六幕:浄化―きよしなる―  弐


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 思わず、泣きたくなる。悔しさが膨れ上がる。鬼による十の夜を掛けた捕食は終わろうとしていた。ほたるの小さな体を、子犬のような目を、微かに綻ぶ紅く小さな唇を、折れそうに細い腕を、弱く、けれど強固な意志を抱いていたはずの心を、鬼は喰らい尽くそうとしている。百年以上も前の呪いが、怨念が、怨恨が、ほたるを喰らいつくそうとしている。
 そんなことが。そんな事実が。
「馬鹿馬鹿しい……!」
 唾棄せずにはいられないほどにくだらない。
時がもうない。喰われ尽くす前に鬼を剥がし浄化しろ。手順は判るな
 目の前の惨状があまりにくだらなくて悔しくて堪らないと言うのに、御魂に響いてくる神子の声は静かだった。シャツの胸元を握り締め、息を吐く。猛烈な反発が来ると予想しながら、それでも意を決して、告げた。
「――いやだ」
 同時に、来た。
 脳を直接殴られるかのような衝撃。内部から突き上げてくる力に、亮は必死で耐えた。それは神子が、亮の魂を追い出し自分が表へ上がろうとしている力だった。来ると判っていた反発だ。二度、三度。その重い衝撃に耐える。それでも亮は、器を動かす権利を譲らなかった。歯を食いしばりながら、叫ぶ。
「駄目なんだ、それじゃ駄目なんだよ、神子! あんたが今までやってきた浄化やら剥がしやらって、力づくじゃねぇか。無理やり輪廻の渦へと還してるだけじゃないか。俺、判るよ。あんたと意識を共有してる今、今までのこと、全部見えてる。だからこそ、駄目なんだよ」
 反発が、一瞬やんだ。大きく息を吐く。今隙は見せられなかった。目の前のほたるにも、自分の器に宿るもうひとつの御魂にも。二人に警戒しつつ、亮は言葉を止めなかった。
「こんな馬鹿げた運命の渦、今ここで完全に断ち切らないと意味がないんだ。でなきゃ、助かった後ほたる、安心して生きていけねえじゃん」
 隙を窺い飛び掛ってこようとするほたるを見据えながら、足を開いた。頼りない自分の身体だけを頼りにするしかない。震える足を騙しながら、腰を落とす。
「いつか結婚して子供を生むことになっても、女だったらまた鬼宿になる。そんな不安、嫌だろ。そんな……そんな繰り返し、あんただってもう嫌だろ。こんなくそ馬鹿げた呪い、今ここで全部断ち切らなきゃ。だから、今までのあんたの剥がしと浄化じゃ、駄目なんだ」
「変はらじの琴」
 声がした。同時に、耳鳴りに襲われる。顔をしかめた瞬間、ほたるが身体がびくんと跳ねた。手負いの獣のように後ろに飛び退る。すっと、耳鳴りも途絶えた。
「変はらじと契りしことを頼みにて 松の響に音を添へしかな――ってね。いい歌でしょ」
 穏やかな声音に振り返る。
「先輩……」
 時也がいた。鳥居をくぐり、参道の正中をゆるやかな足取りで歩いてくる。目が合うと、時也は微苦笑を浮かべてきた。
「神子、今回は完全に宿を選択違いしたね」
 正中を堂々と歩いてきた時也は、跳び退り石碑近くに移動しているほたるを一瞥すると、亮の傍に寄ってきた。
「手を貸すよ、松風。僕だって鬼筋の血の呪いなんてほとほと飽きてるんだ。少しくらい同族の解放に手を貸したっていいでしょう?」
 時也の言葉に――
 もう神子は何も言ってこなくなった。亮は少しだけ笑って、ほたるに向き直った。
 石碑の近くで蹲っている、小さな影。鬼に喰われかけている少女。彼女を、救いたい。
 ほたるが、咆哮を上げた。泣き声にも聞こえる哀れな叫びに、松が、杉が、ざわりと音を立てる。亮の肌にも粟がたった。
 咆哮が溶けて消えた後、じゃりと石を踏む音が聞こえた。視線をやる。
 社殿から、老人がひとり歩いてきていた。一瞬、どきりとする。亮にしてみればほんのついさっき、少年時代を垣間見た男だったからだ。
 神凪真治――
 隣に立つ時也の身体に、僅かに力が篭ったのが判った。真治はほたるの声に呼ばれて出てきたのか、一振りの刀を手にしていた。その足が、止まる。孫娘と向き合う二人の少年を認めたのだろう。重々しい声が漏れる。
「神子宿か」
 真治の視線が自分に向けられていることに気付き、亮は小さく頷いた。真治は何も言わず軽く頷く。その視線が、隣に立つ時也に向けられ、止まった。息を呑み、目が大きく見開かれる。
「十夜……か?」
 信じられないとでも言うような口調で呟かれた言葉に、時也は微かに笑った。
「久しぶりだね、真治。こうして顔を合わせるのは何年ぶりかな」
 同窓会か何かのような緊迫感のない口調で呟き、時也はひょいと肩を竦めた。ゆっくりと傍に寄ってくる真治を見て、視線を再度ほたるに戻す。慌てて亮もほたるに向き直る。隣に立つ時也が、声を発す。
