第七章:Dear my best friend――約束の手紙


BACK 目次 NEXT


 涙が止まらなかった。どうすれば止まるのかさえ、判らなかった。
 見覚えのある文字。文頭に少し力を入れすぎるから、いつもそこだけインクが濃くなるのだ。アンジェラの癖だ。その割に終わりは柔らかなタッチになるのもまた、彼女の癖だった。
 紛れもない、アンジェラの文字だ。彼女の言葉だ。彼女の声までもが、内耳に届いてくる気がする。鼻にかかった、甘ったるい声で、勝気な口調で、目は逸らさないで真っ直ぐにこちらに向けられていて。
「アンジェラ……」
 やっと、名前を呼べた。その事がエリスの胸に深い感慨を呼び起こす。その感情が引き金となり、また、涙が止まらなくなった。紙の手触りが、いつかの短冊のそれを思い起こさせる。二つの約束が、重なり合った。
 躊躇いがちな手が、エリスの背にかけられた。ゲイルだ。
「エリスちゃん」
 エリスは唇を噛んだ。自身の指が震え、爪が紙にあたる音が耳障りだった。奥歯を噛み締め、首を振った。砂が混じった赤髪が、紙面を叩く。
「最後の四竜、蒼竜はシーランド共和国の離れ島、大陸最東端のホワイト・フィールドにいます」
 嗚咽をかみ殺していると、ロジスタの声が滑り込んできた。呼吸を呑み、顔を上げる。
「僕の研究では、そこまでは判っているんです。ただ、行くか行かないか、それは、貴女が決めることです。エリスさん」
 きつく、まぶたを閉じた。頭痛がする。視界の闇を、まぶたの裏で睨みつけた。淡く揺れる闇。その向こうに、親友の姿を思い描く。
 アメジストの、瞳。
 ――信じてる。その言葉。
 胸にたまっていた息を、ゆっくりと吐いた。深く呼吸を、腹まで入れる。再度その息を吐き出し、エリスは再びまぶたを押し上げた。涙は、止まっていた。
 ゆっくりと、唇を開く。
「行く」
 背を撫でてくれていたゲイルの手が、止まった。
 視線を、全員に移した。ゲイルの碧色の瞳を見た。ジークのワインレッドの瞳を見た。ミユナの銀青色の瞳を見た。ロジスタのブラウンの瞳を見た。アメジストの瞳は、ない。漆黒の瞳も――ない。
「行く。でも、その前に、アンジェラを、迎えに行かなきゃいけない」
 ぽす、と頭に重みがかかり、エリスは顔を上に向けた。ジークが、覗き込んでいる。苦笑の色を頬に浮かべて。
「その前に、お前はまず、怪我を治さねぇとな」
「……そんなの」
「動けなきゃ意味がねぇ。お前をその状態で動かして、止めなきゃ、後でアンジェラのお嬢ちゃんに怒られるのは、俺だ」
 その言葉が、ほんの一瞬だけエリスの頬に笑みを浮かべさせた。会える。その確証があるからの、台詞。
「アンジェラ、迎えに行く」
「ああ、判ってる」
「会えるよね」
「ああ、大丈夫だ」
 くしゃりと、前髪をジークがかきあげてくれた。そのまま、撫でてくる。大きな手のひらに、少しだけ気が緩んだ。グローブに包まれている右手だが、暖かいと判る。
 腹部の痛みは、未だに脳髄に働きかけてきてはいる。だが、それを何とか意識の隅に押しやり、エリスは顔をゲイルに向けた。
 碧色の瞳が、瞬間揺らぐ。こちらを見ているようで、見ていない。彼が何故こちらを見ないのかは、説明されずとも判っていた。
 腹部に巻かれた包帯をさすり、その傷を負わせてきた相手を思い浮かべる。
 俯いた顔を、思い出す。血のついた短剣を握っていた、その姿を思い出す。あの時は何が起きたのか理解できなかった。ただ、アンジェラがいなくなるというその直感に似た恐怖だけが、エリスの内部を侵食しており、自身の身に何が起きたのかまで気が回らなかったのだ。
 だが、今なら、理解る。
 規則正しいリズムで撫でてくるジークの手のひらのぬくもりを感じ、エリスは視線を少し落とした。それに気付いたのだろう。ジークも撫でるのをやめ、手をおろす。
「あたしのこれって、ドゥールがやったんだよね」
 肯定とも否定ともつかない、苦悩じみた吐息がゲイルの口から漏れた。エリスは再度顔をあげ、ゲイルを見た。ゲルの中に差し込む陽光の中でさえ、はっきりと判る蒼白い頬。
「ドゥール、だよね。ゲイル」
 明確な答えは、彼の口からは聞けなかった。だが、俯いたその顔と、漏れ出た「ごめん」という言葉で、それは肯定のはっきりとした判断材料となった。
「そっか」
「……ごめん」
 弱々しい、謝罪の言葉。瞬間、顔に血が上ったのを自覚した。こめかみが引きつり、肩が上がる。知らずに吸い込んでいた僅かな空気を、叫びと共に吐き出したいと、唇が戦慄く。腹部に力が入り、痛みが走った。
 膨れ上がった衝動的なその感情を無理やり抑え、エリスはほとんど唇を開きもせず、うめいた。
「言わないで」
「エリスちゃ」
