第八章:A marine requiem――潮風の鎮魂歌


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 その紫色の瞳には、一片の揺らぎもなかった。
 戸惑いも、嘆きも、恐れも、不安でさえも宿してはいない。その瞳の中にある光彩は、ただ強さだけを閉じ込めている。まだたった十三の少女が持つ輝きとは思えないほどの、力ある瞳。
 それを見返しながら、アザレルは頬に笑みを浮かべた。
 アザレルの白い手が少女の頬を撫でる。赤い爪先が、頬を浅く切った。ぷくりと真紅の雫が浮かび上がる。それでも、少女の瞳は揺らがなかった。
「強い子ね」
 血色の紅をひいたアザレルの唇が、そう言葉を発する。だが、アンジェラはその言葉が聞こえているのかいないのか、ただ唇を引き結んだまま、正面からアザレルを見据える。
 潔癖なまでに白い、何もない部屋だ。
 白い床。白い壁。白い天井。アンジェラが着せられている、薄い絹生地の服も、極端なまでに白い。ただ、壁にかけられた月のレリーフだけが、赤い。
 その部屋の中に座り込んだまま、アンジェラはアザレルを見上げていた。
「先にも言いましたけど、この部屋は特殊でしてね。魔法も法技も、効きませんから、無駄な抵抗はおやめなさいね。ここは神聖なる、場所ですから」
 アザレルの指が、アンジェラの顎にかけられた。顎をあげさせられ、だが、その瞳に浮かぶ決然とした色は変わらない。
 そのとき、ふいに扉が開いた。アンジェラは、顔の向きは変えないままに、視線だけをそちらに投じた。背中まで伸びた黒髪。長身の黄色人の男。
 ドゥール・バレイシス。
 その手に、トレイを抱えていた。
「あら、ドゥール。皆には挨拶したの?」
「……ああ」
 アザレルの言葉に、ドゥールが静かに頷く。トレイを床に置いた。トレイの上には、恐らく手作りなのだろう――誰のだかは判らないが――サンドイッチがのっている。
 アザレルが微笑んだ。
「気が利くわね。アンジェラさん、とりあえずお食事はとりなさいね」
 その言葉にも、アンジェラは動かない。微動だにもせず、アザレルを見上げている。見返したアザレルが、苦笑を浮かべた。
「何故、そうまでしていられるのかしらね。不思議な存在ですわ。人間というものは……」
「何故、ですって?」
 アンジェラが、ふいに唇を割った。口角が、くっとつりあがる。薄く唇を開いたアンジェラが、告げた。
「信じてるから」
 その音自体には、何の気負いもなかった。晩御飯のメニューを訊かれ、答えた時と同じような口調。だが、ドゥールの目が開かれた。その、ただ一言に僅かに目の下が紅潮している。
「私はあの子を信じてる」
「エリスさんの――何を?」
「全てを」
 ドゥールが静かにまぶたを下ろした。アザレルはそれには答えず、ただ笑みを深くしただけだった。言葉をかけることもせず、きびすを返し部屋から出て行く。
 アンジェラの告げたただ一言が、部屋に水上の紋の如く広がり、沈黙を呼んだ。落ちる空気は、重くもなく、また軽くもない。アザレルが出て行った今、部屋にいるのはアンジェラと、立ち尽くしているドゥールだけだ。
 黒い髪。黒い服。この部屋の中であって、色彩を真逆としている彼は、しかしどこか霞んで消えそうにさえアンジェラには見えた。
 沈黙がどれくらい続いたのか――何の前触れもなく、アンジェラが立ち上がった。ドゥールが構える隙も与えず、その右手を力いっぱい彼の頬に叩きつける。
 力そのものよりも、タイミングと衝撃だろうが――反動でよろけたドゥールの襟首を、アンジェラはぐいと掴んで引き寄せた。
 顔を寄せる。
 紫の瞳と、黒の瞳が交差する。息がかかるほど近づき、再度アンジェラは力任せに彼の頬を殴りつけた。抵抗を示しさえしなかったドゥールは、そのまま床に尻をつく。
 小さな、薄い肩を上下させ、アンジェラはドゥールを睨み下ろした。頬は紅潮し、眉はつりあがり、瞳には今まで見せたことのないほどの怒りを含んでいる。恐らく――エリスでさえ、親友のそんな瞳は見たことがなかっただろう。
 煮えたぎった油のような瞳。それほどまでにきつい眼差しを投げつけ、だが彼女の唇から漏れ出た言葉は、その激昂した瞳からは想像がつかないほど静かで、それ以上に鋭利な――怜悧な響きだった。
「エリスに何をしたのか、判ってるわよね」
 ドゥールは答えない。唇の端から血を流しながら、俯いている。アンジェラはしゃがみ込み、先ほど自身がアザレルにされたのと同じように、ドゥールの顎をついと上げさせた。
 闇のような右目と――そして、僅かに灰色がかった左目。その、左のまぶたの上にアンジェラは親指をのせた。すいと、紫の目が細まる。
「左目、ほとんど視力ないんだっけ?」
 抑揚のない響き。
「全く見えなく、して欲しい?」
 ドゥールには判っただろう。その指に力がこもり、下方に向けて僅かに重みを移行させたのが。
 音もなく、時間が過ぎる。その体勢のまま、何の言葉も音もなく、数分がすぎた。
 そして――アンジェラの指がドゥールのまぶたから離れる。
 ドゥールに背を向け、立ち上がる。
「消えて」
 かすれた、ともすれば聞き逃しかねないような声が、その小さな背中から発せられる。
 だが、次の瞬間、かすれはそのままにその音が破裂した。
「消えなさい、ドゥール・バレイシス!」
 きんっ……と、部屋にその声が響く。
 ややあってから、背後で気配が動くのをアンジェラは感じた。ノブが回り、扉が開かれ、そしてまた閉じられ――
 その間、アンジェラは指ひとつ動かさずにいた。
 ――鍵が閉まる音がする。
 だがその音と同時に、アンジェラの体は床にくず折れた。
 肩が震えた。床に触れる爪先が、その震えを音にして耳障りにリズムを刻んでいた。
「エリ……ス」
 アメジストの瞳に、水滴が膨れ上がる。
 だが、彼女はその水滴をひとつ豚りとて落すことはなかった。
 ただ、きつく唇を噛み締め、噛み締めた唇の間から、親友の名を呼んだ。
「エリス」
 ――何度も。


