第七章:Dear my best friend――約束の手紙
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目覚めるのが、怖かった。
寝具に横たわった少女を見下ろしながら、ジークは額による皺をどうすることも出来ずにいた。
グローブに包まれた右手と、素手のままの左手とを組み合わせながら、ただじっと少女のまぶたが開かれるのを待っていた。
肩に圧し掛かる空気の重さ。倦怠感。疲労感。無力感。虚無感。何でもいい――そんなようなものだ。ただし、絶望ではない。絶望では、ないはずだ。
生きている限り、絶望はない。
遅々として進まない時間を示すのは、ゲルの外から聞こえてくる風の音と、家畜たちの足音、あとは視線を時折上げれば変わっている、雲の流れくらいだった。
鮮やかに赤い髪に、血の気のない青白い頬。その少女のまぶたが、僅かにひきつる。
「っ……」
痛みに身じろぎしているのだろう。呻き声が喉からもれ、体がよじられる。ジークは咄嗟に少女の肩を抑え、床に直敷きの寝具に押し付けた。上体を起こすのは、今は危険だ。腹部の傷口に直接響く。
「う……ぁっ」
「エリス」
本当ならば、痛みを一時的にでも緩和させることのできる法技でもかけてやりたい所だったが、つい数時間前に怪我を治すための法技をかけたばかりだ。同日中に二度も治癒系の法技をかけると、逆に体に響きかねない。治癒とは言っても、実際のところ本人の自然治癒力を外的要因で無理やり高めているものに過ぎない。
結局は本人の体力しだいでもあるし、また逆に、自然治癒力を外的要因で高めつづけると、本来必要なときに働きが弱くなる可能性がある。ある意味で、危険と隣り合わせだ。
だがそれでも、苦悶の表情を浮かべ身をよじるその姿に、痛みを和らげてやりたいと思ってしまう。その感情と葛藤しつつ、ジークは再度名を呼んだ。
「エリス」
暴れていた身体が、ふいに動きを止めた。ゆっくりと寝具に押し付けると、その強張った肩から力が抜けていく。
固く閉ざされていたまぶたが、開かれた。
焦点の定まらない、赤い瞳がのぞく。
「……」
「喋らなくていい」
唇を開けて、何かを言おうとしたのだろう。だが、エリスの開いた口からは吐息しか漏れてこなかった。
「つーか、喋るな」
再度告げると、ようやく少女は唇を閉ざした。まだどこかぼんやりした表情で、天井を見上げている。その顔が、のたりとした動きで右を向く。すぐにゲルの布壁に視線がぶつかったのだろう。今度は左を――こちらを見つめてくる。
「動くな」
エリスの顔に、疑問符が浮かんでいる。顔にかかる髪を指でどけてやると、再度唇を開いてきた。
「……ク」
仕方がない、と小さく息をつく。いまいち音になりきらないその言葉を聞こうと、体勢を前かがみにし、少女の口元へと耳を寄せた。
「なんだ」
「ジーク……?」
「ああ」
頷くと、エリスの手がこちらに伸びてきた。右手で握ってやる。
エリスはまだどこかぼんやりした表情のまま、こちらを見上げてきた。こうした表情は、酷く幼く見えた。
その幼い顔立ちのまま、訊ねて来る。
「……アン……ジェラ、は?」
ひび割れた声に、ジークはまぶたを下ろした。右手を放し、嘆息を飲み込む。
素手のままの左手で、少女の顔を覆った。
「とりあえず、寝ろ」
存外素直に、少女は再度寝息を立て始めた。
ゲルの外では、乾燥した風が通り過ぎていく。
ゲルの布製の扉をくぐり出て来たジークの姿を見止め、ゲイルはゆっくりと顔を上げた。
「ジーク」
無言のまま歩を進めるその姿に、ゲイルはふらりと立ち上がった。
乾燥した大地と、その中でさえ根付く草が揺れている。
ゲイル自身は駆け寄ったつもりだったのかもしれない。動き自体はひどくよたよたとしてはいたが、ゲイルの顔に浮かぶ表情は焦燥感と称して違いない何かだった。
駆け寄ったゲイルが、ジークの数歩手前で足を止める。同じく足を止めたジークは、きつく眉根に皺を寄せ、無言のままだった。胸ポケットから煙草を取り出し、何かに耐えるようにゆっくりと咥え、火をつける。
