第七章:Dear my best friend――約束の手紙


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 黒竜遺跡に入るとすぐ、ミユナが大きく息をついた。
「すげぇな……」
 その言葉に、エリスも頷く。
 崩れている部分が多いとはいえ、内部の装飾のその緻密さは、息を呑むばかりだった。
 細かな彫刻の施された、美麗でかつ巨大な何十本もの柱。壁面には神話をモチーフにした絵が描かれている。
 何よりも驚いたのは、エリスたちが歩むその動きに合わせて、壁際のランタンにぽう、と明かりが灯っていくのだ。
 ランタンと言っても、無論の事ながらすでに元になる燃料は入っていない。いや――元から入っていた様子もない。ただの硝子の入れ物が壁にかけられている、と言ったほうが感覚的には近いかもしれない。手のひらほどの、無機質な硝子球。それが、エリスたちの歩みとともに淡く光を放つのだ。
 一歩進めば、前方のランタンがひとつ灯り、後方のランタンがひとつ消える。歩むスピードにあわせ、光がついてくるのか――先行し、道を照らしてくれているのか。どちらともつかない、まさに共に歩く光の道しるべ。
「どうなってんだろ、これ」
「足元をご覧ください」
 エリスの呟きに、前を歩いていたロジスタが微かに振り返って応じてきた。言われた通り、床を見る。石造りの床は、その表面にも細かい幾何学模様を――いや、文字を有している。
「これって」
 アンジェラが、興味深そうに声を漏らした。
「全部古代文字、なのね」
「はい。鍵文字です。つまり、地面の文字と壁のランプ――まぁ、ランプのようなもの、ですね。便宜上ランプと呼ばせていただきますが、それは呼応しているんです。ようするに、僕が今、一の文字を踏んだから、壁の一のランプが灯る。二の文字を踏めば二のランプが灯り、足が一の文字から離れれば、一のランプは消える――と」
「仕組みとしては、割と単純なんだね」
 ゲイルが感心したように言葉を漏らす。
「ええ、理論としては単純です。ですが、技術としては――現存する魔導技術では再現不可能です」
 どことなく自慢げな様子でロジスタが答える。
「古代――全大陸<ヒュージ>時代を一般的に旧時代、と呼んでいますが、旧時代には法技は存在せず、この魔術のみだったと言われています。ただし、法技と魔術には決定的な違いがあって……例えば法技は、何もない状態で発動させることは可能です。ですが魔術を発動させるには、鍵穴が必要になります」
「鍵穴……?」
 眉根を寄せ、すぐ後ろを歩いていたジークに視線を投げる。彼はひょいと肩を竦め、
「ようするに、鍵文字だ、鍵言葉だっていってんだから、鍵穴が必要だって事だろ。差し込むための鍵穴がなけりゃ、鍵はただの邪魔物にしかすぎねぇさ。AとB二つがあって、初めて成り立つ。それが魔術、だろ?」
「その通りです。旧時代では、ですから実際に『魔術師』と呼ばれる人々がいたとされていますが、彼らは今こちらの感覚で言う『法技師』ではなく『技術士』に近かったそうです。つまり鍵穴と鍵を作る人々、ということですね。誰もが作れるようなものではなかったらしいです」
 流れるような口調で説明してくるロジスタにはばれないように、エリスはそっと前髪をかきあげた。隣を歩いているアンジェラ達ならともかく、魔導の基礎知識すらおぼつかない自分では、理解しろと言うほうが無理がある。
「この『鍵』を言葉にすると、鍵言葉となりますし、文字にすれば今のように生活に応用させることができる鍵文字となります。面白いもので、特定の条件下に鍵を設定することも可能らしく、例えば特定の人物にしか開けないようにする、ということも出来たそうです。『鍵穴』になるものは、文字と図――魔術陣が主です」
 と、ロジスタが不意に足を止めた。ランプの動きも止まり、その場だけがぽうと光に包まれ、停滞する。
 振り返って来たロジスタが、少しだけ真剣な面持ちで告げた。
「僕は研究のため、何度かこの遺跡に来ています。ですが、黒竜がいるとされる塔最上階には辿り着けませんでした」
「どういうことだ」
 低い声で訊ねたのは、ドゥールだった。無言のまま最後尾を歩いてきていたドゥールが、目を細めている。
「ここまで連れて来ておいて、辿り着けない、ということか?」
「僕には不可能です」
 断言したロジスタに、ドゥールがゆっくりと、一歩足を踏み出した。
「ちょっ、ちょっと待ってください! 勘違いしないでください! 僕は不可能ですが、貴方たちはおそらく行けるはずなんです!」
 ドゥールの足が止まった。エリスたちも顔を見合わせ、わたわたと両手をふりまわしているロジスタに再度視線をあわせた。
「どういうことですか?」
 エリスが訊ねると、ロジスタはほうと大きく息をつき、服をただした。肩をまわし、一呼吸置いてから、口をひらく。
「これから、最上階へ続くとされている魔術陣へご案内いたします。そこの鍵は、言葉と、もうひとつ」
「もうひとつ?」
「ひと――『導かれし者』です」
 漏れかかる息を呑みこみ、エリスは胸元のペンダントを握り締めた。


