第二章:Rebellion of Spirit――精霊の反乱


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 街は夕闇に染まり、僅かに怠惰な雰囲気で夜を待っていた。夕陽はとうに沈み、建物は淡い藍色の衣を帯びている。
 そんな、街――ストレイツァ王国ジェリア・シティ、港区ロストック。整備された石畳のストリートは、おそらく商店通りなのだろう。籠に夕食の材料を入れた女性やら、髪飾りを誇らしげにさして歩く少女やらが行き交って――その、歩く人々が、一様にある場所に視線を投げかけていた。
 道端にあるベンチに。
 ――いや、正確に言うならば、そこに座っている一人の少女に、だ。
 美しい少女だった。
 年の頃なら、十六、七だろう。銀絹糸のような髪が夕風に流れ、陶磁の肌は、まるっきり色素に見放されたかのように白い。細く長い四肢は、彫刻のような美しさを持ち合わせていた。
「……なに……?」
 淡いピンクの唇が開き、鈴の音のような声が漏れた。銀青色の瞳が歪む。不安げに、宙に手を伸ばし、彼女はもう一度呟いた。
「なに……?」
 まとわりつく空気の不快感に、彼女の喉は唾を飲み込み上下した。


 ――夜。
 言われた通り、エリスたちは夜になって再びあのタヴァンを訪れた。
「よう。早かったな。お嬢ちゃんたち」
 扉を開けてすぐ、奥の席から手を振ってくる大男の姿を見つけ、エリスは深い嘆息をついた。
「んーだぁ? いーい若い嬢ちゃんがため息なんざついて。不景気だなぁおい?」
「……や、もう、どうでもいいけど。――で? 来たわよ、お望みどおり。それで? 理由は?」
 エリスの問いかけに、ジークは太い笑みを浮かべたまま、すっと視線を窓の外に投じた。
 相変わらず暑い――とはいえ、夜になって多少は涼やかな風が吹いているロストックの夜景。特に変わったところはみられない。
 それを見ると、ジークは視線を戻して肩をすくめた。
「――ちと早すぎたかね。まぁ、少し待て。他の奴らならともかく、お嬢ちゃんならすぐ気づくさ、時がくれば、な」
「……どういう意味?」
 思わず眉根をひそめる。ジークはにやにやと笑いながら、唇を開いてきた。
「お前さんなら判るってことさ。確実に、な。――エリス・マグナータ?」
 半ば以上反射的だった。剣に伸びた右手を、意志の力でぎりぎりで抜くのだけは止める。フルネームで呼ばれて、良いことがあったためしがない――最近は特に、だ。
 そもそも名乗らなかったはずだ。家名のほうは。すでに名乗れる立場でもないのだから。
 睨みあげる。隣のアンジェラの気配も、緊張の気を帯びている。いや、アンジェラだけではない――ゲイルも、ドゥールもだ。一人だけプレシアがきょとんとして目を瞬かせていたが、こちらの緊張が伝わってしまったのだろう。他のテーブルについていた数人の客までもが、沈黙してしまっていた。柳眉が上がるのを自覚して、エリスは強張った声を発した。
「……その名前を、どこで聞いたの」
「あちこちで、さ。俺は案外物知りでね、お嬢ちゃん」
 ひょいと肩をすくめ、ジークは笑った。
「だいたいだ。お嬢ちゃん、もうちっとばかし自覚を持ったほうがいいぞ? 赤髪赤眼の黄色人。そうそういる風貌じゃねえわなぁ? それに加えてエリスって名前に、そのペンダント。おまけに言葉は――あんまり詳しくねぇが、西部のスタンダードアクセントって所だろう? これだけ情報がありゃあ、ほんのちょいと神話やら伝説やらに興味があって調べてる人間なら、誰だって気づくさ」
 不快な――暑い空気を無理やり飲み込んで、下唇を噛む。きつく視線を投げてみるが、ジークはものともせずに続けた。
「――セイドゥール帝国の騎士家系、マグナータ家の長女、エリス。ルナ大陸の女神の使者、月の者。……だろ?」
 ざあっと血の音がこだました。耳の奥底で、聞こえる不快音。我知らず閉じていたまぶたの裏で、ちかりと赤い光が反射したような錯覚を覚え――エリスはひしゃげた声を絞り出した。
「……それが、何の関係があるの」
「お前さんなら、判るってことさ。月の者?」
「――それが何の関係があるって言うのよ!」
 声を荒げると、びくりとプレシアが驚いたように身をすくめるのが見えた。だが、声は止まらなかった。自分でも、判らなかった――何故、こんな悲鳴じみた声を、自分はあげているのだろう?
 喉が、痛みを訴えかける。
 言葉が、吐き捨てられる。
「あたしは、たしかにエリスよ。マグナータ家の長女。月の者。だけど、そんなものはどうでもいいの。エリスよ。あたしは、ただのエリス。ただのエリスって人間よ!」
 ただ、叫んでいた。
「マグナータの名前は捨てた! 月の者なんて関係ない! しったことじゃないわ、どいつもこいつも、そんなの、勝手にすればいいじゃない!」
 肺に息がなくなって、エリスはそこで言葉を止めざるをえなかった。ふと、その頃になってようやく、アンジェラが心配そうな目で覗き込みながらこちらの手に触れていることに気づく。白い手を握り返し、エリスは頭を振った。
 顔が火照っている――それだけは、自覚する。何を吐き捨てたのか、それは判らなくなっていたが、ただ顔が火照っているという事実だけは受け入れる。
 嘆息すら、つけずに――肺の空気が足りなかった――エリスはもう一度かぶりをふった。
「エリス、ちょっと……?」
「ごめん……なんでもない」
「なんでもなくないわよ。エリ――」
「ごめん」
 アンジェラの言葉を遮り、細い手を解く。少しだけ視線を上げると、そろいもそろって驚いたように目を丸くしているゲイル、ドゥール、ジークの顔が見えた。見えた、と思った次の瞬間には、すでに視線を外して背を向けたので、詳しくは判らなかったが。
 そのままエリスは背で言葉を発した。
「――ちょっと、頭冷やしてくる。忘れて」