大きく息を吸うと、赤い火が点る。吸いきったところで、少し息を止めた。それから、煙を吐き出す。その時間すらゲイルにはもどかしかった。吐き出される煙を手で払い、上ずった声をあげる。
「ジーク、エリスちゃんは……」
「死にゃしねぇ」
「……」
マイナス要因を多分に含んだ台詞ではあったが、とりあえずは安堵したらしい。ゲイルの口から息が漏れた。手で顔を覆い、左右に首をふる。
「ジーク、ゲイル」
ふいに草原に混じった女声に、二人は振り向く。エリスが眠っているのとは別のゲルから、銀色の髪を風になびかせたミユナが出て来た所だった。
視線を、二人から少し下に落としたままのミユナは、躊躇うような口調で告げる。
「あ……ロジスタ、目を覚ました、から」
「そうか」
ジークは短く答え、煙草を咥えたまま歩き出した。その後ろを、ゲイルがやや呆然とした動きで追ってくる。呟きが、漏れた。
「ロジスタくんも……よかっ――」
言葉は最後まで続かなかった。
鈍い音と共に地面に倒れたゲイルを見下ろし、ジークは煙草を吐き捨てた。
ゲイルを殴ったその右手が、小刻みに震えている。
「なにが、よかったんだ?」
ゲイルは答えず、視線を落としたままだった。ジークのすぐ後ろにいるミユナも、立ち尽くして動かない。
黒い頬ですら判るほど、血の気を昇らせ、ジークは激昂していた。ワイン色の瞳が、殺気を伴ってゲイルを睨みつけている。
「なにがよかったってんだ! てめぇの兄貴が招いた結果だ!」
「……」
ゲイルの顔が、影になった。だがジークは地面に倒れたままのゲイルを蹴り付け、声を荒らげる。
「エリスもロジスタも、とりあえずは生きている! だがな、最悪の結果は何とか免れただけだ。一つも良いことはねぇ。お嬢ちゃんは、痛みと悪夢とで呻き続けて、ようやっと目を覚ました一言目はなんだったと思う!?」
そこで、大きくジークは息を吸った。睨み下ろしたまま、告げる。
「――『アンジェラは?』……だ」
「……」
下を向いたままのゲイルの唇から、何か言葉が漏れたようだった。だがそれは、ジークの耳には届かなかった。ジークは震えた声のまま、言葉を続ける。
「……いつか、こんな状況があったな、ゲイル」
アレモドの村で、ジークはゲイルを今と同じように殴りつけていた。後ろに立つミユナは知らないだろうが、エリスは知っている。――エリスと同じように知ってるはずの、アンジェラとドゥールは、この場にはいない。
「あの時、お前の隣で俺を睨み上げてきたあいつは、いねぇぞ。どうするつもりだ、ゲイル」
「……ドゥール……」
掠れた声が、漏れる。迷い子が親を呼ぶときのような、弱々しい響きで。
その言葉を、鋭くジークは切った。
「あいつは裏切った」
「違う!」
否定の言葉は、ほとんど反射だったのだろう。だがその言葉に、再度反射的に、ジークはゲイルを蹴り付けていた。頬につま先が食い込み、ゲイルの身体が転がっていく。
「いいかげんにしろよっ!」
甲高い悲鳴は、後ろからだった。ミユナが、ジークの身体を後ろから強く引いていた。裏返った叫び声をあげている。
「いいかげんにしろ、ジーク! 悪いのはゲイルじゃない!」
そのミユナの腕を、ジークは乱暴に振り払った。
ミユナのほうを振り返り、激昂した表情のまま――だが、静かに言葉を落とした。
「お前も同罪だ、ミユナ」
「……なに、言って……」
「裏切りはお前も同罪だろう!」
叩きつけられたその言葉に、ミユナの身体が小さく震えた。
その姿を見下ろし、ジークは低い淡白な口調で告げる。
「知っていたな」
「……何を、言って」
「知っていただろう。ドゥールの事を」
ミユナが、動きを止めた。唇を閉ざすこともせず、揺らぐ視線をジークに向けていた。
「様子はおかしいと思っていた。お前も、ドゥールも。知っていたな」
「……」
ミユナが視線を落とす。沈黙は、肯定に他ならなかった。俯いたミユナを睨んだまま、低く、言う。