 それから、ロジスタに案内され遺跡を進み、彼の言う魔術陣の元へと辿り着いた。
 淡く緑色の光を放つ真円の中に、細かな古代文字が並んでいる。
「何が起こるか、判りません」
 ロジスタの言葉は端的だった。魔術陣の光に顔を薄く照らされながら、静かにこちらを見据えてくる。眼鏡の奥のブラウンの瞳は、一片の揺らぎもみせてはいなかった。
「ここから先は、完全に未知の領域になりますから。極端なことを言えば、命の保証も――」
「判ってる」
 波のない平坦な低い音が、自分の口から漏れた言葉だと気付くのに、ほんの一瞬時間がかかった。隣に立つアンジェラの手を一度握り、離す。
「そんな保証なんて必要とはしていない。その覚悟は持ってるつもりだから。守りたいものは、自分で守るよ。――いいから、やって」
 足元の魔術陣が、緑色に光っている。
 ロジスタがゆっくりと首を縦に振った。
「判りました。黒竜は地を司っています。僕らガゼル部族がこの遺跡の権利を所有しているのは、僕らが大地と共に生きると言うことを掲げているからです。ただし、その僕らですら黒竜には会えません。会えるのは、導かれし者――貴方たち、だけでしょう」
「もうひとつ」
 ふいに、ミユナが口を開いた。強張ったようなその口調に疑問が浮かぶ。が、彼女はこちらの様子に気付いているのかいないのか、変わらぬ口調で続けた。
「黒竜は地を司る。そして、過去も」
「過去……」
 ミユナの言葉を、唇でなぞる。
 今度はポケットに手を入れ、指先にあたる小さな石の感触を確かめた。
 肺に空気を入れ、前を見据える。
「ロジスタくん」
 無言のまま、ロジスタは頷いた。彼の唇が、薄く開かれる。
「導かれし者、ここに来たれり。かの者たちの前へ、汝の元へ続く道を開きたまえ」
 魔術陣が放つ緑色の光が、視界を覆い尽くした。


