第八章:A marine requiem――潮風の鎮魂歌


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 力任せに蹴りつけたクロゼットの扉が、情けなく鳴いて半開きになった。
 それを確認することもなく、アンジェラは勢い良くベッドに腰から飛び乗った。一瞬足が浮き、長い髪が空に踊る。再度の衝撃に枕が跳ね、ベッドが耳障りな悲鳴を上げた。ふわりと肩口に落ちて来る髪を振り払い、アンジェラは眉根を寄せる。
 彼女の唇から漏れ出た苛立たしさを内蔵した吐息は、細く長く続いた。
「ずいぶん、不機嫌だね」
 苦笑を含んだ声音に、アンジェラは顔は上げずに視線だけを投じた。
 部屋の戸口そばに佇んでいる、同い年くらいの少女が苦笑を浮かべている。
 明るい茶色の髪をお下げにして、煤けた洋服を纏っているその少女に、アンジェラは氷のような瞳を向けた。
「この状況で機嫌が良かったら、頭おかしいんじゃない?」
「ま、そりゃそうだね」
 あっさり頷くと、少女は開いたクロゼットを閉じた。
 年の頃なら、アンジェラと同年齢くらいだろう。ただ、身長が幾ばくかアンジェラより高いことと、落ち着いた物腰のせいもあって、少し上に見える。
 そのことすら、気にくわない。
 アンジェラは募る苛立ちを隠そうともせず、投げやりな口調で続けた。
「鍵、外しなさいよ」
「その鍵は、わたしの管理じゃないもの。アザレルに直接言ってよ」
 これまたあっさりとした解答に、アンジェラは皮肉に笑みを浮かべるのが精一杯だった。
 右手首にはめられた、飾り気のないブレスレットに目を落とす。火が点かない蝋燭に意味はない。眠れない枕にも意味はない。だとしたら、飾り気のない装飾具に、一体何の意味がある? 
(私の能力を封じ込める)
 自問に、すぐに答えが浮かび上がる。だがその答えを正解とするならば、問題の方が間違っている。これは装飾具ではない。ブレスレットの形をした、封印具であり、さらに言えば拘束具でしかない。そんなものをブレスレットと称して良い筈がない。全てが納得がいかない。全てが間違っている。
 銀細工の細いブレスレットに、繊細で小さな鍵穴がくっついている。ブレスレットのサイズからして、手首から抜けるものでもなく、無理やり切ろうにも何故か異常な強固さだった。アンジェラの細く白い手首には、その時についてしまった傷が赤く血の線として浮かび上がっている。
 一箇所、深く切ってしまった場所は痺れが残っていて、血もいつまでも滲み出てくる始末だ。魔導を――法技を使用しようにも、魔法を使用しようにも、何故か上手くいかない。
 全てがからまわる。傷は痛み、血は流れる。魔導は使用できない。同い年くらいのはずの少女は、自分より大人びている。ベッドは耳障りに鳴く。クロゼットは素直に閉まらない。
 エリスが傍にいない。
 アンジェラは、親指の爪を噛んだ。小さな音が内耳に届く。目の前の少女の吐息だ。
「あんま、苛々しててもどうしようもないよ。そうなれば何も見えなくなるだけ」
「……」
「あ。わたし、スージーね。一応、貴女の身の回りの世話担当になったからさ。なんかあったら言って」
「とっととこのブレスレットを外しなさい。私をエリスのもとへ帰して」
「応じられるかどうかは、まったく別だよ。ちなみに一応答えるなら、それはノーね」
 意地悪な生徒の問いかけをすり抜ける教師のごとき口調で、スージーが答える。その、どこか空虚な口調のまま、彼女は続けた。
「どうせ、なるようにしかならないわ。じたばたしたって、死ぬときは死ぬんだもの。ここにいる限り、死はいつだって隣り合わせ。何が起きるかなんて、先見の能力をもっていても意味がないと思うな。結局ね、私たちは何も出来ない。生きるのも死ぬのも、同じ次元にあるんだよ。ここにいる限りはね」
 その、言葉に――アンジェラは手元にあった枕を我知らず投げつけていた。
 懇親の力をこめて投げた枕は、スージーの頬に鋭い音を残し床に落ちる。
 白い頬をさすりながら、スージーがうめいた。
「いったぁ……何するのよ」
「死にたがりにつける薬はないわ。そういう奴らが、私は一番大嫌いよ。死にたいなら、とっとと死になさい。誰も止めやしないわ」
 鋭く告げたアンジェラのその言葉に、スージーが困ったように眉を寄せた。
「別に死にたいって思ってるわけじゃないんだけど」
「生きようとも死のうともしない奴は、余計に邪魔ね。ゴミ以下よ。消えなさい」
「酷いなぁ」
 スージーは、それでも軽い口調で笑っている。
 思わず頭に血が上る。アンジェラはベッドサイドに置いてあった香水瓶を掴みあげた。
「だって、死んだんだもの」
 投げつけようとした手が、その言葉に反応を示して動かなくなる。
「え……」
「死んだんだもの。また二人。どんどん減ってくな」
 スージーは、遠くを見るように目を細めた。
 アンジェラの手の中にあった香水瓶が、するりと滑り落ちた。響く音を残し、瓶が砕け散る。
 床に淡い薔薇色の水が広がる。
「明日は、わたしの番かもしれない」
 息が詰まるほどの甘い香りの中、スージーが色のない笑みを浮かべた。
「ここって。ラボって、そういうところなんだよ」
 甘い香りに、吐き気がした。


