたにふさわしいな。鬼人のそなたに良く似合う名だ」
「どうとでも言いなよ。いまさら君の皮肉にいちいち目くじら立てるつもりもない」
 神子が肩を小刻みに震わせた。
「まぁ、良い。しかし妙だな」
「ほたるのこと?」
「それ以外に何がある」
 神子がぐっと腕を伸ばした。それから、顔をしかめる。時也もそうだが、亮の身体もまだ傷は癒えていない。時也のようなかすり傷ではなく、亮の身体はまともに鬼の爪に裂かれているのだ。すぐに癒える傷ではない。
「全く、まともにくらいおって」
「神子。今までこんなことあった?」
「我が宿でこれほど弱々しい男はいなかったと思うが?」
「じゃなくて。神凪の女鬼だよ。神凪の鬼宿は人身御供の女の呪い。だからこそ、必ず暦に合わせて鬼と化す。それが今回は早まった。そんなこと」
「なかった」
 神子が断言した。考えるように眉を寄せる。そうすると、亮が困ったときの顔に見えた。中身は違えど、やはり器のどことなく間の抜けた雰囲気は変えられないらしい。
「妙といえば妙だ。しかし、割に単純なことかも知れぬぞ」
「と言うと?」
「鬼宿の魂が弱った。それならば、刻が近づいておった女鬼の魂が、器の魂を押しのけて表に出てきても不思議ではあるまい」
「……なるほどね」
「心当たりがあるのか?」
 問われ、時也は軽く肩を竦めた。
 あの公園で最後に見たほたるの後姿を思い出す。あの後、ほたるがどういう行動を取ったのかまでは知らない。だがあの夜、ほたるが抱いていた脆い決意が何かは推測できる。
 死を、決意していたのだろう。
 亮はそのことには気づいていなかった。理沙もそうだろう。けれど、少し考えれば判る。
 ほたるの言った諦めると言う言葉。それは生き延びることを諦める、そういう意味だったはずだ。自ら命を絶てば、女鬼は宿を失い再び輪廻の渦へと返る。そして、神凪の血筋も絶える。
 神凪に残っているのは、ほたるの祖父である宮司、真治だけのはずだ。鬼を狩る血筋がなくなれば、まだ僅かだが続いている鬼筋たちはどうすることも出来なくなるはずだ。また、朝廷――それが現代で言う政府になるかどうかは確かには判らないが――にも危機が及ぶかもしれない。ほたるが他者の御魂を殺めてまでも生を願ったのは、おそらくその事を考えてのはずだ。
 しかしあの夜、ほたるは決意を変えた。
 自らの死を、そして神凪の血筋を終わらせることを決意した。
 その後実際に自らの命を絶とうとしたならば、神子の言うとおりのことが起きてもさほど不思議ではない。
 屋上の扉が開いた。重い鉄の扉を押して、制服姿の少女が顔を出す。
「石川さん」
 時也の呼びかけに応じず、理沙はすっと亮の――神子の前に立った。おもむろに口を開く。
「亮は何処」
 神子は数度目を瞬かせると、冷ややかな笑みを浮かべた。
「器の魂か。眠ったな。人は愚かだ。眠りにつくことで、現から逃げる。まあ、よくあることだがな」
「信じない」
 間髪入れずに返った理沙の言葉に、神子が面白そうに眉を上げた。
「ほう?」
「亮は確かにビビりだし小心者だし優柔不断だけど、でもこんな風にただ逃げたりしない。そこまで馬鹿じゃない」
 酷薄な笑みを浮かべる神子を、理沙は睨み上げている。神子の浮かべる笑みは異質なものだとしても、顔も体も声も、寸分違わず松風亮のそれだ。いくら魂が違うと頭では理解していたとしても、彼女は今までこんな経験などないはずだ。その彼女が好いている男にこんな鋭い目を向けるには果たしてどれだけの精神力を要するのか。時也には想像もつかなかった。
「……ろ」理沙が、何かを呟いた。小さすぎて聞こえない声に、神子が怪訝な顔をする。
「何だ?」
「消え失せろ、寄生虫」