 そして、闇が訪れた。
 知らず閉じていたまぶたを押し上げ、視界に入ってきた映像に、彼は皮肉な笑みを浮かべた。
「……過去、ね」
 石造りの壁と、小さな明り取りの窓。部屋の装飾は豪華だが、作り物めいたうそ臭さを覚えずにはいられなかった。三年間その部屋で過ごしたが、一度たりとて、そこが自分の居場所だと思った事はなかった。思えたことなどなかった。
 虚像の自室の中で、一人の男が壁に背をあずけ頭を垂れている。褐色の肌と、僅かにのぞき見えるワイン色の瞳。伸びた無精髭が怠惰感を漂わせていた。巨躯に似合わず、その男は部屋の中でとても小さく思えた。
 男――エゼキエル・アハシェロス。何年か前の、己の姿。
 うな垂れているジークのすぐ傍には、手付かずの食事がある。
 食べることも面倒だったあの頃。何もかもに希望を見出せなかったあの頃。生きてこられたのは、彼女がいたおかげでしかなかった。
 古い映像を見下ろしながら、ジークはきつく眉根を寄せた。
(……イヴ……)
『ジーク、ごはん食べた!?』
「っ……!?」
 ふいに思考に割り込んできたその声に、ジークは目を見開いた。早まる鼓動をどうすることも出来ず、震えだした足を叱咤して振り返る。
 そこに、彼女がいた。
 肩までかかるほどの艶やかな金の髪。鮮やかな青の瞳は、小さな窓から見える空の色と同じ、優しさを閉じ込めていた。歳の割に、若干子供っぽい仕草が多かった気がする。今もそうだ。小さな細い体を大きく見せようとしているのか、腰に手を当てて胸をはっている。
 気に入っているからといって、室内でも淡いピンクの帽子をいつもかぶっていた。何度か馬鹿にするように笑ったら、いつも拗ねて横を向かれた。その横顔が好きだった。
 今は若干怒ったような表情を見せているが、あまり似合ってもいない。垂れ目で、顔立ちは大人しく見えるのだ。それでも、その表情も好きだった。ころころとよく変わる彼女の表情だけが、その頃の楽しみだった。
 その彼女が、そこにいた。あの頃と一分も変わらない姿で、そこに立っている。
 名前を呼ぼうとしたのだ。呼びなれた、呼びなれていたあの名前を。
 だが、喉が張り付いてしまったかのようで、言葉が出なかった。
 代わりにジークは、手を差し出した。触れたかった。彼女の手首の太さすら、未だに覚えている。
 だが、差し伸べた手が彼女に触れることはなかった。
『もーっ! また全然手をつけてないじゃないの!』
 ジークの体をすり抜けたイヴは、真っ直ぐに壁際に座り込むもう一人のジークへと歩いていく。
 イヴ――否、イヴの幻影。過去の、幻影だ。彼女の目に自分は映らない。もう二度と。映る事はないのだ。彼女がこの世を去ったあの日から。
『食えるかよ……』
 かすれきった声を漏らすかこの自分の目の前に、イヴが膝をついた。ワインレッドの瞳と、青い瞳が交わる。
『だーめっ! 食べるだけしなきゃ、体もたないわよ。ね? ちょっとでいいから、食べようよ』
 目を閉じた。彼女に甘えることしか出来なかったあの頃を目の前に――文字通り――つきつけられ、狂わしい程の衝動が、内部を焼き焦がしていた。
 きつく、きつく拳を握り締める。
 あの頃、少しでも前に進む勇気があれば。停滞することしかできなかったあの頃に、絶望を撥ね退ける何かがあれば、未来は――今は少しでも、変わっていたのかもしれない。
 閉じたまぶたの、揺れる闇の向こうから、しゃがれた泣き声が聞こえる。
 彼女を失ったときの、自らの声。
『イヴ……イヴ、頼む。嫌だ。死ぬな。イヴ……ヴッ……』
『ジーク』
 ゆっくりと、瞳を開けた。そこにはもう、あの頃の幻影はなく、ただ闇だけがあった。
 闇の中で、やわらかい彼女の声が聞こえてきた。
『哀しい顔、しないで……ジーク。ねぇ、ジーク』
 その後に続く言葉を思い出し、震える拳を握りなおした。
『――大好き……だよ』
「イ……ヴ……」
 唇が、彼女の名前を知らずに紡いでいた。


 栗色の髪をゆったりと結わいでいるその女が、自分に向かって笑いかけている。
 ただし、その女が見ている自分は、数年前の幼い自分だった。
『いい子ね、ゲイル』
 歳にすれば、十二、三歳頃だろうか。まるい碧の瞳に、あどけなさが濃く残っていた。
『貴方がいい子でいれば、皆が幸せになれるのよ』
『おれが……いい子じゃ、なくなったら?』
 研究室の寝台の上から、恐る恐る訊ねたその言葉は確かに、いつか自分が口にしたそれだった。
 アザレルの目が、細まる。
『そのときは、皆が死んでしまうわ』
「……」
 震えがつま先から広がっていった。だが目を逸らすことも出来ず、ゲイルはただじっと、いつかのその映像を見つづけた。
 アザレルが笑みを浮かべたまま、口をひらく。
『貴方がいい子にしていれば、何の問題もないのよ』
『……どうして、こんなことをするの』
『どうして?』
 アザレルが、小さく笑いを漏らした。
『計画よ、ゲイル。この計画はいずれ実をなすことになるわ』
 幼い自分の頭を、アザレルが撫でていた。
『――その時、この世界は本当の姿に戻るのよ』
「……どういう……意味だ」
 ふいに、映像が途切れた。
 ただ目の前には、闇が広がっている。
 その闇の中で――声が聞こえた。
『ダリードを止めなさい。そして二人を、ここに連れていらっしゃい』
 アザレルの声がした。
『行くのか』
 躊躇いがちな声は、ドゥールのものだった。
『言われたんだ。ラボの奴らを殺されたくなければ……』
 血を含んだ、ダリードの声も聞こえた。
 耳を伏せたい衝動に、だが、動くことも出来ず、ゲイルはただ立ち尽くしていた。