「言わないで」
 何かを言いかけたゲイルを遮る。速まっていた鼓動を静めようと、浅い息を繰り返した。
「――言わないで。今は、聞きたくない。それ以上ゲイルが口を開いたら、あたしはゲイルに何するか判らない。自制できない」
「……」
 今度は、答えもなかった。額に爪を立て、エリスは小さく首を振った。
「理解は、してるつもりなんだ。ゲイルだって辛いって。あんたは、悪くないって。でも駄目なんだ。感情が理性を飲み込みそうだ。お願いだから、それ以上何も言わないで。今は考えたくない」
 刺された事そのものに関しては、不思議なことにそれほどの怒りもなかった。その事自体は、彼らと行動を共にしたときから、エリスの中ではある種の覚悟を決めていた。自身の油断を恨むことはあれど、怒りを直接ぶつけようという考えには至らなかった。
 許せないのは、アンジェラが傍にいないこと。彼女へ差し伸べた手を、断ち切るまねをしたこと。今アンジェラが傍にいない原因のひとつに、ドゥールが関わっていることだ。
 彼にどんな思惑があり、そう動いたのか。エリスにとってのアンジェラの関係は、そのままゲイルにとってのドゥールの関係と酷似していると、いつかそう思ったことがある。だとすれば、その相棒を裏切るとは、どんな苦悩があったのか。どんな想いだったのか。裏切ったほうは、裏切られたほうは、どんな想いを、今抱いているのか。
 考えるべきだとは、理解していた。だが、そこまで感情が追いついていかない。ただ悔しさだけが募り、手近なゲイルへ怒りを叩きつけかねない状態だった。
 数度の深呼吸で、怒りを抑え、エリスは再度言葉を漏らした。
「ゲイル。アザレルたちは、どこへ行ったの。アンジェラは、どこへ連れて行かれたの」
「……ラボ。フォルム共和国ブルージュ・シティ。魔導技術開発研究所」
 答えは端的だった。それ以上の何かを、あえて排除した機械的な返事だった。普段ならそれは、少しばかりのしこりを残すだろうが、今のエリスにとってはありがたかった。
「フォルム……大陸東部って、ことは、判るけど。大陸地図、ある?」
 誰ともなしに投げたその言葉に、真っ先に動いたのはロジスタだった。まだ痛むのだろう、若干足を引き摺りながら、ゲルの中の小さな棚を引っ掻き回し、一枚の大陸地図を出してくれた。
 横に歪んだ楕円、が一番近いだろうか。下部は、巨人の爪で引っ掛けられたかのように右端だけを少し残した状態で凹んでいて、丁度その真下に、今いるここ、フマーネンがある。その僅かに残った右端の部分が、アルンブラ独立国家共同体と呼ばれる、小国の集まりだ。フォルムは、その中にある国だ。
「……こっからだと、一度本土に戻ってからより、海路渡っちゃったほうが早い?」
「だな。ロンド海を抜けて、マーシャル海に出て――シーランドから入国したほうが早い」
 その言葉に、エリスは目を瞬かせた。シーランド共和国は、フォルム共和国のすぐ隣にある国だが。
「なんで、シーランドなの? 普通にフォルムに船をつければいいんじゃないの?」
「港と、場所の関係だな。ブルージュ・シティはシーランドよりの内陸にある。シーランドのサセナ港からのほうが、近い」
 とん、と地図を示して説明してくれるのはありがたかったが、実を言うといまいち地理的なことには頭が働かない。だが、ジークの説明通りならば、そのほうがいいのだろうとエリスは判断を下した。
「判った。じゃあ、そうしよう。シーランドから行くルートを辿る」
「嫌な感じだな」
 ぽつり、と言葉が聞こえた。声の方向に視線をやると、ずっと黙したままだったミユナが、顔を曇らせた状態で座っている。
「ミユナ……?」
「お前は何も感じないか、エリス? ――さっきロジスタはなんて言った? 最後の四竜である蒼竜は、どこにいるって言った?」
「!」

 ――最後の四竜、蒼竜はシーランド共和国の離れ島、大陸最東端のホワイト・フィールドにいます――

 ロジスタの声音をそのまま思い出し、エリスは息を止めた。まぶたを閉じ、息をつく。
 二の腕が粟立つような、違和感。
 ロジスタが、様子を察したらしいおどおどとした口調で、告げてくる。
「ここからでている定期便だと、ほとんど必ず――ホワイト・フィールドは通ります」
「……どうしてもあたしを、四竜に会わせたいみたいだね。誰だか、知らないけど」
「エリス」
 ミユナの強張った声に、かぶりを振る。ただの偶然とは、言えない何かが働いている。その事はもう、認めざるを得なかった。
 まぶたを閉じ、思案する。一刻でも早く、アンジェラを迎えに行かなければならない。だが。
(今、この状況で――例え怪我がなかったとして、も。あたしは、あの子を連れ戻せるだけの力がある?)