「とりあえず、座れ。ゲイル、立ってんのも辛いだろ」
 相変わらずのぞんざいな口調で、ジークが苦笑した。顎で、ゲイルに座るようにと促す。
 ゲイルはその仕草に動かされた操り人形のような動きで、ぽすりとベッドに腰を落とした。その動作を見届けてから、ジークは先ほどまで自らが座っていた椅子を引き寄せた。『眼』の開いた、右手で。
 そのまま、重たい動作で椅子に腰をかける。
 ぎっと軋む椅子の音が、狭い船室に広がった。
 僅かな沈黙に、潮騒の音と、他の客室からの騒ぎ声が響いてくる。
「後数分ほどしたら、俺たち全員海にほっぽり出されるかもな」
 ぽつりと、ジークが苦笑を漏らす。甲板の惨状を考えれば、それは十二分にありえることだった。だが、ミユナが否定の言葉を告げる。
「それはない。とりあえず、ホワイト・フィールドが次の港だったから。そこまでは乗せて貰えるように交渉してきた」
 その口調に、エリスは小さな違和感を覚えた。口調は普段のミユナでありながら、音の響きがグレイージュで見た『姫』としてのその音だったのだ。柔らかに聞こえるどこかで、他人行儀な響きも持ち合わせているような、そんな音。
 無論ジークとて気付いたはずだろう。こう言ったことに関しては、彼は誰よりも鋭い傾向がある。だが、そのことには触れず、ジークはあからさまに驚いた様子を示してみせた。
「どうやって」
「別に。フルネーム、名乗っただけ」
 つまりは、グレイージュ公家の名前を持ち出したと言うことだろう。ジークが思い切り顔をしかめて太い笑みを作った。
「無茶苦茶しやがる」
 そして、その苦笑を最後に、再度沈黙が落ちた。
 エリスは、何も言えずにただじっとジークを見つめていた。ワインレッドの瞳が、こちらを見返してくる。
 後悔を多分に含んだ苦笑を浮かべて。
「一応、エリスのお嬢ちゃんもこれが何かは判ったようだから、勉強の成果はあったってことかね」
「ジーク……」
 ジークは、右手のひらをこちらに向けた。その漆黒の『眼』に見据えられ、エリスは身を硬くして息を呑んだ。
 捕らえられ、動くことが出来ない闇のような『眼』。
「この目に触れたものは、物も、人も、消滅する。正確に言うならば、根源から『存在を否定する』――つまり『なかったこと』になる。俺がそう望めばな。試しに、ちょいと船長に訊ねて来てみればいいさ。この部屋にあった椅子は何脚ですか、ってな。一脚。そう返ってくるはずさ」
 それこそ、まるきり教科書を読むような、軽い口調でジークは続けた。
「これは魔族にしかないものだ。月の者の証が石だとするなら、神族の証があざだとするなら、魔族の証はこの眼だ。そして魔族は、この大陸には存在しない」
 床に落ちた手袋を拾い上げ、だが付けることはせずにジークは呟いてきた。
「答えが判るか? お嬢ちゃん」
「……魔聖大陸パンドラ」
「ああ。正解だ」
 こくりと、ジークが頷いた。こちらを順番に見つめて、笑う。
「俺はルナ大陸の人間じゃない。魔聖大陸パンドラ。暗黒神エレボスの使者。――魔族だ」


