六幕:浄化―きよしなる―  壱


戻る 目次 進む

 夕映えに染まった天井が見えた。
 鮮やかな茜色に目が眩む。一度、二度。焦点の合わない目を瞬きさせて、それから亮はがばりと身を起こした。同時に、胸部に強烈な痛みが走る。
「亮っ!?」
 悲鳴が聞こえた。ずくんずくんと痛む胸元を握り締め、亮は何とか顔を上げた。
 晶がいた。ベッド脇の椅子に座ったまま、目を丸くしている。目の下には、うっすらとクマが出来ていた。飾り気もないシャツとジーンズ姿だ。
「……良かった、目が覚めたのね。ちょっと待って、とりあえず看護婦さん呼ぶ――」
「晶、俺行かなきゃ」
 晶の言葉を遮り、亮は姉の腕を掴んだ。晶が、怪訝な顔をする。
「……は?」
「行くところ、あるんだ。ごめん、見逃して」
「何言って」
「晶。今日何日?」
 問いかけに、晶は混乱したようだった。亮の手を振り解き、呆然とした口調で答えてくる。
「六月三十日だけど」
 一瞬、血の気が引いた。神子とともに眠りについた日から、数日が経っている。魂同士の会話ではほんの数分程度の認識しかなかったが、時間感覚は大分ずれていたらしい。
 陽暦六月三十日。それは期限だ。本来なら呪の始まる日。けれど化生が普段より早まっているほたるだと、鬼の力が最も強くなる今日が、恐らく一番危ない。今日を過ぎれば完全に喰われてしまうだろう。何しろ鬼宿の魂が弱まっているのだ。日にちが経ち過ぎていたのは予想外だが、目覚めたのが明日でなかったことにだけは感謝しなければならない。
 窓を振り仰ぐ。高層から見下ろす町並みは一面夕映えに染め抜かれていた。
「何時!?」
「し、七時ちょいすぎ……」
 弟の剣幕に押されてか、晶は素直に答えてくる。「七時」口の中で繰り返し、亮は寝台から飛び降りた。素足にリノリウムがぺたりと張り付く。胸元が痛んだ。歯を噛んで堪える。
「亮っ!」
 晶が、見た目にそぐわない強い力で引きとめてくる。
「何混乱してるの」
「してない」
 亮は静かに言い切った。混乱などしていない。全て、判っている。自分の状況も、ほたるの状況も何もかも、判っている。だからこそ、今、行かなくてはならない。
 亮は晶を正面から見据えた。長身の姉は、理沙より少し目線が高い。睨むような眼差しを受け止める。神子の意思を受け止めたときと同じく、かわさずにしっかりと受け止める。亮の眼差しに呑まれたのか、晶は口を噤んだ。
「俺、混乱なんかしてない。心配かけたことは悪いと思ってる。でも行かなきゃいけないんだ」
 眼差しが交差する。ざわりと風が吹き込んできた。どこかの病室の窓辺にかけてあるらしい風鈴が、遠くからちりんと和やかな音色を届かせてくる。その音色が空気の中に霧散してから、晶が動いた。寝台の傍に置いてあったシャツとジーンズを放り投げてくる。
「あきら」
「一分」
 短く囁かれ、亮は慌てて着替え始めた。入院着を放り出し、シャツとジーンズを身に着ける。スニーカーを履く間に、晶がまた何かを投げてきた。受け取る。
「帽子?」
 深い緑のキャップ帽子だった。晶のものだろう。目を瞬かせる。
「……私がトイレで席を外している間に、あんたはいなくなってたのよ。見舞い客のふりして出て行ったらしいわ」
 ――そういうことか。
 微かに笑って頷く。そういうことなら、連絡手段になり得る携帯電話も忘れていったほうがいいだろう。キャップを目深に被り、手ぶらのまま病室の扉へと足を進める。廊下の気配を窺ってから扉を開ける。
「亮」
 背中に、声が掛けられた。肩越しに振り向くが、晶は背中を向けていた。その背中が、呟く。
「カレー、用意して待ってるから」
「……うん」
 小さな笑いを残し、亮は廊下へ飛び出した。