 潮風に薄い金の髪が揺れている。船のふちに体を預け海を眺めているその彼の姿に、エリスは既視感を覚えた。ほんの数日前のはずだ。同じように船のふちにもたれ、体を預けていたのはアンジェラだった。
 鼻をくすぐる潮の匂いも、ややべたつく潮風も、頭上で揺れるマストの音も、全てがあの時と同じなのに、けれど確実に不足している。歌声。安らぎ。安堵感。笑顔。――アンジェラ。
 エリスにとっては、なによりもそれだ。そして、恐らく彼にとっては従兄弟であり、兄である、ドゥールなのだろう。
 エリスは右足を一歩前に踏み出した。同時に、右の足にも左の上半身にすらも痛みが走る。腹部の痛みは、脳に直接這い上がってくるような感覚さえ伴う。どこかを痛めると、どこかが庇う。その繰り返しだ。情けないと思わなくもないが、どうすることも出来ない。できるのは、ただ我慢だけだ。
「ゲイル」
 呼びかけると、その背がかすかに戸惑いの色を示してから振り返ってきた。それすら、あの時のアンジェラとかぶる。知らずに折り込んでいた指をひらげ、ズボンに擦り付けた。汗をかいている。
「エリスちゃん」
 ゲイルの目が丸くなる。眉尻が下がり、情けない面立ちになっていた。
 その顔のまま、慌てた様子でゲイルが走りよってきた。
「何やってるんだ、エリスちゃん。動けるような状態じゃないだろ?」
「そうずっとも寝てられないよ」
 肩にかけられた手を払い、エリスは嘆息を漏らした。すでに自称『エリスのお嬢ちゃんの専属医』と化したジークに、寝てろと言われて以降、ゲイルもミユナも心配性の兄と姉のような状態になっている。ことあるごとにエリスをベッドへ、ベッドへと向かわせるのだが、さすがに眠るのも限度がある。
「怪我は、癒してもらったし」
「エリスちゃん。ジークは確かに癒してたけど、でも」
「不完全、でしょ。そんなのあたしが一番判るよ。でもだからって、ずっと寝てられるわけじゃない」
 眠れば悪夢も見る。
 続き口をついて出そうになったその言葉を、喉の奥で飲み込む。それは、伝える必要のないことだ。
 戸惑いの表情を浮かべたまま立ち尽くしていたゲイルの横をすぎ、エリスは痛む体を引き摺り歩き出した。船のふちに背をあずける。木の模様を指でなぞりながら、空を見上げた。
 マストの向こうからの陽射しは、それでもやはり眩しい。そもそも、エリスの目は光に弱いのだ。手で陽射しを遮りながら、それでもエリスは空を見ることをやめなかった。
「寝ててもさ、やることないんだよね」
「……エリスちゃん、それ、寝てないだろ?」
 ゲイルの言葉には、曖昧に苦笑だけ返しておく。寝た、というよりは寝転がる、に近いのは確かだ。エリスはそのまま、言葉を続けた。
「だからさ。寝ながら出来る事、してたよ。いっぱい本読んだ。ロジスタくんから借りた奴」
「……熱心だね」
「いまさらだけどね」
 自戒の念をこめて、呟く。知りたくなかった。自らの生に課せられた、運命とやらも、それに基づく神話やなんかも、知らずにいられるのならそのほうがいいと、ずっと避けていた。だが、それらの逃げは、もう通用しない。知らないことが、多すぎた。知らなければならないことは、あり過ぎるほどある。
「あと、考えた。いっぱい、考えた。考えるしか出来ないから、考えた」
 そこで、言葉を切った。空に向けていた視線を、ゲイルに合わせる。
 碧色の瞳。
「考えてたの、ずっと。アンジェラのこと。それから……ドゥールのこと」
 その名前に、悲痛なまでにはっきりとゲイルの顔が歪んだ。それを見据えながら、エリスはゆっくりと続けた。
「ドゥールは……何を考えてたの?」
「判らない」
