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月のない夜だった。星明りだけが滑稽なほどに輝いていた。
天に敷かれた深い紺の生地に、高価な宝石をぶちまけたかのようにその夜は贅沢だった。
眩いほどだった。
贅沢な夜は美しく、香るほど艶やかで、けぶる夏白雪の白さが艶かしい。
ああ、でも本当に美しいのは夜ではない。溢れかえるほど煌きを放っている星々でもない。闇の中で曖昧に輪郭を滲ませている夏白雪でもない。
花穂だ。
腕の中にいる、眠りに落ちたままの花穂が何よりも美しかった。眩かった。
花穂の白い柔肌に唇を寄せた。瞼に口付けを落とした。硬く閉ざされた瞼はぴくりとも動かない。長い睫毛に沿って舌を這わせた。唾液が睫毛を繋げて薄っすらと窓から漏れている光を照り返す。
夏白雪の花々と、その中で眠りに落ちている花穂の姿を、薄ぼんやりと浮かび上がらせている橙の光。
口付けを瞼から頬に移し、薄紅の唇を塞ぐ。微かに呻く様な声を漏らしかけた花穂の口内に舌を割り込ませた。
意識を失っている人の体という奴は、重い。花穂の後頭部に手を廻して、僕は再度深く唇を重ね合わせた。
愛しかった。
愛おしかった。
壊してしまいたいほどに、愛しかった。僕はただ何も考えられず、がむしゃらに花穂を抱いた。
花穂の薄手の寝巻きを剥ぐ。頬を撫でた。ふっくらとした感触が指先から伝わってくる。虫の音も、夏白雪のさざめく音も、僕には必要のないものだった。花穂の僅かな吐息が内耳に触れるのが何より心地良かった。世界中にある音はこれだけで良い。
花穂。
花穂。
――花穂。
抱いて、潰してしまいたい。抱いて、壊してしまいたい。この一瞬を永遠にすることが出来るなら。刹那を永久に変える事が出来るなら。それは何にも変えがたい奇跡になるのに。
口付けを唇から首筋へと移していく。花穂の長い栗毛を指に絡ませた。眠る花穂の周りを彩る夏白雪の花は、まるで姫君を祝福せんとする王冠に見えた。絵画のようだと、僕は思った。どうして僕がこんな事をしているのか、それは判らなかったけれど。ただ僕の手は花穂を何度も撫でていた。花穂の柔らかな頬を。うなじを。腕を。瞼を。露になった胸を。背中を。白い腿を。花穂の全てを。
花穂の全てを、僕はこの手で撫ぜあげていた。
乳房は白く、そしてとても柔らかかった。幼子のような花穂だけれど、器は僕よりも年上なのだ。十四の僕よりも。星明りと部屋から漏れる橙の明かりに曝される花穂の身体は、素直に美しかった。
乳房に唇を寄せた。淡く咲き誇る薄紅の花弁を口に含んだ。
眠ったままの花穂が、恐らくは無意識だろうか、甘く鳴く。その声がまた愛しくて、僕は強く花弁を吸い上げた。
ああ、全てが。
花の香りに包まれたこの全てが、永遠であれば良いのに。
花穂を永久にこの腕に抱き続けていられれば良いのに。壊れ行く硝子細工のように脆く儚く、だからこそ美しい君を、永遠に抱いていられれば良いのに――
何故かは判らない。けれど懇々と深い眠りに落ちている花穂を抱き続けながら、僕はそう願っていた。
強く、強く、強く――願っていた。
夏白雪が僕らの行為を嘲笑うかのように、風に揺れていた。
どれくらい花穂を抱いていたのかは判らない。
月のない夜は時間感覚を失わせる。
暫くたった事は確かだ。そうして瞼を開けた花穂の瞳は硝子球のように透き通っていて、愛らしい人形の呈をしていた。
「圭ちゃん」
甘い声で囁かれた。僕は微笑んで、花穂の額にかかった髪をかきあげてやった。
花穂の手が動いて、闇の中を弄った。闇の中で何を見つけたのか、花穂は嬉しそうに微笑んでそれを抱き寄せた。
白い猫の首だった。
首から、上だけだった。
僕の中で一瞬恐怖が走った。だけど僕は、僕の心は何故か静かだった。
左右の眼の色が違う白猫だ。左は黄金で、右は青い。金目銀目の猫だ。否、正確にはその首だ。首から下はなく、猫の顔は恐怖で醜いまでに歪んでいる。元々は可愛らしい顔をしていた筈だが、見る影もない。切り離されて赤く染まった首周りは、痛々しいほどだった。
だけど花穂は、愛しそうにその白猫の頭を撫でた。
「猫さん、可愛いねぇ。圭ちゃん」
硝子球の目は何も映していなかった。ただ無垢ににこりと微笑むだけだった。
切り離された白猫の首に花穂は頬を摺り寄せた。
僕は怖かった。だけど僕は愛しかった。