 今宵の月は、まだ昇ってはいない。薄い雲が、空を覆っているだけだった。
 このタヴァンは、街の高部にあるらしい。見下ろすような形で、エリスはロストック地区の街並みを視界に入れた。夜にまぎれ、複雑に入り組んだ街並み。静かな風景。
 直接的な熱源――太陽――がないせいだろう、昼に比べずいぶん涼しい。最も、まだ時期としてはおかしい程度だが。
 夜風に流されそうになった赤髪を手のひらで抑え、エリスは鼻から小さく息を漏らした。
 地面に直に座り、膝を抱き寄せる。夜露が肌をぬらすのが心地よく感じた。
「……なに、やってんだか」
 名前を知られていた。それだけだ。それだけなのに――ひとりでパニックを起こしたように喚いてしまった。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
 実際、ジークの言う通りなのだろう。自覚するべきだ。マグナータの名前は、月の者という特殊な存在は、それだけでも充分人の耳に残りやすいのに、それが二つ重なった状態では、目立つことこの上ないだろう。
 おまけといわんばかりに、赤髪赤眼という風貌。こればかりは、ある意味で仕方がないのだが、それにしたって、と思わずにいられない。
 月の者には、色素異常という特色が付きまとうのだ。
 何故かは、判らない。一説には、月の者としての能力の大きさが、身体に影響を及ぼすためだとも言われているが、定かではない。だが理屈はどうあれ、過去に『産み落とされた』月の者たちは、例外なく色素異常という特色を持っていた。エリスの赤髪赤眼も、それだ。
 絡まった髪を、数本引きちぎる。頭皮に僅かな痛みが走るが、それすら心地よく感じた。気分が落ち着かない。
「エリス」
 背後から声をかけられ、エリスは肩越しに振り返った。
「……アンジェラ」
 エリスと同じように、夜風に髪をなびかせたアンジェラが立っていた。エリス自身と違うのは、抑えようとしていないところだろうか。代わりに、肩のショールを引き上げ、微笑んでいる。
「隣、いい?」
「いいけど、濡れてるよ。夜露で」
「かまわないわ」
 アンジェラはそう言うと、躊躇いもなく左隣に腰をおろした。視線は、真っ直ぐに前――ロストック地区の夜景にある。揺らぐことすらしない、アメジストの瞳。
 酒場からのざわめきと、虫の音。時折聞こえる風の音――そして、アンジェラの息遣い。それだけが、しばらくエリスの夜を制した。他には何もなく、アンジェラは一言も喋らず――そうやって、数分が経過した。
「頭、冷えた?」
 ふいにアンジェラの声が笑みを含んだ言葉を呟いてきた。
 思わず浮かぶ苦笑の中で、エリスは小さく頷く。
「……なんとかね。暑いけど」
「まーね。……ね、エリス」
「ん?」
「――マグナータの名前を捨てたって、本気で言ったの、あれ?」
 言葉と同時に、アンジェラがこちらを向いてきた。思わず意味もなくぎくりとして背を正す。確かに、そう言った――ような気もする。
「……ねぇ? 本気で、言ったの?」
「……あの時は、半ば勢いで。でも――」
 本音を吐き出すのは、多少なりとも勇気が要った。だが、嘘をつくのだけは、耐えられなく、エリスは呟いた。
「……言ってから気づくことって、あるよね。そんな感じ、かな。本気になったよ。あたしは、そう、マグナータの名前を捨てたんだと思う。あの日に」
 あの、家を出た夜に。
「……そう」
 トーンの低いアンジェラの声に、小さく身じろぎした。
「……ごめん。アンジェラ。あんたの知ってる『エリス・マグナータ』はもういないってことになる、のかな」
「……なに馬鹿なこといってんのよ」
 アンジェラが、苦笑したまま言った。
「馬鹿ね、エリス。私が知っているのは、あんたよ。エリス。あんたは、あんたでしょう? 私の知っているエリスは、ただのエリスよ。名前なんて関係ないわ」
「……ありがと」
 目を細め、頷く。そうありたい。そうであって欲しい。少なくとも、アンジェラにはそう思ってもらいたかった。大きく、息を吸い込む。少しばかりの酒の臭いが、鼻を突く。ゆっくりと、吐き出す。ため息ではない――深呼吸。
「それに――……」
 アンジェラが、躊躇いがちに口火を切った。視線で促すと、肩をすくめ、
「……こんなこと、本人に言うものじゃないんでしょうけれど。私は、嬉しいの。あんたがマグナータじゃなくなったって言うなら」
「……」
 どう答えていいのやら判らず、エリスは再び顎をあげて夜の街を見た。静かな街並み。
 アンジェラは、こちらを見てきた。そして、すっと細い指でエリスの目じりをなでた。
 左目じり。そこに――よほど注視しなければ判らないほどの、薄い傷跡がある。
「……この傷、消えないわね。もう」
「そうだね。でも別に、目立つ傷じゃないから」
「そういう問題じゃないわよ。……こんな顔の傷が、実父につけられたものなんて、誰が信じるかしらね?」
 その言葉に、思わず深い苦笑を漏らす。事実だった。
 エリスの実父、マグナータ家当主は、娘に対して愛情を注ぐことは――なかった。いや、生まれた頃はまだ可愛がっていたのだろう。だがエリスが成長するにつれて、その奇妙な風貌に、異様なまでの身体能力に、恐れをなしたのかなんなのか――酷くあたるようになった。日常のように繰り返された暴力。その結果として残った傷のひとつだった。
「……私ね、お母様に何度も頼んだのよ。エリスと一緒に暮らしたいって。エリスをこの家の娘にして、って」