 ◇

 白く清潔な病院のロビーを抜け、表へ飛び出す。ばれやしないかとドキドキしたが、今のところ呼び止める声はない。地面は濡れていた。雨でも降っていたのだろう、少しばかり空気も湿っている。一度大きく息を吐いてから、亮は空を睨んだ。今は晴れている。橙の残り火が、西の空に揺れている。金星が輝いていた。まだ、間に合う。否、間に合わせる。胸中で呟き、再度駆け出す。
 病院の前庭を抜け、門を潜ろうとした時だった。前から歩いてくる一組の男女が目に入った。
 叶時也と、石川理沙。
 向こうが先に気付いた。亮の姿を見つけ、足を止める。亮は止まらなかった。すぐ近くに、時也の顔が迫る。
「神子……目覚めたのか」
 その言葉に、一瞬胸が痛んだ。誤解している――考えてから、違うと気付いた。誤解ではない。少なくとも完全な誤解ではない。神子もまた、ここにいる。
「すいません、先輩」
 それでも、微かに声を残し、隣をすり抜けようとする。腕が掴まれた。一瞬つんのめってから足を止める。時也の隣、茜に染まった理沙の顔が見えた。時也の眼鏡が、きらりと反射した。驚いた表情のまま、訊いて来る。
「松風、なのか」
 少し躊躇ってから、しかし亮ははっきりと頷いた。正面から、時也を見つめる。
「はい」
 隣にいた理沙の顔に歓喜の色が射す。それが今は少しばかり苦しくて、亮は奥歯を噛んだ。心配をかけていたんだと、改めて実感する。
 時也の表情に浮かんでいた驚愕が、紅茶に落とした角砂糖のようにうっすらと溶けていく。ややあって、手が離れた。時也が小さく嘆息する。
「何処へ行くの、松風」
 問いかけに、亮は唇を引き結んだ。慢性化した歯痛のようにずくんずくんと痛む胸元を握り、息を落ち着ける。
「すみません先輩。でも俺、行かなきゃ。約束、したんです」
 時也の隣にいる理沙が、不安げな顔をして見上げてきた。口を開きかける理沙を、時也が手で制する。そして、訊いて来る。
「どうしてもかい。僕が行って鬼を狩れば、現世への理由をなくした神子は輪廻の渦へと戻る。君は神子宿という運命から逃れられる。今までどおり、石川さんや同級生、お姉さんと一緒に普通の高校生活を送れるよ」
 それは単純に、自分がほたるを――神凪の女鬼を狩るとそう言っているのだ。理沙がぎょっとした顔で時也を見上げている。その視線にも構わず、時也は平坦な口調で続けた。
「神子が降りれば、救われたがる鬼や、僕みたいに望みを捨てきれない鬼人が君の周りを脅かすだろう。それに今までの神子宿は長くても二十歳前後でこの世を去っているよ。神通力は、人の身には荷が重過ぎるんだ」
 色のない眼差しが、亮を射る。それでも、亮は驚かなかった。
 その程度のことなら、知っている。神子の御魂が、教えてくれた。
 神凪の女鬼に限らず、鬼筋の鬼宿たちにとってのただひとつの希望である神子。救われたがる鬼たちが群れをなしてやってくることがあっても不思議ではない。そして、時也のような鬼人が、ないと判っている望みでも捨てきれず傍にやってくることもあるだろう。寿命のことも知っている。そんなことは判っていた。今更、驚くようなことでもない。
 亮の思いを感じ得たのだろう。時也が小さく笑った。嘲りにも見える、けれど何かを諦めたときのような曖昧な笑み。
「君はまだ、引き返せる。ただひとつ、ほたるという鬼宿を手放せば、君のこれからは平穏なままでいられるはずなんだ。それを選ぶ気はないのかい?」
 夕風が吹く。前髪をはためかせて抜けていく夏の風に、亮は小さく笑った。
「ありません」
 時也の目が、すうと細まる。
「そうやって先輩に任しちゃえば確かに平穏は手に入るかもしれないですけど、でも俺の望みは平穏とイコールじゃないみたいです」
 言って、時也と理沙を見つめた。判っている。時也の提案は、決して残酷なだけのものではない。亮を、そして多分理沙を案じて上げてくれた提案なのだろう。
 鬼人である十鬼夜が、神子宿である松風亮を、そしてただの人である石川理沙をどう思っているのかまでは判らない。けれどもっと単純に、叶時也が後輩の松風亮と石川理沙をどう思っているのかなら推測は出来る。
 少なくとも、嫌われてなんかいないはずだ。そのことだけは、確信が持てる。判っているからこそ、時也の提案に乗るつもりはなかった。
 理沙の目に涙が浮かんでいる。それは自分が目覚めたことに対しての喜びと、そして時也が告げた寿命やこの後の自分に纏わる鬼の話に混乱してのことだろう。それは確かに悪いなと感じる。でも、それだけで決意を変えるつもりはなかった。
 二人の顔を見つめ、亮はゆっくりと笑った。
「初めて、本気で自分でこうしたいって、思ったんだ」
 ――今まで、自分で決めたことなんて殆どない。高校を選んだのも理沙に誘われてだった。ほたるを泊めたのだって、理沙の提案があったからだ。どうすればいいか判らなくなったとき、時也を頼った。理沙を頼った。ほたるが目の前から消えたあの夜だって、自分は二人を振り払って追いかけようとはしなかった。本気なら出来たはずだ。結局どこかで、いつもブレーキをかけていた。誰かが反対することを怖がっていた。止められると、足を動かすことを躊躇した。
 お人好しだなんて、言葉良く選んだだけだ。いつか時也の言ったとおり、自分は単純に人の意見や状況に流されて生きてきただけだ。それを人が好いとは言わない。優柔不断なだけだ。
 だからこそ、今の状況は少し新鮮で、怖い。でも、今時也の意見に流されようとは欠片も思えない。それは初めて、亮が本当に心から望んだ決意だった。その決意は揺るぎを知らない。
 時也の唇が微かに綻んだのを見て、亮は深く頭を下げた。
「だから、行きます」
 不安げに見上げてくる理沙に微笑みかけ、亮は再び駆け出した。
 時也も理沙も、止めてはこなかった。

