四幕:逃避―ねむりつく―  参


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 望みを断ち切るような言葉を亮の顔のまま吐かれ、理沙の目にまた涙が溢れてくる。ひと粒、ふた粒と流れていく涙に、時也は深く息を吐いた。理沙の腕を取り、神子から離す。
「石川さん」
 理沙は答えない。けれど、目を逸らすこともなく神子を見つめている。少しの逡巡の後、時也はそっと切り出した。
「松風とほたるなら、どっちが助かって欲しい?」
 理沙が驚いたようにこちらを向いてきた。目をいっぱいに見開き、戸惑った顔をしている。暫く待ってみても答えは口にしなかった。文字通りの二者択一は、口に出して答えられるものではないのだろう。それでも、答えはある。
 微かに苦笑して、時也は手の甲で軽く理沙の頬に触れた。ひんやりと、濡れている。
「顔には松風って書いてるよ」
 理沙の頬にさっと朱の色が指した。顔が苦痛に歪む。
「恥じることじゃない。数日前に逢ったばかりの女の子と、ずっと好きだった男だ。誰だって後者を選ぶよ。でも、即答しないのが君の美点かな」
 理沙の頭を掠めるように撫でて、時也は踵を返した。歩き出す。
「朱鬼、何を企んでおる?」
 屋上の戸に手をかけたとき、嘲りとも牽制ともつかない神子の声が掛けられた。ふっと短く肺の息を搾り出し、時也は振り返った。
「君が嫌がること。忘れないで、神子。僕は鬼だよ。そして僕は、君を恨んでる」
 言い捨て、時也は屋上を後にした。

 ◇

 時也の姿が見えなくなる。重い鉄の扉を見据えたまま、理沙は呆然とその言葉を繰り返した。
「うらんで……?」
 言葉に、すぐ傍に立つ神子が鼻を鳴らした。見やると、平然とした様子で腕を組んでいる。
「奴に鬼が降りたとき、私が転生していなかったことを、な。前からだ」
 冷ややかな目で、神子は続けた。
「鬼と融け合った鬼人から、鬼のみを剥がして浄化することは私にも出来ぬ。しかし奴は、私が転生する度に宿の傍におるな。ないと判っている望みでも、捨て切れぬのだろう」
 そこまで言うと、ふっと神子は目を細めた。
「哀れな鬼よ」
 理沙はぐっと胸が痛むのを感じた。いつもの時也は、どこか飄々としていて、言動が読めず、正直とても信頼する気にはなれない人物だ。きさらが好きだと言う理由もよく判らない。そんな裏側を持っているとは考えもしなかった。考えもさせないほど、普段はあの薄い笑顔で覆い隠しているのだろう。それが、どんなに苦しいことなのか、想像も出来やしない。
「止めんとな」
 不意に、神子が囁いた。意味を問う間もなく、歩き出している。神子を宿した亮の体が、時也と同じように扉の向こうへ消えていく。
 暫く、ただぼんやりと扉を見つめていた。何もかも、理解の範疇を超えすぎている。
 涙の後を拭ったとき、それは来た。
 生臭い風に良く似ていた。
 振り向く。

