第八章:A marine requiem――潮風の鎮魂歌
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がたん、と耳障りな音がした。
ちょうどゲイルが後退し、その足で船べりにかけてあった救命具を落とした所だった。
薄く唇を開き、何事か呟こうとしている。だが、ゲイルの口から漏れた音は言葉にはならない、ただの空気だった。小刻みに首を振り、潮風に金髪が揺れている。
見ていたくなかった。
エリスの内部で、それを見るなと警鐘が鳴っていた。なのに、まぶたはただ痙攣するだけでおろすことが出来ない。
体が震える。それを止めようと、ほとんど無意識のうちに右手のひらを意識した。いつも握っている手のひらがないことに、その時になって気付く。と、ふいに右手ではなく左手に、ひやりとした感触を覚え、エリスはそちらを見やった。ミユナだ。
ミユナの細くつめたい指を、握り返す。鼓動と、血液の流れる音が耳に煩かった。
「ゲイ、ル兄……たす、けて」
「おに……ちゃ、ああんっ」
ひび割れた絶叫に、ゲイルの足が止まった。エリスには、目の前で起こっていることがどういう理屈なのか理解できなかった。体のあちこちから――それこそ胸部や、喉や、顔面やらから――巨大なミミズのような血色の触手を生やしながら、何故彼らは立っているのか。何故これほど明確に言葉を発しているのか。
アーロンとケイレブだったそれは、のそりとした緩慢な動きでこちらに歩み寄ってくる。ケイレブの小さな足が一歩前に出るたびに、血溜りが水音を立てた。アーロンが一歩踏み出すごとに、そのひょろりとした体を支えるかのように、触手が甲板を這った。
水が沸騰するときのような、ごぼりという音が聞こえた。アーロンの口から、蠢きながら触手が顔を覗かせる。血と、胃の中にあったのであろう何かを、嘔吐物として吐き出しながら、しかしアーロンもケイレブも、足を止めることはなかった。
抜けるように青い空に、鮮血が散る。
ふいに、ゲイルが一歩前に踏み出した。その肩に色がないことを感じ取り、エリスは反射的に彼の名を叫んだ。
「ゲイル!?」
「助けて、欲しいのか?」
穏やかな響きだった。少なくとも、ゲイルと付き合いが短い人間なら、そう感じただろう。
彼の喋り方は、常に音が一定で、変化が少ない。相手に委ねる口調の中に、強い自我は存在することがほとんどない。
今も、そうだ。
けれど――違うと、エリスは感じた。決して付き合いが長いわけではない。だが、短くはあっても、深くはあるはずだ。良い意味ばかりでもないが。
だからこそ、エリスには判った。
「ゲイル!」
再度の叫びに、ゲイルは返事をよこしてきた。上辺だけ聞き取れば、目の前にあるそれが、芝居の中のワンシーンのようにすら感じるほど、穏やかで取り乱してもいない、そんな声音で。
「エリスちゃんは、見ないほうがいいな」
碧色の瞳が、陰りのある笑みを見せた。
「アーロンとケイレブを助けて上げるのは、おれの役目だと思うから」
風が唸った。赤毛が風に殴りつけられ、エリスは思わずよろけた。ジークに支えられ、ミユナの手を握り返すことで、何とか意識を保ったまま、立ち尽くす。
ゲイルが、腰につけていた剣を抜き放った。太陽光に反射し、眩しさに目が痛んだ。
「ゲ、イル兄……?」
口から触手を生やしながら、アーロンの声でそれは喋った。
ためらいを微塵も感じさせない足取りで、ゲイルはアーロンに近付いていく。その動きに驚いたように、アーロンだったそれは、二歩、後退さった。ケイレブだったものも、涙と血液とで原型も判らないほどになりつつある顔で、ゲイルを見つめている。
「たすけ、て……」
アーロンが左右に強く首を振った。血液が飛び散り、エリスの頬にもかかる。
「い、やだ、い、いいや、だっ、いやだ、だ、い、やだよゲイル、兄! なん、なん、で剣なん、かっ……かっ抜く……だよ! たすけて! たすけてよ!」
「たすけてよ、ゲイルお兄ちゃん! たすけて、たすけて、たすけて、たすけっ……!」
「――黙れ」
冷たい声が、風にのった。
瞬間、アーロンの口から生えていた触手が消えた。否――そう見えただけだった。消えたと思ったその触手は、ぼとりと鈍い音を立ててミユナの足元に落ちた。ひっとミユナが息を呑む。床に落ちたそれはしばらく蠢き、やがて動きを止めた。
アーロンの悲鳴が船体を揺らさんばかりに響く。
「なるほど」
ゲイルが顔にかかった血を拭いながら、苦笑を漏らした。
「触手でも、痛みはあるみたいだね」