 ◇

 誰そ彼時と人は言う。夕間暮れの淡い紅碧の町へ、後輩の背中が溶けていく。まさに黄昏時だなと時也は独りごちた。あの背中は、松風亮のものなのか。それとも、神子のものなのか。
 言葉を交わしていたのは、確かに松風亮だった。こんな状況でも、すみませんと口にするのは神子であるはずがない。そのことが、怖かった。
 亮は、ほたるの元へと向かったのだろう。そんなことは判る。けれど、あの口調では狩るつもりはないはずだ。そもそも亮がほたるを狩ろうなどとするはずもない。だとすれば、行った理由はひとつ、浄化だ。鬼を剥がし、浄化するために行った。けれど、それは。
 こくんと、知らず喉が鳴った。自らの長く伸びる夕日影に目を落とす。
 浄化するには、神子がいなくてはならない。神子の力なくして、浄化はありえない。言葉を交わしたのは松風亮だ。けれど、鬼を浄化しようとしているなら神子が完全に消え去っているはずもない。神子が消え去っていれば――器を亮が取り返したのなら、浄化の術を知らぬままだろう。だが松風亮は、確実に鬼を浄化しようとしているように見えた。それはすなわち、神子の御魂がまだそこにあると言うことだ。それでも、言葉を交わしたのは松風亮だった。
 ひとつの器に、ふたつの御魂がある。
 だが、融け合っているわけではないだろう。融け合えば、彼もまた自分たち鬼人と同じように永久の御魂と器を得るだろうが、しかし融け合っていないことは確かだった。松風亮の言動に、神子らしきところは欠片も見当たらなかったのだから。
 だとすれば、それが意味するところはひとつだった。
 腹腔に溜まっていた息を吐き出す。しっとりとした空気が鼻腔を通って身体を満たしていく。
 もう見えなくなった後輩の背中へ、声もなく時也は呟いた。
 それを望むのかい、松風。自らの意思でその結果を選び取るというのか。
「会長」
 震える声に目をやる。理沙が見上げてきていた。そっと理沙の頭に手を置く。
「莫迦が莫迦なりに選んだものだ。僕も付き合うとするよ。先に行っているから、落ち着いたらおいで」