 火の入っていないランタンが揺れる様子を見ながら、ジークは軽い口調で続けている。
「俺は二年前までラボにいた。五年前にパンドラ大陸の実家からラボに連れて来られて、それからな。その三年間の間に俺の世話をしてくれたのが、イヴだった。これで、俺がラボの内情に詳しいわけも判っただろ」
 胸元に下がっている木彫りのペンダントを弄びながら、その目は口元とは裏腹に陰りを浮かべていた。
「桜春<オウチュン>が言っていた、ラボにいた魔族って……」
「ああ、俺のことだろうな。俺は外部の情報を知ろうともしなかったから、あの譲ちゃんのことは知らなかったし、もう一人いたオール・ノウズってのも初耳だったけどな」
 ミユナの強張った声に、ジークが頷く。ミユナが、僅かに目を伏せた。
 こちらの、見つめる視線に気付いたのだろう。
 ジークがゆっくりと立ち上がり、一歩、一歩とこちらに歩み寄ってきた。
 目の前で立ち止まり、右手のひらを、エリスに向けた。
 思わず漏れ出かけた悲鳴を飲み込み、だが、エリスは動けなかった。
 全てを否定する眼が、今、まさに、目の前に掲げられている。
「俺が怖いか、嬢ちゃん?」
 ジークが、くすりと笑って手を下ろした。エリスはその時になってようやく、自分の失態に気づいた。慌てて立ち上がる。が、すでにジークは背を向けてこちらから遠ざかろうとしはじめていた。
「ちがっ……」
「怖がるのは、無理もない。それは本能的な恐怖だろうな。この眼がある限り、俺はいつだってお前たちを消せる。それは事実なんだからな。――すまんな。だから……かな。お前たちには、話したくなかった。だが、さすがにもう、限界だと思ったんだよ」
「違うってば!」
 背を向けていたジークの右手を、エリスは反射的に掴んでいた。
 驚いたように、ジークが肩越しに振り返る。そのワイン色の瞳を見上げて、エリスは早口で告げた。
「違うって言ってるの、ちゃんと話最後まで聞いてよ」
 ジークの右手のひらは、熱かった。皮がごつごつと厚く、骨も太い。そして、手のひらには確かに違和感があった。だが――それだけだ。
 ジークの瞳を見上げながら、エリスはふと馬鹿馬鹿しくなって小さな笑いを漏らした。
 その行動に、彼の目が丸くなる。
「嬢ちゃん?」
「ジーク、この手でぽんぽん人の頭撫でまくってたじゃない」
 笑いかけると、ジークの顔に困惑の表情が浮かんだ。
「それは……」
「その手が怖い、とか今更言われても、なんと言うか本当に今更なんだけど」
 力が抜けているジークの右腕を持ち上げ、エリスはそのままその手を自分の頭の上に置かせた。いつもの重みだ、と納得しかけ、それがさらに笑いをうんだ。
「そりゃ確かに、びっくりはしたけど。でもなんか、今までの妙な違和感とか、全部納得いったし。それに、ジーク言ったでしょ」
 ジークの目が、困惑の色の中で落ち着かなさげに動いているのが、さらに滑稽だった。
「俺が望めば――って。あんた別に、そんなの望まないでしょ。だったら、問題ないじゃん」
 エリスのその言葉に、ミユナが吹きだした。
「それもそうだ。確かに、ジークの妙な訛りやら、何の神に仕えている神官やら判らないとこも全部納得いくな。暗黒神エレボスに仕える神官、なんだろ?」
「あ……ああ……」
 それでも、未だに呆然とした感が抜けないジークに、ゲイルが小さく声をかけた。
「イヴが、言ってたよ。おれたちの力は、凶器だけど。それを扱うのは、意思を決めるおれたち自身だって。だからおれは、ジークは怖いとは思わない。少なくとも、おれ自身よりはね」
 ジークの表情に、ゆっくりと苦笑が戻ってくる。だが、その苦笑は今までとは違い暖かな苦笑だった。
「イヴか」
「イヴ、ってのは……」
 ミユナの呟きに、ジークが穏やかに笑みを浮かべた。
「ゲイル達の妹だった。イヴ・バージニア。ラボにいた魔女のひとりだ。視線を媒介にして、他人を傀儡にする能力がある。だから、俺の世話役になったんだろうな。いざというときは、俺を傀儡にしてしまえばすむ訳だから」
「……それで、ジークが手を出した」
 エリスの呟きに、ジークは笑みを深くした。
「この馬鹿たれ」
 右手で頭を乱暴に撫でられ、エリスはほっと笑みを浮かべながら――どこかで消えない痛みを持て余していた。


 夜の海は、月明かりをうけ反射を広げている。
 ただ規則正しくさざめく波音に、時折マストの音が混じった。
 そして、それらを包み込むかのように柔らかなオカリナの音色が広がっていく。
 甲板の上――目を伏せたままオカリナを吹くミユナを、エリスはただじっと見つめていた。


 アメジストの瞳は、四角い空から覗く闇空へと向けられていた。
 小さな唇は、唄を紡ぎ出す。
 切なげな旋律は、やがて月夜を覆い尽くしていった。
「哀しい唄だね」
 ふと割り込んできた声に、アンジェラは唄を止めた。
 視線を戸口へと投げる。
 スージーが立ち尽くしていた。
 その瞳に、切なげな色が浮かんでいる。
「……そりゃ、ね」
 それ以上何かを言う気にはなれず、アンジェラは再度唇を開いた。


 目を閉じて、オカリナの音色に耳を澄ませる。
 なだらかなメロディラインと、スローテンポな曲調は、そう――たしかに、ついこの間耳にした。
 今も、聞こえてきそうに感じた。
 アンジェラの好きな曲だ。
 オカリナの音色が、空に溶けていく。
 海を包み、風をはらみ、月に磨かれ広がっていく。
 静かなその曲が終わると、ミユナの銀青色の瞳が開かれた。
 彼女は、気付いていたのかもしれない。曲の途中から、エリスが船室から出て来てその音色に聞き惚れていたのを。
 オカリナから口を離すと、ミユナは静かな声で呟いた。
「せめてもの、鎮魂歌だ。……あの子らにな」
「……そっか」


 硬いベッドの中、ゲイルは甲板から流れてくるそのメロディに身を任せていた。
 頬を伝う雫は、何故今更になって流れてくるのか――ゲイルには判らなかった。


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