終幕:日常 ―ひびわらふ― 


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 水族館は、親子連れで溢れかえっていた。
「思うんですけど、俺ら明らかに浮いてますよね……」
 ソファの周りをはしゃぎまわる子供たちを見つめながら、亮はうめくように呟いた。隣に座る時也が軽く首を傾げる。
「そうかな」
「どう考えても浮いてます」
 言いながら、ちらりと視線を時也の向こうへと投げた。着物を着た老人が、穏やかな目で微笑んでいる。その視線の先には、理沙とともに水槽を楽しげに眺めているほたるの姿がある。
 自分に理沙に、時也にほたる。そして、真治。
「君と、君の幼馴染みと、君たちの先輩である僕とその親友と親友の孫。一応繋がりはあるよ?」
「いやまあそうなんですけど」
 自分たちだけならともかく、ここに真治が加わると一気に妙な団体に見えることだろう。
「松風わがまま」
「はいはいそうですね」
そなたは真、瑣末なことに気を揉みすぎる
「はいはいそうですねっ」
 外から内から非難され、亮は思わず声を荒らげる。その声に、時也が口を尖らせた。
「二度も言わなくていいじゃない」
「あ。いや、今のは神子が……」
「ああ、なるほどね」
 神子の単語に、真治がこちらを向いてきた。
「まだ、いるのか」
「力、使っちゃいましたから。力を使うと器に定着しちゃうみたいで、どうにも。うるさくてたまらんです」
 時也がくすりと微笑む。
「神子は表に出てこないの?」
「あ、何か出てくることは出来るっぽいです。あんまやりたくないけど」
「うっかりそのまま器取られかねないもんね」
「不吉なこと言わんでください」
 時也と真治が声を合わせて笑った。笑い声に反応したのか、ほたると理沙が振り返ってくる。二人とも、笑顔だった。そのことが嬉しい。軽く手を振ると、二人は満足したように再度水槽に向き直った。のんびりと遊泳しているエイやらジンベイザメやらを楽しげに目で追っている。
「そうだ、松風」
 幼子のような二人の姿を見ながら、時也が思い出したように声を上げた。
「はい?」
「まだちゃんとお礼言ってなかったよね」
「……は?」
 思わず、聞き返す。
 呆然とする亮には構わず、時也がこちらを見据えてきた。微笑む。
「有り難う」
 素直な感謝の言葉に、思わず頭に血が上る。
「ちょっ、勘弁してくださいよそう言うの! 大体なんで先輩がっ」
「真治は僕の友人だからね」
 時也が肩を竦める。
「ずっと、心配ではあったんだよ。鬼狩りをする真治もだけど、鬼宿たることを宿命られていた神凪の女児もね。君はその渦を断ち切ってくれたから」
「や……俺って言うか、やったの神子、ですし」
「莫迦。神子はあんな気の利いた物言いも浄化の術も知らなかったはずだよ。ああいうのは、お人好しの君が教えたんでしょ」
 そう言われると、返す言葉がない。思わず口を噤んだところへ、神子が囁いてきた。
素直に感謝されておけ。あれは確かにそなたの功績だ
 神子にまで言われてはどうしようもない。素直な感謝になんてあまり慣れていない亮は、ややどぎまぎとしながら軽くひとつ頭を垂れた。
「私からも感謝するよ」
 時也の向こうから、真治が微笑んでくる。
「孫を、神凪の血を救ってくれて、有り難う」
 その言葉にも、軽く頷いた。少しばかり、顔が熱い。
「けど、松風」
 低い声音は、はしゃぐ子供たちの声に掻き消される。恐らく、少し離れた場所にいる理沙やほたるには聞こえないだろう。亮と真治、二人だけに聞こえる程度の声音で、時也が訊いた。
「君はあの二人には言わないつもりなの?」
 その言葉に、亮は軽く苦笑した。
 心配してくれているのだろう。