 低く、けれどはっきりとした声で言い切ると、理沙は身を翻した。長身の後姿が、鉄の扉の向こうへと消える。
 残された時也と神子は、そろって暫く扉を見つめていた。それ以外に言うべき言葉も取るべき行動も咄嗟には見当たらなかったのだ。ややあって、神子が呟く。
「朱鬼」
「時也。何、神子」
「この器は、あれだな。随分奇妙な女子に好かれておるな」
「奇妙……ああ。石川さんか。そうだね、否定はしない」
 時也の言葉に、神子が僅かに押し黙った。すぐに、拗ねた子供の声が返ってくる。
「私を寄生虫などと言いやがった」
「言い得て妙だと僕は思う」

 ◇

 一階のロビーで、時也は理沙を見つけた。受付前のソファに座って、ただじっと俯いている。
「石川さん」
 理沙の背中が、ぴくりと動いた。傍に寄ると、掠れた声が聞こえた。
「亮は何処ですか?」
 時也は無言で隣に座る。
「亮に逢いたいんです」
 静かに隣を窺うと、理沙の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。時也は一度目を閉じてから、結局真実をありのまま口にした。
「神子の言ったとおりだ。神子が目覚めている今、神子宿松風亮の魂は眠っているよ」
 理沙の目から、すうと一粒涙が流れる。横顔を見つめ、嘆息した。
「だから忠告したんだよ、石川さん。ただ、そうだね。少し遅すぎたみたいだ。いつか言ったとおり、僕を恨んでくれても良いよ」
「会長は」理沙が、こちらを向いた。
「会長は、知ってたんですね。こうなることを」
「……そうだね。神子宿は神子を宿している。神子は、神子宿の御魂が弱ったときに現われる。僕は今まで三度、神子宿となった人間とまみえてきたけれど、神子の御魂を斥けた神子宿はいなかったよ」
 時也の言葉に、理沙はぐっと下唇を噛んだ。何かに耐えるように、目に浮かんだ涙を腕で乱暴にこする。その様子に微かに笑んでみせて、時也は軽く首を傾げた。
「他に何かある? 今なら特別に無料で答えてあげても良いよ」
「会長って、いくつなんですか?」
 そうくるとは思わなかった。予想外の問いかけに、時也は一瞬迷う。それから、やはり素直に真実をありのまま口にした。
「十七」
「……」
「肉体はね。実際には明治生まれ。十七で鬼と融け合ってから、肉体も魂も動きはないよ」
「本気ですか?」
「嘘吐いても楽しくはないよ」
 苦笑し、撫でるように彼女の頭に手をやる――否、正確にはやろうとした、その瞬間だった。
 背中を、電気が走りぬけた気がした。
 この、気は。
 弾かれるように立ち上がっていた。そのまま、走り出す。
 リノリウムの床を蹴り、エレベーターを横目に見やる。四階の表示が点灯していた。遅い。エレベーターを無視して、階段へと足を向けた。駆け上がる。
 理沙は理沙で、何かを感じたのだろう。何も言わず、付いてきた。少しだけ驚く。さすがに病院内ではあるので、完全に本気で走っているというわけでもないが、それでも自分にぴったりと付いて来られるはかなりのものだ。
 屋上へと飛び出す。むわっとした熱気に顔を殴られる。白い空を背に神子が立っていた。他に姿はない。少しだけ、安堵する。
「神子」
 呼びかけて、近づく。入院着を風にはためかせたまま、神子は不服そうな顔をしていた。
 一拍遅れて、理沙も顔を出した。さすがに途中で追いつけなくなったらしい。息を弾ませたまま、その場で膝に手を付いている。
「彼女かい?」
 神子に問いかける。時也は息が弾んでもいなかった。鬼人は、身体能力的には鬼とさほど変わらない。あの程度では体が疲れるということもない。
 神子は腕を組んだまま、静かに頷いた。
