第三章:It is a wish to a star――願いかけた短冊


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 逃げるべきか、行くべきか。それを考える時間はあまりにも短すぎた。
 女神ルナの呼びかけ。
 ――四竜に出会えよ。
 あの少女――ミユナの言葉。
 ――もし四竜に会いたいのなら、グレイージュ公国に来い。
 本当は、そんなものどうでもよかった。女神なんて知ったことではない、と無視をして、できることなら何も考えないでいたかった。
 だが、事態はそれを許してはくれなさそうだ。
 もやもやした気持ちは、結局行くしかない――その結論に達し、それが胸にしこりを残している。
 ジェリア・シティ――ストレイツァ王国からグレイージュ公国へ抜ける一本の街道。いや、途中で街道が入り混じっていて名前もかわっているので、一本とはいえないかもしれない。ともかく、その街道のひとつ、ギゼン街道――別名古城街道を進み、はや数日が過ぎた。だが、ダリードの襲撃はいまだない。焦りと、不安が日数を重ねるごとに募っていった。
 それに、慣れない旅路は、エリスは無論、エリスより基礎体力の少ないアンジェラには相当堪えているらしい。乗り合い馬車を使っているとはいえ、疲労はたまるものだ。今日も、宿に入るなりすぐに寝入ってしまった。
 硬いベッドの上、一度寝返りを打つ。
 窓からは、月明かりが注いでいた。無機質なその光に照らされ、隣のベッドのうえ、眠っているアンジェラの姿が浮き上がる。
 若干顔色が悪い。月明かりの蒼白い光のせいだけだとは、言えなさそうだ。
(……ごめん、ね)
 無茶をさせている、強くそう思う。アンジェラは弱音のひとつも吐かない。もちろん、疲れただの休ませてだのといった普段どおりの『わがまま』は言うのだが、その回数も俄然減っている。理由は判っていた。
 元々アンジェラは人見知りをするタイプだ。わがままではあるのだが、慣れ親しんだ者にしか本当のところを話す事はない。
 ようするに、ゲイルやドゥール、ジークといった面子にまだ心を開いてはいない証拠だ。
 そして、これがアンジェラの疲労をさらに深くしている原因でもあると見えた。
 ただでさえ慣れない旅路で体力が磨り減っているというのに、ゲイルたちのやりとりは、時に殺気じみた言い争いになりかねないのだ。好戦的なジークに幾度か注意を促してみたものの、取り合ってはくれなかった。ただそこにいるパーティが、非常に心地わるいのだ。精神的な疲労は計り知れない。
 精神的な疲労と、肉体的な疲労と。
 それがアンジェラにとって――自分自身にとっても――良いことでないのは判りきっていた。
 そんなアンジェラに、まさか相談できるはずもない。
 ぐるぐるとどうどうめぐりを繰り返す思考を、結局エリス自身もてあまし気味で、ベッドに入ってもなかなか寝付けない――そんな夜がもう数日続いていた。
 ダリード。
 女神ルナ。
 四竜。
 また、その単語に思考が行き着く。
 軽く嘆息を枕に吸わせてから、一度瞳を閉じた。
 四竜。
 昔の知識を記憶の底から引っ張り出す。
 まだ、ルナ大陸がルナ大陸ではなかった頃、全大陸ヒュージというひとつの大陸だった頃、世界には竜と呼ばれる存在が多数いたという。
 巨大な身体に、天空をかける翼。火や氷を吐く口。高度な知能をもち、圧倒的な生命力を持つ、そんな存在が。
 竜と呼ばれしものは、だが大陸が四つに分断されたとき、何らかの作用でほぼ絶滅したという。
 残った竜は、四匹。白竜、赤竜、黒竜、蒼竜。四竜と呼ばれしその存在は、ルナ大陸にて生きているという。実際に、それを証明するかのような伝承はいくつか残っている。
 例えば――そう、今エリスたちが向かおうとしているグレイージュ公国にも、だ。
「……四竜、か」
 嘆息と共に、小さな呟きを漏らす。ベッドの上に起き上がると、質のわるいスプリングのせいか、きしきしと小さな音がした。
 アンジェラは良く眠っている。
 隣室にいるはずのゲイルたちも眠っているのだろう。ちりり、と虫の音だけが窓の外から聞こえてくる。
 もう時刻は真夜中すぎになっているようだ。
 それでも――眠れない。
「……空気でも、吸ってこようかな」
 軽くかぶりを振って、エリスはベッドを抜け出した。