 ◇

 時也は廊下を早足で進んでいた。目的があった。単純な、ただひとつの目的。
 背中に神子の気配がした。追ってきている。それを知っても、時也は振り向かなかった。振り向く必要がない。
「狩るつもりか、同じ鬼を」
 神子が、鋭く囁いてくる。振り向かなかった。それはそのまま、肯定の意味になる。
 ほたるを狩るつもりだった。
 神子は先刻口にした。器に魂が定着していない、と。それはすなわち、まだ魂そのものが不安定なことを指している。神子の転生には意味がある。それを、利用すればいい話だった。
 神凪の現世への理由を断ち切ってやればよい。そうすれば、未だ不安定な神子の御魂は、輪廻の渦へと強制的に還るだろう。自然、松風亮の御魂は表面に現れる――理論的には。
 欠点としては、ほたるという鬼宿そのものの死が条件になるのと、あくまで理論であるので成否は時の運に掛けるしかない事だ。それでも、可能性はある。
 鬼人である時也に、鬼を浄化する力はない。それは神子のみが持ち得る力だ。
 それでも、ただ狩るだけならば時也にも出来る。
「朱鬼」
 呼びかけを振り払うように、足を速める。
 その瞬間、糸が、切れた。同時に、つい先刻感じたばかりの気が襲ってくる。
 振り返る。神子と目が合った。感じたようだ。同時に、走り出す。神子の走りは遅かった。さすがに怪我がある。ついでに器は鍛えてもいない亮のものだ。それでも懸命についてきた。糸が切れた。それは、時也の意識の中にずっと張り詰めていたひとつの感覚が途切れたということだ。すなわち、護符の力が失われたということにもなる。一度きりしか、あの護符に効果はない。それが使われ、意味をなくした。
「祓ったんじゃないのか!」
「祓っただけだ。また来ても不思議ではない」
 走りながら、堪らず声を荒らげると神子は平然と答えてきた。神子にとって、理沙はどうでもいい存在だ。死のうが生きようが、構わない。神子が用があるのはほたるという鬼宿のみだ。
「石川さん!」
 叫びながら、屋上へと飛び出した。
 一瞬、ぞっとした。しりもちをつくような格好で、理沙が手前に倒れている。理沙が見上げる先に、小柄な人影があった。
 ほたるだった。
 長い黒髪と小さな体だけは、ほたるのものに間違いないだろう。けれど、違いすぎていた。四肢は捩れ、髪は乱れ、目は赤く血走っている。顔も歪み、血管が浮き彫りになっていた。
 化生が、進みすぎている――
 神子の言った言葉を、脳裏で反復する。
 つと視線を外すと、地面に炭化したような紙切れが落ちていた。護符だ。持たせておいて良かったと一瞬だけ安堵し、それからすぐに意識を切り替えた。
 理沙は大きく震えたまま、ほたるを見上げている。
「ほた、ほたる……! やだよこんなの、もうやめようよ! あたしだよ、判んないの!?」
 悲鳴のような声に、堪らず耳を塞ぎたくなる。だが、神子は冷ややかに一瞥し、呟く。
「無駄だ、娘」
 その声に、ほたるが振り向いた。傍にいた時也は、すっと腰を落とす。久しぶりだが、力を使えないこともない。今の状況は、ありがたいとさえ言える。わざわざ相手から出向いてくれたのだ。狩るには面倒がなくて良い。
「狩るな」
 神子が囁く。牽制のように手を伸ばした。唾棄したい気持ちが沸く。一瞬の神通力の速さで、神子に敵うはずがない。それでも、隙を見つければ何とかなるかもしれないが。
 暫く、ほたると見つめ合った。腰が抜けたのか、理沙は動かない。
「妙だな」神子が呟いた。横目で見やると、怪訝な顔をしている。
「私はすでに覚醒している。救われたがっている鬼ではないのか?」
 その言葉に、時也は思わず苦笑を漏らしていた。神子の決定的な間違いに、気付いたのだ。
 鬼に喰われ始めた鬼宿には、十の夜の間はふたつの御魂が器に同居する。その間、救われたがることが多いのだ。神子に助けを求めるように、神子宿の気を探り、神子宿の魂を弱めようと襲ってくることがある。実際、今までの神子宿でもあったことだ。
 しかし今回は、そうではない。覚醒した神子に襲いかかっても、利があることではないのだ。本来ならば。その事を、訝っているのだろう。
「鬼の狙いは君じゃない。君の宿……松風だよ」
 囁くと、神子が笑い声を上げた。