花穂は猫の首を隣に置いた。「ちょっと待ってね、猫さん」当たり前のように、花穂は告げた。猫はにゃあとも鳴きはしない。呼吸だってしていないのだから。柔肌を夜気に曝したままの花穂はその場で起き上がると、近くに咲いていた夏白雪の花を摘んだ。
「花穂?」
「圭ちゃん、あのね。花穂ね、いいこと思いついたのよ」
無邪気に。無垢に。何も感じていない幼子のように。
花穂は微笑んでいた。夏白雪の――花穂がそう呼ぶシロツメクサの花をいくつもいくつも摘みながら。
僕は不思議だった。花穂が何故、その花をそう呼ぶのか僕は知らなかった。
「花穂」
「なぁに」
「シロツメクサを摘んで、どうするの」
花穂はきょとんと眼を瞬かせた。それから屈託なく笑う。圭ちゃん、変なの、と声を上げて笑う。
「このお花はねー、夏白雪って言うのよ」
違うよ花穂。
「だってねぇ、夏が来る前にお花が咲くの。このお花が咲いている間はね、花穂外に出られるのよ。素敵でしょ」
ああ、そうだった。
僕の中の何かが、思い出したように呟いた。
そうだ。花穂は病弱で、すぐに風邪だって引くから、普段はあまり外に出ないのだ。風が冷たくなる頃は当然家に篭ってばかりだった。
だから花穂は、僕にしてみれば不思議なほど雪に焦がれている。
「雪みたいよね、圭ちゃん。夏なのに、お花として雪が咲くの。だからね圭ちゃん、花穂ね、このお花が大好きなのよ」
花穂は言いながら、楽しそうに指を動かしていた。花穂の手の中で、シロツメクサ――いや、夏白雪の花がひとつの形になっていく。それが、二つ。
「出来たぁ」
花穂は満足そうにそれを掲げた。
指輪だった。花冠と同じ要領で作ったのだろう、小さな夏白雪の指輪が二つ、花穂の手の中に生まれていた。器用だな、と思う。僕は――僕も――こういった真似は出来ない。
「ねぇ、圭ちゃん。花穂と結婚してくれる?」
幼子が何かをねだるときと同じ目で、花穂は僕を見上げてきた。
その眼差しが愛しくて――僕はそっと花穂の額に口付けた。花穂の頬が僅かに朱に染まる。えへへ、と花穂がはにかんだように笑った。
その夏白雪の二つの指輪が、結婚のための指輪代わりなのだろう。それはいかにも幼い子供が考えそうなことだった。
「いいよ」
花穂の作った夏白雪の指輪をひとつ受け取って、僕は頷いて見せた。
花穂の細い指をとる。
「花穂がずっと、ずっと、良い子ならね」
夏白雪の指輪を、花穂の左手の薬指にはめる。花穂は甘いお菓子を目の前にした子供のような目で僕を見つめていた。
「花穂、ずっと良い子でいるよ、圭ちゃん」
「うん」
花穂が不器用な手つきで僕の手をとった。左手の薬指にはめられていく、遊戯のための指輪を見ながら僕は微笑んだ。
「花穂、ずっと良い子でいるのよ、圭ちゃん。圭ちゃんのために、ずっと良い子のままでいるの」
「ずっとだよ。僕だけのものでいるね? 花穂」
「うん」
花穂は無邪気に笑った。
夏白雪の指輪が交わされて、僕らは微笑みあった。
ああ、そうだ。
そうだよ花穂――
ずっと、君は、僕だけのもので、あり続けなければいけない。
その壊れかけた、美しさのままで――
首から上の猫が、僕らを見つめていた。猫の左右の色が違う瞳は、花穂と同じように硝子球のそれだった。何も映していない。
だけどその目が、僕らを哂うように見えた。
「花穂はずっと、圭ちゃんのものだよ。ずっと。ずぅっと」
花穂の言葉に、僕は思わず手を伸ばしていた。
細い花穂の身体を抱きしめていた。
ずっと。ずっと。ずっと。
僕だけのもので、いてくれるのだろうか。ずっと。ずっと。ずっと。永久に。
僕は眼を閉じた。
首だけの白猫。眠っていた花穂。花穂の体を抱いた自分。僕は知っているはずだけれど、でも判らなかった。
闇が夏白雪の眩しさに溶けていくと、また、あの声が聞こえた。
花穂の声が、聞こえた。
◆
「どうしてこうなったか、知りたい?」
うん。
「圭ちゃん、忘れちゃったの?」
僕は覚えてるよ、花穂。
「えへ。良かった」
忘れてなんていないよ、花穂。
「でも、圭ちゃん知らないのね」
そうなんだ。
「また、魔法をかけよっか、圭ちゃん」
君と共に?
「そうだよ。一緒にやろう」
白い光が、慈しむように包み込む。
そう。僕らには魔法がある。
君の持っている、懐中時計の針に指をかけ。
くるり。
くるりと逆さに廻す。
「うん、そうだよ。圭ちゃん」
時計の針がくるくる廻り
明日の足音掻き消して
昨日がも一度今日になる
そんな魔法を教えよう
――そんな魔法を、教えよう――