「そんな無茶言ってたんですかあんたは……」
「あら。お母様だって半分くらい乗り気だったわよ?」
 あっけらかんと言うアンジェラに、小さく頭を抱える。確かに、ライジネス夫人――アンジェラの実母であるリディアなら、そう言いかねない。穏やかで優しい女性だったが、どこかずれていた。
「……まぁ。ね。無理だったんだけど」
「いやそれはあたりまえだから。黄色人種を養女なんかに迎え入れたら、男爵位剥奪されかねないじゃん。つーかそれ以前の問題。いろいろ」
 セイドゥール帝国では、爵位を与えられる貴族は、純白人のみに限られていた。マグナータ家も、そのせいで爵位はない。代々騎士家系としてセイドゥール帝国につかえてきたおかげで、領土もあり末端の貴族として名は連ねられているが、爵位持ちとその差は大きい。
 実際なら、アンジェラとこういう関係にもなりえないのだ。アンジェラの家族が暖かかったからこそ、こういう関係になれた。それだけだ。
「――私、それ大嫌いだけどね。まぁともかく、よ。あんたがマグナータじゃなくなったってことは、私は嬉しいのよ。私は、あんたはあんたでいて欲しいから」
「……」
 軽くまぶたを閉じる。そんなことは、実を言えばどうでも良かった。マグナータ家のなかでの傷みには、すでに慣れていた。痛みから逃げるなどは、どうでもよかったのだ。ただ、マグナータという名前の鎖から逃げたかった。それだけだ。アンジェラの思いとは、多少ずれがある。
「そう、いえば。……リディアさまもライジネス男爵さまも、ご心配されてるだろうね。あんた、ちゃんと言ってきたの?」
 今度はこちらから声をかけると、アンジェラは慌てたように視線を外した。震えるような小声で、言ってくる。
「……ちゃんとは、話していないわ。手紙をかいてきたの。……お母様なら、きっと理解してくれるはずよ」
 声に含まれる痛々しさに、エリスは思わず下唇を噛んだ。
 いくらリディアでも、納得は出来なかったはずだ。深い心配を抱いているだろう。だが、それでも――ここ、数日でも、追っ手のひとりもないのを見ると、無理やりにでも納得したのかもしれない。マグナータ家からの追っ手がないのは当然だとは思えた。常に、あの家で自分は厄介者だったのだから、いなくなってせいぜいしているはずだ。だが、アンジェラはそうではない。
 それなのに、追っ手がない――それが、答えなのかもしれない。
 彼女なら、やりかねないとも思えた。何よりも娘の、アンジェラの意思を常に尊重してきた彼女なら――……
「……ごめん」
 弱く、謝る。
「ごめんね。……付き合わせて」
「謝らないで。これは、私が決めたことよ。私が自分で、エリスに付いてきた。それだけよ」
 毅然とした声で、アンジェラは告げた。アメジストのきらきらとした瞳で、こちらを見据えていってくる。
「それに、ずっと言われてたわよね。私たち、まるで姉妹みたいだって」
「……? うん」
 見た目は全く似ていない。だが、周りからはよくそう言われた。何をするにも常に一緒だったせいだろう。
「ずっと一緒だったわよね、今まで。私が生まれてから、ずっと。だからね、きっとこれからも一緒なんだと思う」
「……腐れ縁って奴?」
 言うと、アンジェラは屈託のない顔で笑った。
「腐れ縁で、親友で、幼なじみで、ライバルで、姉妹よ」
「……よく言うよ」
 つられるように、笑みを浮かべる。
 風が流れ、空にかかっていた雲もともに流れた。星明りが、ささやかに、けれど強く瞬いている。まだ少し暑い空気を肺に送り込む。爽やかとはいい辛いが、それでも胸が透くような感触があった。
「本音を言うわ、エリス。確かに私、今は辛いの、少し。お母様やお父様のことが、本当に気がかりだから。けどね、付いて来て良かったって、これも本音よ」
「……アンジェラ」
「何が起きていると思う? 判らないことだらけで。ゲイルやら、ドゥールやら、ダリードくんやら、ジークやら。みんな言うわよね、ことあるごとに。魔女、月の者、って」
 アンジェラは、軽く嘆息のような息をつくと、髪をかきあげた。挑むように顎をあげ、そこにはない月を睨むかのように、夜空を見据えている。
「――怖がられるのには、慣れていたつもり。魔女だから、怖がられるって言うのにはね。だけど、魔女だから狙われるってのには、慣れていないわ。ねぇ、エリス――」
 視線が、交わる。
「私たちって、何者なのかしらね。あんたはエリス。私は、アンジェラ・ライジネス。それ以外に、意味はあるの? ないわよね。それなのに、どうしてこんなことになっているのかしらね……」
 そうだ――深く、同意する。そうだ。それ以外の意味なんて、ない。それ以外の意味なんてないと、そう思いたい。
 マグナータの名前も要らない。月の者という立場も要らない。何もかも要らない。必要ない。なのに、出会う人全てが、エリス自身ではなく、アンジェラ自身ではなく、立場を求めてくる。それが、ひどく不快だった。
 願ったものは、ひとつだけだ。自由になりたい、ただそれだけだ。
 それは――そんなにも、贅沢な望みなのだろうか――?
「……まぁ。ね。このまま、逃げるのは癪だから、とことんまで、相手してやるつもりよ、私は。とことんまで、あんたについていって、事態を見極めてやるわ」
 言うと、アンジェラは立ち上がった。軽く笑みを浮かべ、こちらを見下ろして――ふと、囁いてくる。
「だから、さ。……おいてかないでね」