 ようやく、理解したのだろう。鬼宿を喰い始めた鬼が真っ先に襲うもの。それは、鬼宿の居場所である、友人、知人、家族だ。ほたるが――正確にはほたるに宿った鬼が松風亮を狙っているのはその理由からで、神子の覚醒を狙ったものではない。
「ほう。我が宿でありながら鬼宿に好かれでもしたか。因果なことだ!」
 笑い声に反応したように、ほたるが動いた。跳ねる。フェンスに乗った。身を低くする。動きはもはや、人を超えていた。神子が笑いを止める。膝を緩め、構えた。時也も膝を緩める。隙を探せ。胸中で命令する。隙を、探せ。刹那でも構わない。神子が無理にでも神通力を使えば、その瞬間に神子の魂は器に定着する。松風亮の魂は完全に消える。そうなる前に、狩れ。隙を逃すな。
 神子の背に、肌が粟立つほどの気が満ちてくる。亮のものではない、完全に神子のそれだ。
 刹那を永久に引き伸ばすかのような空気が張り詰める。
 そして。
 ほたるが、跳んだ。フェンスが音を立てる。白い空。黒い影となって落ちてくる。神子が動いた。同時に、時也も動く。落ちる先は、僅かに右。その軌道に沿って地を蹴る。神子が一瞬、速い。その胸に鬼の爪が閃く。避けた。時也はまた、地を蹴った。鬼。眼前に迫る。右膝を折って体を丸めた。背後に回る。捕らえた。そう思った。焦るような神子の顔が、鬼の向こうに僅かに見える。手を伸ばす。刹那、鬼の身体がまた、跳ねた。
「なっ」
 思わず、声を上げていた。ほんの僅かの差で、時也の手は空を切っていた。前触れもなく鬼が方向を変えたのだ。左。反射的に目をやって、一瞬にして悪寒が走る。
 理沙がいた。
 しりもちをついたまま、目を見開いている。理沙の悲鳴。時也は反射的に手を伸ばしていた。遅い。伸ばしてから、気づく。いつもそうだった。神通力を使えばいい事を、咄嗟には考えられない。人であったときと同じように、ただ、手を伸ばしてしまう。ただ、声を上げてしまう。人でなくなってもう随分と経つというのに。
 そんなことが疎ましい。疎ましくて、いつも嫌になる。
「石川さんっ」
 間に合わない。今からでは手が届く前に、あの鬼の爪が彼女を裂くだろう。
 紅梅が咲いた。一瞬、そう見えた。季節外れの梅が青嵐に吹かれて花開き、そして散ったように見えた。鮮やかな猩々緋。梅花の向こうで、ひとつの身体が崩れ落ちていく。
 石川理沙の前に立った松風亮の身体が、崩れ落ちた。
 状況を理解するより速く、唇が呪を唱えていた。同時に、身体の中心を熱が走り、一点に募る。手のひらに集まった熱を振り払うかのように、強く腕を払った。熱が抜けていく。拉げた悲鳴が上がった。鬼が跳び退る。狩っていない。まだ生きている。もう一度。呪を口に上らせる前に、鬼は身を翻した。白い空に、滲むように消える。
 視界が廻った。膝に衝撃がくる。屋上に膝をついていた。ここ数日で、力を使いすぎたせいか。ほたるを一度祓い、血を使っての護符を書いた。そしてまた、祓った。三度続けてはさすがにつらい。鬼人は能力的には鬼と同じでも、人の器の枷を逃れきれない。こんなところで、弊害が出る。それでも、無理やり顔を上げた。立ち上がる。理沙の悲鳴が聞こえていた。
「亮っ、亮!?」
 既視感。つい先日と同じように、亮の身体は地に倒れ伏し、赤い色を纏っている。そしてやはり同じように、傍についた理沙が悲鳴を上げ続けている。
 自分でも危うげだと感じる足取りで、それでも二人の傍に寄った。亮の目は、まだ開いていた。苦痛に歪んではいたが、開かれている。傍に座り込み、覗き込んだ。神子だった。亮の目ではなく、この状況でもどこかふてぶてしい色の残る顔は、確かに神子のものだろう。
「庇った、のか」
 口から漏れ出た言葉に、神子は忌々しそうに顔を歪めながら呻いた。
「莫迦が。私の意思なら、こんな無様は晒さぬ」
 掠れた言葉を最後に、ふっと目が閉じられた。意識を失ったのだ。また一段、理沙の悲鳴が高くなった。しかし、その声も時也の耳には入らなかった。神子の言葉に、息が詰まっていた。
 庇った。それは事実だ。しかしそれは、神子の意思ではない。だとすれば、考え得る理由はひとつだった。
 松風、か――?
 唇に上りかけたその問いを、時也は自身の中に飲み込んだ。



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