 ◇

 市立総合病院を飛び出して、まず向かったのは自宅だった。松風家は病院と神凪神社のちょうど中間ほどにある。本当は近道でも探してそのまま神凪神社へ走って行きたかったのだが、さすがにそうも行かなかった。胸元の傷が痛む。そう深くはないと神子は言ったが、その分痛みはある。痛みを堪えて走るのも限度があり、何より――
……そなたは呆れるほど、器の使い方が下手だな
「うるせぇ」
 とっくの昔に息が上がっていた。
 自分の中で響く神子の呆れかえった声に、ぜえぜえと弾む息の間になんとか言葉を割り込ませる。もはや走っているのか歩いているのかただよろけているだけなのか自分でも判らない。この調子じゃいつまでたっても神凪神社に辿り着かないと判断したのだ。いくら決意したとはいえ、身体が素直についていくものでもない。理沙みたいに鍛えておけば良かったと考えるが、今言ったところでどうしようもない。何とか自宅に辿り着いて、自転車を引っ張り出す。
そなたは己の器ひとつまともに扱えんのか
「うっせぇ、文明の利器だっ」
 どこかで聞いたような台詞に、叫びながらペダルを蹴る。細い道を抜け、大通りを渡り、一宮に入る。路地を自転車を操って進んでいく。すぐに目の前に森が見えた。松と杉が揺れている。鎮守の森だ。朱い鳥居がある。
 自転車を放り出した。鳥居をくぐる。同時に、身体が急に重みを増した。
「なっ!?」
 声を上げて膝を突く。視界がぐるりと廻った。
戯け。正中を通る奴が何処におる
「え? え?」
端に寄れ。正中は鬼の通り道だ
 言われるがまま、転がるように横に避けた。すると、身体がすうと軽くなる。ほっと息を吐いた。気を取り直して石段を駆け上がる。すでに薄暮の光は過ぎ、宵のうちの空には仄かな月が昇り始めている。望月だ。
 目の前にまた鳥居が見えた。素朴な、黒木造りの神明鳥居。重い足を引きずりながら、石段を上がった。鳥居をくぐる。
 宵闇に抱かれた神凪神社。亮は大きく息を吸った。叫ぶ。
「――ほたるっ!」
 儚くあえかで、今にも消えてしまいそうな淡い光を放つ少女の名を、叫ぶ。
「ほたる、何処だよ!」
右手だ!
 神子の声に、慌てて右を向く。同時に、肩に重い衝撃が来た。視界が斜に変わる。息を止める暇も有らばこそ、背中を強打していた。シャツ越しに、砂利の感覚がある。
 ……俺、吹き飛んだ?
 けほっと咳き込みながら、くらくらする頭でそれだけを理解する。
戯け! そなたはただでさえ器の扱いが下手なのだから、顔を向ける前に避けんか!
「……戯け戯けうるせぇ。あんた何処のお奉行様だよ」
 うめきながら顔を上げた。月が見えた。そして、月を背負い降ってくる黒い影。
「うわっ!?」
 転がりながら避けた。自分でも不様だと思う格好で、無理やり立ち上がる。同時に、胸に引きつるような痛みが走った。漏れかけた悲鳴を飲み込んで、歯を食いしばる。シャツ越しからも、ぬるりとした感触が伝わってきた。傷が開いたのかもしれない。
 噴き出す脂汗を感じながら顔を上げる。
 参道を挟んで向かいに、小さな人影が佇んでいた。
 月光に晒されて流れる長い黒髪。捩れた四肢。破れたブラウスの先から見える、不恰好なほどに大きな手と爪。殆ど用を成さなくなっているジーンズからは、妙に膨れた膝関節と動物のような足が見えた。顔といわず足といわず全身に浮き彫りになっている、まるで虫のように蠢く血管組織。真っ赤な両の瞳。口元からは、唾液が滴る牙が覗いていた。
 ――ほたる。



戻る 目次 進む