「その事を話さなかったお前も、同罪だ。ミユナ」
「ミユナ……?」
弱々しい問いかけが、ジークの背後から聞こえてくる。
がくんっ、とミユナの膝が折れた。草原にくず折れたミユナに一瞥をおとし、ジークは彼女の横を通り過ぎた。
「俺は、お前も、ゲイルも、許すことが出来ない。あいつは言うまでもないがな」
二人とも、何も答えてはこなかった。
ただ、風だけが吹く草原を歩く。凶悪化した獣はもういなくなっていた。だが、それよりも大切だった何かも、同時になくなってしまった。
ロジスタの眠るゲルまでは数メートルだというのに、その足取りは一向に進んでいないのかと思うほど、長く感じた。
ジークの口中で、呟きが漏れる。
「……俺も、同罪だな」
あの時、ドゥールかミユナかどちらかを問い詰めていれば。あの時、アザレルに怯えずに飛び出すことが出来ていれば。あの時、あの時、あの時――
拳はきつく握り締めているはずなのに、その間から何かが零れていく感触を覚えた。
あの時、眠るアンジェラの手を離さずにいれば。
渦巻く感情を飲み込み、顔を上に向けた。
眩しすぎる晴れ渡った青空は、今はもういない大切だった女性の瞳と、同じ色だった。
同じように、ラボのために何かを失う者を減らしたいと、あの時誓ったはずなのに。
「イヴ……」
囁きが、風に乗る。
「俺は、どうすればいい……」
ロジスタは、全身を強く叩きつけられたために打撲を多く負ってはいたが、奇跡的にそう酷い怪我ではなかった。とはいえ、しばらくの安静は必須ではあったが。
何があったのかを説明すると、ロジスタは目を伏せたまま頷くだけだった。
その日、エリスが再度目を覚ますことはなかった。
憔悴しきった顔で眠るエリスのゲルの外で、ゲイルはただじっと腰を落として、時と共にゆっくりと変化をとげる風景を見つめつづけていた。
青空は、夕焼けになり、地平線に太陽が沈み、夜が訪れる。
それでも、ゲイルは動かなかった。
まぶたを下ろすこともせず、ただその場に座りつづけていた。
空では、星が静かに輝きを放っていた。
エリスが目覚めたのは、翌日だった。
全身を駆け巡る痛みに、悲鳴を漏らしていた。その自らの声で、覚醒する。
まぶたを開けようとすると、こめかみにも痛みが走った。だが、緩慢に続く強烈な痛みの中では、逆にその刺激は心地良いとさえ思える。
その刺激に半ばすがりつく気持ちで、エリスは再度ゆっくりとまぶたを押し上げた。白く、光を通す布が目に入る。それがゲルの天井だと理解するのに、数秒を要した。
ぬるま湯に浸されたかのような、倦怠感。それでも、なんとか手をつき上体を起こした。
「っ……!?」
上体を起こしたとたん、腹部に走る激痛に悲鳴をかみ殺す。心臓が狂ったように鐘を打った。震える指で胸元のペンダントを握りなんとか息をつく。
(……怪我……?)
痛みに何とか耐えると、疑問が飛び込んできた。
(怪我なんて、いつした? あたし……)
考えても、答えが出なかった。意識がはっきりしない。
首をかしげながら、エリスは隣の寝具に目をやった。そして、きょとんと目を瞬かせる。
「……れ?」
と、ゲルに入ってくる人の気配を感じ、エリスは視線をそちらへ投げた。苦笑が、知らずに浮かぶ。
「……もー……びっくりするじゃん……」
「目、覚めたのかい……?」
「……え? ゲイル?」
ゲルの扉をくぐり入って来たのは、予想した相手ではなく、ゲイルだった。
すぐに、ジークとミユナが入ってくる。三人とも、何かあったようで、雰囲気が険悪ではあったが。
「起きたか……」
張り付いた喉をはがし、エリスはやや虚をつかれたような表情で、ジークに訊ねた。
「ジーク……?」
「ああ」
頷かれて、再度首をかしげる。ジーク、ゲイル、ミユナ――足りない。
エリスはきょとんとした表情を浮かべた。
「アンジェラは?」
問い掛けると、何故だかは判らなかったが、ミユナが顔を伏せた。
「ねぇ、ゲイル、アンジェラは?」