相変わらずの口調。
ケイレブが怯えた表情で震え始めた。叫ぶアーロンの横で、必死に『たすけて』を繰り返している。
視線をそらすことが、エリスには出来なかった。それどころか、ケイレブの顔に浮かぶ血管が何故か皮膚の下で蠢いているのさえ見えるほど、凝視していた。
「何を怯えてるんだい?」
ゲイルが眉尻をさげ、また一歩足を前に踏み出した。
微笑を浮かべている。
「だから、助けてあげるんだよ。おれがね」
「う――」
ケイレブが吼えた。アーロンの悲鳴と二重になった叫び声に、ゲイルが一瞬、煩わしげに眉をしかめる。
その瞬間、二人の体から生えていた触手が、一斉にゲイルに向かって伸びた。
その動きに敵意を――あるいは殺意を――見いだすな、と言う方が無理だろう。そう思わせるだけの速さと勢いがあった。突進する槍のようなそれは、複数本あり、そのうちの幾つかはゲイルの起こした『風』によって斬り飛ばされ、斬り飛ばされなかった二本は、ゲイルの右肩と左腿を貫いた。
悲鳴の一つも上げず、ゲイルは前へ歩くことを止める事もしなかった。
血臭が風に濃く流れ、その血風をゲイルが操る。自らの体にめり込んだその二本の触手を、何の感慨も見せないような動きで、切り落とす。
それでもまだ蠢き、体の中へ潜り込もうとする斬り離された触手を、躊躇いもなくその白い手で掴み、力任せに引き抜く。血なのか、それとも触手についていたあの透明な粘液なのかわからない液体が、甲板に広がる。粘りつく水音をたて、ゲイルは前へ歩いていく。
止めるべきだ。
そのことは、判っていたはずだ。どちらを止めるのか、何をもって止めるのか、それは判らなかったとしても、現状をどうにか止めるべきだと、そのことは判っていたはずなのだ。だが、誰も動かなかった。エリスだけではなく、ミユナも、ジークでさえも動くことは出来ないようだった。
その色のない白い背中を、二箇所だけ赤い華が散り、鮮やかに目に映えるその背中を、見ることしか出来なかった。
強風が吹き荒れる。マストが全ての音を飲み込むかのように激しく鳴り、波が荒立つ。船が揺れた。
吹き荒れた風は、刃のような鋭さを持って二人に向かう。
血が、降りそそぐ。
馬鹿馬鹿しいと思うほど、滑稽に思えるほど、その光景は絵画じみていた。どこかの悪趣味な画家が、死の舞踊だの悪魔の宴だの、そんなタイトルで描きあげれば、傑作になっただろう。
その二人だったものは、幾筋もの風刀に全身を切り刻まれていく。
エリスの顔に血がかかる。振り払うことも出来ず、目を閉じた。
と――軽い衝撃が、まぶたにあたる。
「っ……?」
下ろしていたまぶたを上げ、その衝撃をもたらせた正体であろうものを見ようと、床に視線を落とした。
指だった。
脂肪と骨が覗く断片と、爪さえ見えなかったら、ソーセージのようにすら思えた。だが、それは紛れもなく指だった。子供の小指。
狂ったように鳴り続ける心臓を持て余しながら、ほとんど意識もしないままに顔が持ち上がる。
アーロンの手から、水差しを傾けたときのように血が流れている。指はそこにはない。全ての指は、その手にはなかった。
揺れ始める視界の中で、ゲイルが二人に右手の平を差し向けたのが判った。
アーロンの悲鳴も、ケイレブの泣き叫ぶ声も、エリスの耳には届いていなかった。ただ自らの血液が流れる音だけが、煩く響いていた。
その音の中で、何故かゲイルの声だけは明瞭に聞こえてきた。
「風よ」
たった一言。
今までの中で最大の風が流れた。風に吹き飛ばされかけるエリスとミユナを、ジークが慌てて支える。
船が大きく揺れ、甲板にあったものが滑っていく。
その中で、エリスは真紅の瞳を見開いた。
風が、首を飛ばした。
体は数秒だけ立ち尽くし、ややあってからどうと倒れた。
アーロンとケイレブの頭は、おもちゃのボールのようにごろごろと甲板をころがり、こちらに流れてくる。だが、こちらに届くその前に、ゲイルが足をだして止めた。
「……」
「聞こえないな」
低く、ゲイルが呟く。二つの顔は音を発さなかったが、だが、唇を動かしていた。
ちと、触手の粘液とで鈍く光る剣を持ち上げ、ゲイルが再度呟いた。
「聞こえないよ。アーロン、ケイレブ」
鈍い音が聞こえた。
キャベツに包丁を突き刺したときの音を、幾音も重ね歪ませれば、それに近いかもしれない。
アーロンの水色の目に剣を突きたてたゲイルは、その剣をゆっくりと捻った。形容し難い音が聞こえたときには、アーロンは動きを止めていた。
何かよく判らない透明な汁を垂れ流しながら、割れた眼球は空を――虚空を見上げていた。