 ほぼ即答だった。
 俯いたゲイルは、潮風に絡まった自らの前髪を握り締めながら左右に弱く首を振った。
「判らない。おれは、ドゥールじゃないから、あいつが何を考えてるのか判らないよ。兄弟なのに、あいつが何を考えていたのか、悩んでいたのか、それすら察してやれなかった。おれは、何も判らな」
「ホントに?」
 言葉尻にかぶさるように、間をあけずにエリスは訊ねた。ゲイルが、言葉を飲み込み顔を上げる。
「どういう……意味だい?」
「ホントに、判らない? 何も、判らないの?」
 平坦に訊ねると、ゲイルの顔がさらに歪んだ。ほとんど泣きそうなほどに顔を歪ませたまま、それでも、笑みのような曖昧な表情を浮かべている。
「ゲイル」
「幸せに」
 ぽつり、とゲイルの唇からその言葉が落ちた。疑問に眉を上げると、ゲイルが再度頭を垂らした。よろけ、その体がメインマストの柱にぶつかった。
「……幸せにって……どういう、意味なんだよ……」
「ゲイル?」
 碧色の瞳が、指の間からのぞいた。繊細すぎる硝子細工のような視線だった。
 彼の唇が、笑みのような形に歪んだ。笑みではない。泣くことも出来なくなった人間が良く見せる、諦めきった表情は、笑みではないはずだ。
 顔を覆っていた手をおろし、ゲイルが表情を緩めた。
「おれの手帳に……あいつの字で……」
(答えだ)
 どこか平坦な感情のまま、エリスはそう思った。
 それが、答えなのだろう。眉間に皺がより、エリスはまぶたをきつく閉ざした。
 それが答えだ。考えて、考えて、ドゥールが導き出した答えなのだろう。
 ベッドに――船室のベッドは今まで以上に硬く、さらに揺れるので寝れたものではないのだ、実際――横になりながら、エリスは考えていた。
 ただの裏切りだったとは、思えなかったのだ。
 ダリードの件で、ゲイルはラボを見限った。家族を守りたいと、そのためには、あそこは害にしかならないと。
 だが、アザレルがそれを許すだろうか――?
 アザレルの手の中には、ゲイルたちの家族がいる。その手から解き放ちたいというのがゲイルの願いだとしたら、しかしその前段階では、どうなるのだろうか。それを危惧したのが、ドゥールなのではないのだろうかと、エリスは考えたのだ。
 だとしたら、つじつまはあう。
 だからといって許せるものでもないが。
「それが、答えなんだと思うよ。でもあたしは、ドゥールを許さない。それだけは、覚えておいてね」
 エリスはそう告げて、立ち尽くしているゲイルから視線をはずした。船のふちから身を放し、ゆっくりと歩き出す。床が揺れている。船そのものが揺れている――だけではないらしい。めまい。
 やはり本調子ではない。軽く舌打ちし、それでも歩き出す。
 潮風が強く吹く。マストが激しくなった。ばたついた髪を抑え、エリスは顔をしかめた。
「ヤな風……」
 風使いのゲイルはどう思ったのだろう、となんとなく顔をそちらに向け――エリスは目を瞬かせた。
 驚きに見開かれた碧色の双眸。唇が、震えていた。
「ゲイル……?」
「アーロン! ケイレブ!」
 ゲイルが叫んだ。そのまま船の先端に向かい駆け出した。甲板にいた、他の乗客が何事かと彼を見る。
 船の先端には、二人の少年がいた。一人は、背がひょろりと高く、年頃的にはエリスより少し下ぐらいだろう。もう一人は、それよりずっと幼い――七、八歳の子供。
 その二人が、叫んだ。

「ゲイル兄!」
「ゲイル兄ちゃん!」

(え――?)
 その言葉に、エリスは三人を凝視することしか出来なかった。


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