「言いません」
 真治も時也も押し黙る。神子でさえ、何も言ってこない。意外と、当事者である自分よりも彼らのほうが困惑しているらしい。
 時也がさらに声を潜めて言った。
「ひとつの器にひとつの御魂。それが自然の理だ。けれど今の君は」
「ひとつの器にふたつの御魂、ですね。しかも定着しちゃってる」
「……そう。それが意味するところは、判ってるんだよね?」
 確認の言葉に、ゆっくりと頷く。
 判っていた。
「器が魂を支えきれない。近いうちに――器が壊れる。ですよね?」
 それは近しい死を意味していた。
 時也が重く頷く。
「判ってて選んだんだね」
「はい」
「君はそれで良いの?」
 問われて、思わず苦笑する。
「良いか悪いかって言われれば、別に良くはないですけど。でも、選んだことですから」
 自分で望んで、覚悟も全てあった上で、選んだことだ。後悔はしていない。
 視線を前に向ける。水槽の前、遊泳する魚たちを指差しながら笑いあう二人の姿。
「あいつら、すっげえ楽しそうじゃないですか」
 ほたるも理沙も、華やかに笑っている。大口を開け、何も心配することがない気配で、屈託なく軽やかに笑っている。
 そんな姿が、ただ、愛しいと思う。
「俺が望んだのって、何もそんな難しいことじゃなくて。あいつらがああやって単純に笑うのが見たかったんです。別にあいつらの為とかそういうんじゃなくて、俺自身が見たかっただけなんです」
 夏の陽射しに良く似た笑みを、二人ともが浮かべている。
 それが何より、嬉しい。
 その言葉に、時也がまた微笑んだ。
「いにしへの契りになげき よを超へて あはしほたるに松風ぞ吹く――ってね」
 時也は軽く微笑んだだけで立ち上がった。
「ねぇ松風」
「はい?」
「現は残酷だよ。けれど僕は現を、まだ捨てきれないんだ」
 意味深な言葉だけを残し、時也は水槽の前の二人の下へと歩いていく。真治もまた微笑を残し、三人のもとへと歩いていく。
「……どういう意味だと思う、あれ?」
さあな。己で考えろ
「ちぇ」
 軽く舌打ちして歩き出す。
のう、松風亮よ
「……あんたも何かあんの?」
 また何か嫌味を言われるのかと思ったが、神子の御魂は軽く笑ったようだった。そのことに少し驚く。
「神子?」
そなたは真に愚かで、故に面白いな
 褒めているのか貶しているのか、よく判らない言葉に、亮はただただ苦笑した。それでもその言葉に棘はない。
「ねぇ、亮ー!」
 理沙が手を振ってくる。満面の笑みで、笑い、肩を震わせるほたると手を繋いでいた。空いている手で、水槽を泳ぐエイを指差している。
「こいつ亮に似てない? こんのだらけた顔見てよー! 超そっくり!」
「下から見ると、そっくりです」
 ほたるが、エイの白い腹を指している。エイの腹にある口と何かの孔は、確かに顔に見えなくもない。しかしあまりに間の抜けた顔だ。
 時也と真治がエイの腹を見上げ、同時に吹き出した。腹を抱えて笑い出す。
「ちょっと待ておまえらなぁ!」
 声を荒らげると、四人ともがさらに笑いを高くした。
よっぽど、似ているように見えるらしい。
「くっそ、こんのやろーっ」
「きゃあ、ごめんなさい」
 ほたるの頭を抱え込むと、眼前に花咲くような笑顔があった。
 鮮やかで、華やかで、曇りのない笑顔。
 ――まぁ、いいか。
 亮はくすりと小さく笑った。全てはその笑顔で、釣りが来る。
 理沙が笑う。ほたるが笑う。時也が、真治が、笑う。そして自分も神子も、笑っている。

 そんなただ笑いあう日常が、今は心から愛おしいと思った。



――了
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