「感動の再会は後にしようか。せっかく神子がいるんだ、君も斬らなくてすむかもよ」
 その言葉に、真治がこちらを見てきたようだった。隣からの視線が刺さる。
「覚醒……しているのだな」
「え。あ、いや、俺は違うんですけど。あ、でも神子はちゃんといます」
「後で説明するよ。それで、どうしたいの、松風。何か考えは?」
 問われ、口を噤む。ほたるが低く唸っている。今にも飛び掛ってきそうだ。心臓がどくどくと早打っている。
 痛む胸元を握り、亮は少し黙考してから口を開いた。
「ほたると……話したい、です」
「……死ぬよ」
「頑張ります」
 何をどう頑張るのかと時也は問うて来なかった。無謀とも言える言葉に呆れたように笑っただけだ。
何を考えておる
「うるせぇ。黙ってろ」
 低く問いかけて来る神子の言葉を一蹴する。時也が穏やかな声を出す。
「真治、呪符は?」
「ある」
 端的な会話に、数十年の空白は感じられなかった。他人事ながら、少し嬉しい。思っていると、時也が亮の背を軽く叩いてきた。
「松風、いいかい。この場所は狩りに適するように全てが位置づけられている。まずは正中。ここは鬼の通り道だ。鬼の力が強まる場所と言い換えてもいい。ついでに僕の力もね。自然、鬼はここに引き寄せられる。そして神木。艮……鬼門に位置するあれにも鬼は引き寄せられる。けどね、罠がある」
「罠、ですか?」
「注連縄と呪符で鬼の力を削ぐようにしてあるのだよ」
 答えたのは真治だった。見ると、微かに微笑んでいる。そのことが力強い。
「それから、神子の力が強まる場所もある。僕らと同じく、鬼門に当たるあの場所と、正中だ」
「え? で、でも俺さっき正中通ったら動けなくなって」
「莫迦。それが証拠でしょ。君の器はまだ慣れていないんだから負担ぐらい掛かるよ。だいたい神子って言ったって結局鬼の子供だよ」
朱鬼!
 御魂が怒号を上げる。時也には聞こえるはずもないだろうが、びくりと身体を震わせた亮を見て感じ取ったのだろう。冷ややかな視線を投げてきた。
「鬼を狩る神凪の血と鬼の血――だからこそ、普通ではない神通力を持つ。結局その神通力は鬼のものが殆どだ。松風、君が何をしたいのかは知らないけど、とりあえずあの子と二人きりになりたいんでしょ?」
「……はい」
 ゆっくり頷く。頭痛がしたが、今は無理やり無視した。時也が微笑う。
「僕らが鬼門へとほたるを追い詰める。神木の下で待ってなよ。後は君のしたいように。――いいよね、真治?」
 真治の強い眼差しが亮に注がれる。それを受け止めると、真治はゆっくりと頷いた。
 時也が軽く口笛を吹いた。
「さあ――始めようか」

 ◇

 時也が足を踏み出す。それが合図だった。ほたるが跳び上がる。正中へと落ちてくる。その隣を、亮は夢中で駆けた。正中を過ぎる瞬間足が重くなったが、何とか引き剥がして前へ進む。背中にぞくりと悪寒が走る。爪だろう。衝撃を予想して歯を食いしばる。が、衝撃より先に、一閃が走る。視界の隅を銀の光が過ぎた。同時に、何かが吹き飛ぶ音がする。振り返ることはしなかった。走る。転がるように不様に、けれど必死にただ走る。神木の松まで。
 理沙のメールにあった添付画像の松は、今は夜空を背にして堂々と聳えている。見上げると首が痛いほどに大きく、力強い。息を乱しながら、何とか神木に辿り着く。幹のざらりとした感触を手のひらに感じた。同時に、正中にいる時と同じような重みが全身に掛かってきた。足を開いて何とか耐える。松に背を預ける形でようやく振り向いた。
 銀光が走る。視界を斜めに過ぎたそれが刀の一閃だと何とか理解だけは出来た。視認するには至らない。真治がいた。白髪の老人が漆黒の鞘を脇に抱えている。血は見えない。斬ったわけではなさそうだ。ほたるを挟んだ向こうに時也もいる。正中で足を開いてほたると対峙している。二の鳥居から一直線に、真治、ほたる、時也と並んでいる。
 ほたるが再度、跳んだ。時也が同時に一歩下がった。鬼の爪。月華に当てられ鈍く光っている。ほたるが叫ぶ。叫びを無視して時也が囁く。
「風の柵」
 びょうと風鳴りが吹きぬける。風に纏わりつかれたかのように、動きを止められたほたるの体が、びくんと跳ねて落ちる。
 それを見て、亮はくっと下唇を噛んだ。少しだが、身体が重みに慣れ始めている。胸の痛みは間断なく続いているがそれもまた慣れてきた。後はもうひとつの御魂からの反発に耐えればいい。決心して、松に手を掛けた。
「松風!?」
 驚いたような時也の声に、掛けていた足がずるりと滑った。舌打ちして、スニーカーを脱ぎ捨てた。素足でもう一度、松に足を掛ける。
何をしておる!