 自問に、答えは判りきっていた。ノーだ。決定的に、力が足りない。力、が何を指すのかは判らないが、救えるだけの何かが、足りない。不足している。
 はやる気持ちを抑え、エリスは唇を開いた。
「先に蒼竜に会いに行こう」
「エリスちゃん……」
 かすれた声に、視線を投じる。
「ゲイル。あたし、今あたしが何を望んでるか判らない。アンジェラを迎えに行きたいってのは、確実だけど、でも、それ以上が判らない。それ以前が、判らないのかもしれない」
 服のポケットを探り、よれてしまった短冊を取り出した。赤い小さな月の石も、一緒だ。
 ダリードの形見。
「アンジェラと、約束があるの。ずっと、一緒だって、そう約束した」
 それを見下ろしながら、言葉を紡ぐ。
「ダリードくんとの約束は、四竜に会ってもあたしはあたしでいられるって、証明するってこと。ルナのためなんかじゃなくて、あたしが生きてるのは、あたしのためだってことを証明するってこと。月の者でも、あたしたちが生きてるのは、生きて、たのは、ルナのためなんかじゃないって、証明するってこと」
 誰も言葉を発さなかった。事情を知らないロジスタも、雰囲気は感じ取ったのだろう。言葉を漏らさない。
「あたし、あの時後悔した。馬鹿な話だけど、後悔したんだよ。剣なんて、使えなきゃ、こんな事にはならなかったのかもしれないなんて、思ったりもした」
 あの感触は、まだ、手のひらにも脳裏にもはっきりと残っている。
「でも、判らない。力が疎ましいのかな、あたし。剣も、月の者なんてのも、どっちも、疎ましいのかな。判らない。でもあたしは今、力を欲してる。疎ましい力を、欲してる。変だよ。矛盾してる。でも、そうなんだ。強くならなきゃ、アンジェラを救えない。もう、守れないなんて嫌なんだ」
 矛盾した感情は、誰もがそうだと――生前彼はそう口にしていた。再度滲み始めた視界を振り払い、顔を上げる。エリスの瞳に、忽然とした光が灯った。
「だから、四竜に会う。そうすれば、力は強まるって、赤竜はそう言ってたから。最後の竜に会う。蒼竜に、会いに行く。そうしないと、強くならないと、アンジェラを救えないから」
 今度は涙を流さなかった。アンジェラの手紙を封筒に戻し、その中に、ダリードの短冊と月の石を一緒に入れた。ひとつになった、二つの約束を胸元に抱きしめる。
 顔を上げると、ゲイルが泣き笑いのような表情を浮かべていた。ややあって、肯定を示すようにその首が縦に振られる。
「ラボを、潰すよ」
 どうとも言葉にしようのない沈黙が、少し落ちる。だが、その沈黙は長くは続かなかった。ロジスタが、緊張した声をあげたのだ。
「皆さんに、お話して置かなければならないことがあります」


 ロジスタは、上体を起こしただけのエリスと向かい合うと、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「この、ルナ大陸のことです。最近ルナ大陸はおかしくなってきています。とはいえ、そのことはおそらく、僕よりも皆さんのほうがご存知だとは思います」
 ミユナが曖昧に頷く。彼女自身の国も、ついこの間までそのせいで寒気に襲われていたのだ。ロジスタはその仕草を確認すると、言葉を選ぶような仕草を見せてから告げた。
「――皆さんは、ルナ大陸がどうして他大陸と交流できないかはご存知ですよね?」
 常識だ。ルナ大陸に住む人間で、知らないものはほとんどいないだろう。封鎖世界魔導大陸ルナ。その呼称の元になった神話。
「女神が、結界をはっているから。だから、外へ出ることは出来ない。外から、こちらに来ることも出来ない、でしょ?」
 桜春の件があるとはいえ、と内心で注釈を付け加え、エリスは答えた。