 涼やかな風が吹いている。
 虫の音だけが心地よく耳を刺激して、細く、低い位置にある月が、煌々と光を大地にそそいでいた。月明かりに伸びた自らの影を引き連れて、ゆっくりと宿の裏の空き地へまわる。
 あまり手入れらしい手入れはされていないらしい。刈られていない雑草が、夜露を含んでズボンに小さな染みをつくっていた。
 大きく息を吸う。
 早朝の空気もそうだが、人いきれの全く混じっていない新鮮な空気というものは、それだけで清涼な味を帯びているように感じた。
 数度深呼吸を繰り返すうちに、目は冷めてしまったが、同時に混乱した脳は休まっていった。
 ぼんやりと、歩く。
 ふいに、大地が途切れていた。崖になっているらしい。眼下には、私有地なのだろう、割と手入れのされた林が見える。
 足を止め、見下ろす。月がつくった自分の影が、木々の葉にかかるのが不思議に思えた。
 割とたかい。身体が軽く震えて、エリスは少しだけ苦笑を漏らした。高所恐怖症の気があるのは、昔からだ。
 ――と、そのときだった。
 がらっと小さな音が聞こえた。
「!?」
 体を支える何かが、ふいに途切れる。
 一瞬の浮遊感。
 反射的に手を伸ばすと、ずりっと擦りむいた。
 悲鳴が喉の奥で弾けそうになった。

 ――ガララッ!

 石が、自分と一緒に落ちてくる。
 ――崖から落ちたのだと、エリスが気づいたのはその時になってからだった。


「いったぁ……」
 自らの呻き声に、言葉とは裏腹にほっと安堵の息を漏らした。とりあえず――生きてはいるようだ。
 とっさに体を支えようとしたのが良かったのだろう。おかげで手のひらは皮がむけ血まみれになってしまったが、なんとか死にはしなかった。
 ぐらぐらとめまいがする。頭を打ったつもりはないが、判らない。手の甲で額を拭う。冷や汗。血はついていない。それでも軽い脳震盪は起こしてしまったらしい。すぐには立てそうもなかった。
「……落ちた、んだよね」
 なさけない――と、嘆息が漏れた。睡眠不足と不注意が招いた結果だろう。ずきずきと痛む身体をごまかしながら、背後を振り返る。
 壁のようにそり立っている崖を見上げて、再び軽いめまいがした。よく生きていたな――と、どこか間の抜けた感心すら持ってしまう。
 数メートルは落下したようだった。途中、とっさに幾度か手近な岩だの木だのをつかんだおかげで、一気に落ちはしなかったので、死なないですんだのだろう。両手のひらは酷く痛んだが、命の代償だと思えば高くない。
「……ともかく、帰んなきゃ」
 呟いてから、ふと気づく。――どっちに行けばいいのか、判らない。
(……)
 思考が一瞬ストップした。もう一度背後を見上げて、さらにどうしようもない気持ちになった。
 本当に、こっちから落ちてきたのか、わからない。
「……うわぁ、最低……」
 迷子、になるのかもしれない。動かないほうがいいのだろうが、真夜中にこんな場所にいたのでは、危なっかしいことこの上ない。諦めて、何とか道をさがすことにする。痛む身体をごまかし、ずれた足を寄せて膝をつく。ぐっと力をこめ、立ち上がる。――立ち上がろうと、した。
「っ……!?」
 瞬間、急激な痛みが身体の芯を貫いた。立ち上がろうとしていたエリスは、その場に転倒した。濡れた地面が気持ちわるい。