ミユナが答えてくれなかったので、質問の矛先を変えた。だが、彼もまた答えてくれなかった。
「アンジェラ、どこ行ったの? お花摘みにでも行った?」
「……」
「ねぇ、ミユナ、アンジェラは? ゲイル、アンジェラ、怒ってた? また怪我してって、怒ってなかった?」
「エリスちゃ」
「ゲイル、アンジェラはどこ!?」
叫ぶと、遠のきかけていた痛みが舞い戻ってきた。悲鳴が喉の奥でひしゃげる。
ジークが、こちらの肩を掴んできた。
「叫ぶな! 傷に響く」
「ジーク、ジーク、アンジェラがいないの。どこ行ったの、あいつ。ねぇ、アンジェラがいないの。いるはずなのに、いないの。なんで、なんで」
「判ってるんだろう」
「判らないっ!」
揺らぐジークの瞳に、言葉を叩きつけた。ドゥールに刺された腹部が、痛む。
エリスはジークに肩を掴まれたまま、何度も何度も首を横に振った。
「判らない、判らない、判らない! アンジェラ、アンジェラは、アンジェラはど」
「判ってるんだろうっ!」
悲鳴。
叩きつけられたその言葉は、悲鳴だった。しゃっくりを飲み込むように言葉を飲み込み、エリスは真紅の瞳でジークを見つめた。
ジークのワインレッドの瞳が、黒く陰を落とした。
「判って……るんだろう?」
――判っているんだろう――?
鼓動が早まり、視界が滲んでいく。滲んだ視界は、やがて零れ始め、頬を熱い雫となって落ちていった。
「うそだ。ちがうよ。わからない。だって、だってあれは、あんなのは、ゆめ。ただの、あくむで」
「お嬢ちゃん!」
「ちがっ……!」
叫ぶと、嗚咽が混じっていた。
泣く必要はないはずなのだ。あれはただの悪夢なのだから、泣く必要は、ないはずなのだ。
それなのに、涙が零れて仕方がなかった。
「判って、いるんだろう」
(判ってる――)
胸中で、ジークの言葉を肯定せざるを得なかった。判っている。判っていた。なにが起きたのか、何故彼女がこの場にいないのか、全て覚えている。
ただ、認めることが出来なかっただけだ。
「……ンジェ……」
名を呼ぼうとした。何度も、何度も呼ぼうとした。だがその全ては、嗚咽に負けて言葉にならなかった。腹部の痛みよりも、その名を呼べない痛みのほうが、辛かった。
ジークに頭を抱かれ、エリスは何度も名を呼ぼうと続けた。
嗚咽が、途切れない。
どれくらい、そうしていたのか判らなかった。そう長い時間でもなかったはずだが、エリス自身の時間感覚はすでに当てにはならなかったので、判らなかった。
ゲルの扉をくぐり、もうひとりの人物が顔をのぞかせた。
緑色の髪と、小さく細い目。両頬には刺青が入っている。顔にも、身体にも、包帯を巻いていた。
その少年の姿を認め、ミユナが小さく非難をあげる。
「ロジスタ……お前もまだ、安静にしてなきゃまずいだろうが!」
「泣き声が、聞こえてきたので」
だが、ロジスタはミユナの言葉を遮ると、おぼつかない足取りでこちらに歩み寄ってきた。
「エリスさん」
名を呼ばれ、エリスは涙もふかずに顔を上げた。頼りない顔立ちで、ロジスタが微笑んでいる。
ジークの腕から身を離し、ロジスタと向かいあった。
ロジスタは、一度呼吸を整えると、静かに告げた。
「お預かり、していたものがあるんです」
「……?」
言葉には出来なかったので、視線で問うた。ロジスタは、ゆっくりと頷いてくる。
そして、はっきりと言った。
「アンジェラさんからです。貴女への、手紙を」
心臓が跳ねた。唇が震え、指先も震えた。
頭の中にあった何かが、真っ白になる。
瞳を見開き、エリスはロジスタを凝視していた。
「なんで……」
強張った声をあげたジークを手のひらで押しとどめると、ロジスタは手に持っていた薄茶色の何かを、エリスの手に握らせた。
封筒だった。
「読んでください」
頭では何も考えられなかった。
それでも、震える手がほとんど勝手に動いていた。
ゆっくりと、丁寧に、封を切る。乱暴にすると、彼女がいつも怒ったからだ。
するりと便箋が滑り落ちてくる。
我知らず息を止め、エリスは便箋を広げた。