 唯一、外を見渡せる場所だった。ラボの屋上だけが、彼に許された外界との繋がりだった。
 あの頃、実験が終わると毎日のように外を見ていた。
 自分の背中を見つめながら、ドゥールは動くこともしなかった。
『ドゥール兄ちゃん』
 ふいに隣で声がした。視線を動かすと、今より少しばかり幼さの濃いプレシアがそこにいた。
『プレシアか。ゲイルとダリードは?』
 訊ねる自分の声も、どこか偽物のような響きだった。
『まだ実験室。ドゥール兄ちゃんは、大丈夫?』
『ああ』
 プレシアの顔色のほうが、悪いくらいだった。彼女は、ぼんやりと立ったまま空を見上げた。
『家族全員で、こんなとこでれたら、幸せなのにね』
 その言葉に答える術がないのは、あの頃も今も、同じだ。
 映像がふいに途切れ、闇が包み込む。
 いつかの、自分の声が聞こえてきた。
『どうすれば、あいつらを幸せに出来る?』
 戯言に答えたのは、ゲイルだったはずだ。遠い記憶に、霞みがかっているが。
『おれたちが、守ろう』
 ドゥールは、唇を強く噛んだ。血の味が滲むほど、強く噛んだ。
 守る術は、自らの手の中にあるはずだ。


 柔らかく降り注ぐ太陽の下で、いくつもの発光体が飛び交っていた。
 まだ丸い指先を、幼女はくるくると空中に躍らせていた。ふっくらとした桃色の頬に、満面の笑顔が浮かんでいる。
 銀青色の瞳と、きらきらと輝く銀色の長い髪。
 記憶にない。だが、それが自分の幼い頃だと、その直感だけは確かにあった。
 ミユナはその幼女をただ見つめた。
 ふいに、地面に人影がさし、幼女が顔を上げる。
『おかあさま! おとうさま!』
「……っ」
 甲高い幼女の声に、心臓が痛んだ。ゆっくりと振り返る。
 逆光になって、顔は良く見えなかった。背の高い男性と、隣に寄り添う女性の姿。
 手を伸ばした幼女を抱き上げ、男性が笑う。
『なんだ。また精霊と遊んでいたのかい?』
『うんっ! たくさんいるよ!』
 女性が、幼女の髪を撫でている。
 目を凝らして良く見たいのに、何故か視界が揺れていた。
『お前に、私の力が受け継がれるとは思わなかったよ』
 男性の苦笑を含んだ声に、幼女は幼い目に疑問符を浮かべるだけだった。
『仕方ないわ、レイス。オール・ノウズであるあなたの子供が感受性高くても仕方ないこと。そうでしょ?』
 女性のやわらかい声に、ミユナは息を詰まらせた。
「……オール……ノウズ……」
 男性が、幼女を抱いたまま芝生に腰をおろした。
 顔が、見えた。
 若干白髪の多い薄い茶色の髪に、笑い皺が目立つ目元。額に――古代文字の痣があった。
 かたかたと震え始める膝を止めることが出来ない。頬を滑り落ちる雫の理由すら、判らない。
『なんのおはなし?』
『なんでもないよ』
 幼女の問いに、男性は微笑んで首を振る。彼は首を回し、まだ立っていた女性に言葉を投げた。
『ナターシャ。ラボを抜け出して、何年になるのかな。私は。今、すごく幸せだよ』
 その言葉に、思考は全て途切れざるを得なかった。
『私もよ、レイス。カーチャがいて、ミユナがいて、貴方がいて……とても、幸せよ』
「お母様……お父様……」
 唇が震えた音を漏らす。次々と零れ落ちる涙を、どうすることも出来なかった。
 だが、ふいにその光景が途切れ、闇の中に放り出される。
 ただ、声だけが聞こえた。
 必死に涙を抑えた、姉の――エカテリーナの声。
『ミユナ、ミユナ。判って。お父さまとお母さまは亡くなってしまったの。お願い……判って……』
『いやあっ!』
 甲高い悲鳴と、泣き声にミユナはきつく目を閉じた。
 覚えて――いない。


 エリスは、ただ真っ直ぐに前を見ていた


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