 引きつるような痛みが、ゆっくりと引いていく。それでもまだ残っている痺れのような感覚に、軽く混乱した。
(なに……?)
 もう一度、ゆっくりと立ち上がろうとして、再び痛みが襲い掛かってくる。立ち上がれず、結局座り込んだまま、足の力を抜いた。そして、気づく。
 ――右足首、だ。怪我をしてしまったらしい。立ち上がれない。
 思わず浮かぶ冷や汗を拭い去り、そっと手を滑らせてみた。響くような痛み。骨は折れてはいないようだが、どうやら捻挫でもしてしまったらしい。
(まずい……)
 こんなところで動けないようでは、どうしようもない。左足だけで動くには、あまりにも距離的な問題がある。大体、ここがどこなのか、宿へ帰る道はどっちなのか、それすらも判らないのだ。
 どくどくと鼓動が速くなる。どうすればいいか判らない。添え木でも当てて処置をしようにも、添え木になるような枝すら手近にない。パニックに近い衝動を落ち着けようと、空気を吸う。夜気は冷たく、土の匂いが濃い。だが、上手く吸えない。深く吸えず、浅い呼吸にしかならない。思考がぐるぐるとまわる。どうすればいい、どうしようも、ない――?
「……ッ!?」
 混乱した頭が、一瞬にして覚醒した。
 それに、気づいたのだ。それ――闇のなか、かすかに聞こえる唸り声に、だ。
 血の気がひいていくのが自分でも判った。泣き面に蜂――まさに、この状況がそうだろう。自業自得だ。判っている。けれど、どうすればいいのかは判らない。
 息を詰め、半ば無意識のうちに腰に手を回す。そして、愕然とした事実に突き当たった。剣なんて、持っているはずがない。宿に置きっぱなしだ。ほんの少し夜風にあたろうとしただけなのだから。
 丸腰だった。武器はない。それだけならまだしも――怪我をして、動けない。
 低い唸り声が、近づいてくる。きつく地面についていた左手が、かすかに震えていた。それを自覚してから、歯噛みする。認めるしかない。自分は――恐れている。
 目を細めた。唸り声は、複数。足音はほとんどしない。息遣いが荒く、だが、人間のそれとはタイミングが違うことには気づいていた。人ではない。魔物か――野生の動物か。どちらにせよ、この状況じゃ末路は見えていた。唇を噛む。震えによって、小さく音を立てる歯を、かみ締める。静まれ――そう、念じながら。
(……死ぬ――?)
 その二文字が、残酷なまでのリアリティを持って脳内に浮かぶ。心臓をわしづかみにされるような痛みが走った。その瞬間、木々の陰から同時にそれはあらわれた。
 ――目を見開き、餌を求め、唾液を垂れ流しながら、牙を月明かりに光らせている。
 野犬――だった。野犬が、三匹。エリスの前方と、左右から、まるで半円でも描くような形で、同時に出てきたのだ。
(――!)
 全身が総毛だった。血液が逆流するような感覚。呼吸を止め、エリスは目の前の一匹を睨みつけた。震えが、来る。
 野犬はまだこちらを警戒している。低い唸り声を上げながら、徐々に近づいてきている。だが、まだ警戒を解いていない。逃げられないのなら――追い返すしか、ない。
(――帰れ!)
 強く、強く念じる。気の力で追い返すしか、エリスに残された道はない。だからこそ、強く念じる。帰れ。立ち去れ。いますぐに――!