 案の定響いてくる神子の叫びに、歯を食いしばった。答えず、足と手を動かす。
話を聞いておらなんだか! この場所はともかく、神木の上では私の力も半減するぞ!
「……だから登ってるんだよ、戯け」
 散々言われた言葉を返してやる。登り棒の要領でずるずると少しずつ上がっていく。登るというよりは這いずり上がるに近い状態で、何とか最初の枝に手を掛けた。腕が伸びきると傷が痛んだが、必死に耐える。枝によじ登り、見下ろす。眼下では真治が呪符を正中へと貼り付け始めていた。一枚、二枚。鳥居から先に伸びていく。
 時也と目が合った。問うような瞳に、強くひとつ頷いた。時也が静かに頷き返してくる。
 その瞬間、ほたるが時也に迫った。こちらに気を取られていた時也の反応が一瞬遅れる。
「十夜!」
「先輩!」
 思わず亮は叫んでいた。時也が腰を落とす。真治が走り出す。間に合わない。思った刹那、何かが飛来した。
 弾き返る。ほたるに当たった何かが地に転がる直前に、時也はすでに動いていた。間合いを外し、ほたると対峙する。
 ころん、と軽い音だけを残して飛来したものが参道に転がる。
 松毬まつかさ――松ぼっくりだ。
「バスケボールは持って来れなかったけど、松ぼっくりならその辺にいっぱい落ちてたから」
 はあはあと息を弾ませながらの声に目をやると、鳥居の真下に制服姿の少女が立っていた。
「理沙!?」
「石川さんか」
 時也が微かに苦笑した。両手にふたつずつ松毬を持った理沙に、軽い声を投げる。
「助かったよ、有り難う。でも今はまだ危ないから、端に寄っててね」
 素直に鳥居の端に寄った理沙が、顔を上げた。目が合う。
「亮!」
 大きくひとつ名を叫んで、それから理沙はにっと太い笑みを浮かべてきた。練習を見に行ったときに見せてくれたのと同じ、力強い笑みを。
「しっかりやんなさい」
「――ああ」
 夜の神社には似つかわしくない、晴れ渡った青空のような笑みに、しかし確実に勇気を貰う。
 今からやることは、賭けでしかない。この松の上では神子の神通力だって薄れている。それでも、やるべきことがある。その賭けに踏み出す勇気をくれる笑みだ。
 真治が動いた。真っ直ぐに足を踏み込み、鞘を構える。一閃。逃れるようにほたるが跳んだ。時也が動く。ほたるの真下に滑り込んだ。叫ぶ。
「天つ風」
 旋風が巻き起こる。ほたるが悲鳴を上げた。拉げた声に、胸が痛む。が、長く思う間もなく人影が交差した。時也と真治。二人の場所が入れ替わっている。呪符。正中に貼り付けられる。真治が跳び退った。ほたるが落ちてくる。
 ――ばぢぃっ!
 鈍い音を立てて、ほたるの体が跳ねた。参道から転がり出る――神木のほうへ。
「石川さん!」
 時也が叫んだ。理沙はぎょっと目を見開くと、すぐに手にした松毬を振りかぶった。
「ほたる、ごめんねっ!」
 叫びながら、投げつける。立ち上がりかけていたほたるの体へと松毬がぶつかる。弾かれるようにほたるが転がった。
「その松毬は神木のだからね。僅かだが、鬼の力を削ぐ効力はある」
 時也が微笑む。ほたるは神木の下へと迫っていた。理沙の投げていた松毬が止まる。
 見上げた時也と、目が合った。
「後は君次第だ」



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