それを見届け、ゲイルは無言で剣を引き抜いた。そしてその剣を、今度はケイレブの瞳に刺す。どろりとした、血とそれ以外の何かが甲板に広がった時、ゲイル自身もまた、甲板へとくず折れた。
自分と、弟たちと、それ以外のものが混じりあった血溜まりへと倒れこむ。
終わったのだ。
そう頭が判断した時が、限界だった。
「――っ!」
その場にしゃがみ込み、身を折る。胃の中の物が一斉に逆流し、エリスの口から吐き出された。
麻痺していたはずの鼻に、血の臭いがはっきりと判る。酸に喉が焼け、嘔吐する度に涙があふれた。ごつい手が、数回だけ背を撫でてくれたあと、離れた。
ジークは倒れたままのゲイルの傍に膝をつき、口中で何かを唱え始める。きつく寄せられた眉根に、エリスは気づく余裕もなかったが。
胃の中の物を全て吐き出した頃に、ようやっとミユナが背をさすってくれていた事に気付いた。ぼんやりと視線をあわせると、元々色白の頬が、今ははっきりと青褪めたミユナがいた。ミユナ自身も嘔吐したのかもしれない――だがエリスにはそれを考えるだけの余裕はなかった。
「エリス、ミユナ」
ふいに聞こえた声に、顔を向ける。ジークが、血溜まりの中で立っていた。
「ジーク……ゲイルは……」
「目は覚めてる。怪我は、かなり大雑把にだがとりあえず塞いでおいた」
だが、その言葉とは裏腹にゲイルが動かなかった。仰向けに天を向いたまま、倒れこんでいる。
「ゲイ……ル」
手の甲で口を拭い、エリスはふらりと立ち上がった。襲い掛かってくる眩暈によろけながらも、ゲイルに近付いていく。
血溜まりの中で、金色の髪を赤く染めながら、ゲイルは表情が抜け落ちた顔を空に向けていた。
しゃがみ込もうとしたときに、ジークに頭を軽く叩かれた。
「エリス。少しして、落ち着いたらでいい。ゲイルと一緒に部屋まで戻ってきてくれ」
「……ジーク?」
疑問符を浮かべ、エリスは訊ねた。そう告げるジークの顔に、今まで見たことがないような色を見たからだ。
ジークが、かすかに微笑を浮かべた。
「話さなきゃいけないことがある」
二人から離れ、船内へ入る直前に、ジークは足を止めた。背後の惨劇が、まぶたの裏にちらついている。
煙草でも吸って気を落ち着かせようかと思ったが、止めた。今煙を吸えば、ただむせるだけの結果になるだろう。吸って落ち着けるほどの余裕すら、ない。
顔を上げた。あの赤い甲板を知りもせず、空は青くすんでいる。
彼女の瞳と、同じ色で。
胸中に溜まっていた息を、大きく吐き出した。グローブに包まれた右手を、強く握る。
「イヴ」
呼びかけるときに空を見上げてしまうのは、彼女の目を見つめている感覚に陥るからだろうか。
あの瞳を思い返しているからだろうか。
もう二度と見ることは出来ない、あの瞳を。
「……話す時が、来たみたいだ」
イヴなら、言葉を返してくれたはずだ。
けれど空は、何も返してこない。
空は空であり、あの瞳と同じ色ではあっても、あの瞳ではないのだから。
イヴの瞳は、もう見ることは出来ないのだ。
ジークは静かに、まぶたを下ろした。
ジークが船内へ消えて暫くしてから、ミユナも船内へと入っていった。甲板で起きた事情を船長に話し、後処理を引き受けるといってくれた。こういった事態に対応する術を知っているのは、彼女だからこそかもしれない。それがなかったとしても、様子のおかしかったジークは無論、今の自分やゲイルに事後処理が出来るとも思えず、エリスはその言葉に甘えた。
その間も、瞬きすらせずに空を見上げていたゲイルに、エリスは声をかけた。
「ゲイル……」
「おれ、何をしたのかな」
かすれた声が、漏れる。碧色の瞳は乾ききっていた。
「殺すしか、なかったのかな」
その呟きは、エリスの心中に刺さる。いつかの己の言葉とかぶった。
碧色の光が消える。ゲイルが目を閉じたのだ。
「おれがそう決めて、やっただけか」
「ゲイル」
芸のない呼びかけに、反応があった。エリスの手に、ゲイルの手が重ねられた。
血にまみれたその手を、エリスはただ握り締めた。考えることもせず、当然のように握った。
「ぼくは」
「ゲイル」
少しだけ語尾を強くし、ゲイルの言葉を遮る。震え始めた彼の手を、力をこめて握った。
エリスは、ゆっくりと左右に首を振った。
碧色の目が、僅かに視線を返してくる。そして、また閉じられた。
弱々しい音が、漏れる。
「少しだけ……待って欲しい」
風が吹いた。
穏やかに流れたそれは、ゲイルの髪の幾筋かをかすめていく。
風が吹く赤い甲板で、ゲイルは声も涙もなく――泣いた。