「……何をしている」

(――!?)
 念じ、練り上げた気が一瞬にして霧散した。冷水を浴びせられたかのように、身体が硬直する。無理やり、首を声の方向へ向けた。右だ。野犬の、向こう――
「……ダリード……!」
 悲鳴が漏れた。


 林のなか、無造作にたたずむ姿。身長はあまり高くはない。月明かりに照らされ、静かに光を反射する銀色の髪。褐色の肌と、すんだ黒瞳――
 ダリード。
 彼は、躊躇いもなくこちらに――野犬と、自分のほうへ向かってくる。ぐるるっ、と唸り声が高くなった。警戒がこもった野犬の視線をものともせず、ダリードはこちらに近づいてくる。
 殺される――!
「それ以上近づくなッ!」
 牽制しようと、声を荒らげてエリスは叫んだ。だが、牽制とはいえない。それはすでに悲鳴じみた声音になっていた。いや、実際悲鳴だったのかもしれない。もはや、自分ではその判断すらつかなかった。
 しかしダリードは、その言葉など聞こえなかったかのようにさらに数歩、こちらに向かって歩いてきた。野犬の数歩手前で、足を止める。
 三匹の野犬が、唸り声を高くした。彼はその野犬を睨みつけ――その瞬間、ざわっと音を立てそうな勢いで、エリスの肌が粟立った。
(――殺気……!)
 ダリードの出す強烈なまでの殺気。息をすることすら忘れ、エリスはただその成り行きを見守るしか出来なかった。
 数秒、彼と野犬たちの視線が噛みあった。
「……行け」
 静かな声音。風が流れた。
 どくん、どくん、と鼓動が時を刻む。十回ほどその音を聞いた次の瞬間には、野犬たちは揃ってきびすを返し、林の奥へと駆けていっていた。
 殺気が、途切れる。
「……な、んで……」
 意図せず、唇が音をつむいだ。
「――動物は人間ほど馬鹿じゃない。自分より強いものに歯向かいはしない」
 感情の入り込んでいない声が、答えてきた。ダリードだ。彼のその澄んだ瞳と、視線があった。緊張に、肩の筋肉が硬直するのが判った。だが彼は、躊躇う素振りすら見せず、無造作にこちらに歩み寄って――
「……るな!」
 音にならなかった。もう一度、息を吸い、何とか声を出す。どうすれば言葉が音になるのか、よく判らなくなっていたが、それでも口を開いた。
「……くるなっ! るな、来るなあっ!」
 この際、折れても構わない。後で歩けなくなったって、構わない。混乱した脳がそんな言葉を次々と吐き出し、エリスはそれに従うかのように、立ち上がろうと無理やり足に力をこめた。逃げなければ。逃げなければ、殺される。殺される!
 だが――それは、一瞬の出来事だった。
「……動くな」
 再び、静かな声音。同時に、肩に触れる手の感触。
「……っ!」
 一瞬で、間合いをつめられた。悲鳴が喉の奥で弾ける。
 次の瞬間来るであろう死を覚悟して、きつくまぶたを閉じた。だが、肩に触れられた手は、続く動作で、ゆっくりと――場違いなほど丁寧に、エリスの右足首をなでた。
(……え……?)
 思わず呆然として、目を開ける。目の前には、ダリードの顔があった。自分を狙ってきている、敵の、だ。だが、彼は地面に膝をつき、僅かに顔を下に向けながら――
「……どう、して……」
 かすれ声が漏れた。状況が理解できなかった。
 何故――?
 何故、彼は。ダリードは。自分を狙ってきていたはずの少年は。
 ――自分の足の応急処置をしてくれているのだ――?
「……こんな所でのたれ死なれては、後の楽しみがなくなるからな」
 動けなかった。どうすればいいのか判らなかった。どうなっているのか理解できなかった。ただ、呆然と、彼の手の動きを見つめるしか出来なかった。
 彼は手近な木の枝を折ると、それを添え木代わりにエリスの足に当てた。その上から、ハンカチかバンダナか、正方形のそれを取り出すと、丁寧に、それでいてすばやく巻いていった。
「……これでいいはずだ」
 淡々と、それだけを言うと、ダリードは立ち上がった。何事もなかったかのように、林の奥へ歩き出し――
「……待ちなよ!」
 反射的に、エリスはその背へと声をかけていた。
 少年の足が止まる。エリスは混乱した頭のなかで、それでも尋ねた。
「……あたしを、殺すんでしょう? 何で、殺さないのよ」
 何故、助けた――?
「……怪我人につけこんで襲うのは、プライドが許さない」
 少年の背は、そう言葉を発した。感情の全く読み取れない音だった。
「――この崖に沿って右に行け。上へ続く道がある」
 ドゥール以上に、感情の読めない声だ。そう思った。そう思った次の瞬間には、ダリードは再び歩き始めていた。月が雲間に隠れたらしい。光源がなくなり、彼の姿は、濃い闇の中へ――
「……ダリード……くん」
 声が、知らずに漏れていた。
「……その。……ありがとう」
 馬鹿げている――そんな声が、頭の中でした。だが、意識とは裏腹に、言葉はすでに音となって口をついていた。
「勘違いするな。お前を殺すのは、俺だ」
 風が吹いた。木々の葉が鳴り、月にかかっていた雲が流れる。ひとつ、人影が浮き上がる。再び降り注ぐ月光の下、少年は立っていた。
 こちらを、その澄んだ瞳で見据えながら。
 少年は、告げた。
「――俺が殺すまで、死ぬのは許さない」


 ダリードはその言葉の後、振り返りもせず歩いていった。
 しばらく呆然としていたエリスは、それでもやがて立ち上がった。――立ち上がることが、出来た。痛む右足を若干引き摺りながらも、言われた通り崖に沿って右に進んでいった。


 宿についてみると、アンジェラは、よく眠っていた。
 彼女を起こさないように、隣のベッドへと身を投げる。
 深く、深く、嘆息を漏らす。まるで今まで呼吸を忘れていたかのように、それは長く続いた。緊張がほぐれ、急速な睡魔が襲ってくる。
 寝返りをうつと、ぎしりとベッドが僅かにきしんだ。枕に顔を深く埋める。
 少年の澄み切った黒瞳が、交じり合った視線が、脳にこびりついていた。
「……わけ、わかんないわよ」
 手当てされた右足首の痛みが、酷く心地悪く思えた。
 ――窓の外では、月が何も言わずに輝いている。
 朝焼けは、まだ少し、遠い。


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