「一般的には、ただそうとだけ言われています」
 ロジスタの言葉は、明らかに何かを含んでいた。眉をしかめて見せると、ロジスタは刺青の入った頬を指でかいた。
「最初から、順を追ってお話します。まず、この世界の神話はどこまでご存知ですか?」
 あまり、得意ではない。エリスは自身をそう判断して、ジークに視線を振った。振られたジークは若干顔をしかめた後、うめくように答える。
「最初世界は永遠の眠りについた闇でした。創造主ディスティが現れて、この世界に目覚めをもたらせてくださいました。創造主ディスティは、次々と神様を生み出しました。神様は乱交に乱交を重ねてさくさく増殖していきました」
「……ジーク。あんた一応自称神官でしょうが」
 うめく。が、ジークはこちらの声など気にもとめず言葉を続けた。
「ディスティはそのうちの四大神と呼ばれる神を選び出しました。光の女神アイテール。暗黒神エレボス。知識神プロメテウス。そして、月と狩猟の女神――セレネ」
「セレネ?」
「良くご存知ですね」
 エリスの疑問符と、ロジスタの感嘆の声がぶつかった。月の女神は、言うまでもなくルナのはずだが――と、エリスが目を瞬かせていると、ミユナが補足するように続けてくれた。
「最初にディスティが選出した時点では、四大神の名前はジークが言った通りだったとされている。その四大神が、四つの大陸を治める大陸神だってのはさすがにもう判ってるよな?」
「い、一応は」
 若干不安ながらも首を縦に振る。
「――で、セレネとルナ、だが。これは同一神だ。呼び名が違うだけで」
「何で違うの?」
「セレネは、ディスティに謀反を働いた神だからだよ」
 今度はゲイルが補足してくれた。
「ディスティがセレネという名前を取り上げたんだ。忌み名として与えられたのが、ルナ。神々の中の言語カテゴリから、あえてはずされた名前なんだそうだよ。判りやすく言えば、皆がセイドゥール風の名前なのに、一人だけ仲間はずれでグレイージュ風の名前を与えられた、みたいな感じかな」
 わざわざ例えまで用いて説明してくれるのはありがたかったが、だが逆を言えば、自分の無知を自覚せざるを得なかった。嘆息を飲み込み、頷く。
「怒り狂ったディスティが、ルナをこの大陸に閉じ込めるために、大陸に結界を張った――ここまでは、あってるかい? ロジスタ先生よ」
「先生はよしてください」
 苦笑するロジスタをよそに、エリスはさらに混乱していた。
「ちょ、ちょっと、ちょっと待って待って。ルナ大陸にはられている結界って、女神ルナがはってるんでしょう? ディスティ?」
「あ、お気付きになられましたか」
「気付くよ」
 やや憮然として見せると、ロジスタが苦笑を深くした。
「すいません。ええーと。つまり最初は、そうだったんですよ。大陸が四つに分かれ、新暦が始まった当初、この大陸は別に封鎖されてはいなかったそうです。この大陸は、百年に近い間、開かれていた。最も他大陸と交流出来る程、文明は進んでいなかったでしょうが」
 まるきり教師然とした指の振り方で、ロジスタは続ける。
「百年ほどして、異変が訪れる。女神セレネが、己が力を過信しディスティに謀反を働いた――神が神に起こすクーデターみたいなものでしょうか。この大陸をも巻き込んでの戦いになった。結果としては、あえなく返り討ちにあったセレネ神。勝ったのは創造主ディスティ。その戦いのときにセレネ神がこの大陸に力を落としてしまった。余波で、ですね。それがいわゆる『魔力』になり、この大陸の人間が、魔術でも、神技でも、魔法でもない、新しい力を手にする結果となった。それが、法技です」


BACK 目次 NEXT