 おいてかないでね。

 その言葉を最後に、アンジェラはタヴァンへと足を向けた。 
 後姿がタヴァンの中へ消えるのを確認してから、軽くまぶたを閉じる。
 常に強気で、前を向きながら、アンジェラは時折ふと弱音を漏らす。今のように。その時の彼女の瞳に浮かぶ色を知っているのは、自分と、アンジェラの実母リディアだけだろう。彼女は、弱音をみせることはほとんどしない。
 だからこそ、思う。守ってやりたい、と。
 あの柔らかな笑みを、守ってやりたいと思う。
 きゅっと、ペンダントを握った。異様なまでの身体能力は、月の者としての特徴のひとつだった。気に入らないとも思う。だけれど、それで彼女を守れるのなら――もっと、強くなりたい。そう思う。
 守るために。強くなりたい。
「……おいてくわけ、ないじゃん」
 穏やかな苦笑と共に、エリスは呟いた。
 立ち上がり、もう一度だけ街を見下ろす。静かな夜だ――それを確認すると、体の向きを変えた。
 そのときだった。


 音は、なかった。
 何の音も、なかった。
 だが、唐突に――急激に、肌がちりつくほどの熱気と共に、視界が紅く染まった。


「――!?」
 慌てて振り返る。何が起きたのか、一瞬理解できなかった。
 眩しいほど、視界が紅く染まり――息が出来ないほどの熱さがあった。
「……なに、これ……」
 熱い――それなのに、体が震え始めているのをエリスは自覚した。
「なんなの……!?」
 振り返った視界の中――たった今ままで、静かに佇んでいたロストック地区の夜景は、真っ赤に染まっていた。


 ――炎によって。






 街が、燃えていた。 


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