「神凪の女鬼だな。しかしいくら陽光がないとは言え、昼日中から活動するとは、随分化生が進んでおるの」
 屋上のフェンス越しに、街中を見下ろしている。その隣に並びながら、時也はふっと息を吐いた。先ほど感じた気≠ヘ、間違いではなかったらしい。
 あの時――亮が倒れることになったあの時にも感じた、気配。鬼の気。
「いつからだ、化生は?」
「さあ。僕も詳しくは。おそらく二晩程度だとは思うけれどね」
 息を整え終えたらしい理沙が、ゆっくりと近寄ってくる。彼女は何が起きたのかは判らないままだろう。普通の人間には、鬼の気は感じ得ない。それでも、何があったのか予想は付いているのかもしれない。真剣な面持ちをしていた。
 神子は理沙に一瞥を投げるが、それだけで声を掛けようともしない。
「にしては化生が進みすぎておる。やはり鬼宿の魂が弱っていると見て間違いはなさそうだな」
「そっ、それってほたるのタマシイが弱っちゃってるってこと!?」
 唐突に、理沙が会話に割り込んできた。神子が煩わしそうに顔をしかめる。
「そう言っておろう。物分りの悪い娘だ」
 吐き捨てるような神子の言葉に、理沙は大して動揺した様子もなかった。時也としては、物分りが良いほうだと思っている。こんな戯言にも似た事情を、ただの人である彼女が完全に理解し得ると考えるほうが莫迦げている。
 神子は理沙から視線を外すと、こちらに向き直ってきた。
「早くせぬと完全に喰われるな。或いはそなたのようになるか」
「僕は同士なんて欲しくないよ」
「そうであろうな。慌てることもない。呪があるうちは、どうしたところで完全に喰い尽くすに暦より早まることはあるまいて。ところで今日は何日だ?」
「皐月の……十二日、かな」
 陰暦なのは呪が全て陰暦のままだからだ。神子もまた、新暦を理解してもいないだろう。ただ理沙だけが隣できょとんと目を瞬かせている。それから、ふいに神子の服の袖を引っ張った。
 神子がまた、煩わしそうに理沙を見やる。外側だけを見れば、妙な光景だとしか思えない。
「ほたるは……助かるの?」
 理沙の弱々しい問いかけに、神子はその手を振り払った。
「私が剥がして浄化すれば良い。他の者に出来ぬとも、この神子には出来る」
「ほたるは助かるのね!?」
 勢い込んで身を乗りだした理沙をすっと冷ややかな目で見つめ、神子は断言した。
「助かるのではない。私がそうするのだ。私はその為に生まれ、また転生しておる」
「え?」
 意味が判らなかったようで、理沙が聞き返す。それが癪に障ったのか、神子の纏う気配が不機嫌なものへと変わった。不機嫌が単純な怒りに変わる前に、時也は口を挟んだ。
「けど、祓っただけか」
 神子が小さく鼻を鳴らす。
「まだ浄化に至るほどの神通力を使えるほど、魂が器に定着していないからの」
 その言葉に、時也はぴくりと眉を上げていた。神子の目が、射るように見据えてくる。その視線を受け止め、微かに口の端を歪ませた。神子も、無論解っているのだ。この場にいてその事を理解していないのは、ただ理沙だけだろう。
「ほたるは、助かるのね。じゃあ、じゃあ、亮は?」
 縋るように理沙が神子を見上げた。繰り返された問いに、気の短い神子は腹立たしかったようだ。皮肉な笑みを浮かべ、自らの胸に手を置いた。
「しつこい娘だ。良いか、二度と同じ問いを口にするな。この器は神子が宿った。神子宿松風亮はもう居ぬ」
 胸に置いた手を、理沙の顎へと伸ばす。軽く理沙の顎を持ち上げ、神子がまた嘲笑う。その様子は、姿形は同じと言えど、松風亮と石川理沙には見えない。神子が、低く言い切る。
「松風亮は、死んだのだ」



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