第九章:Eve's eye is skyblue――空の瞳を持つ少女


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 女が、立って居る。
 血よりもなお紅き両の眼を、真っ直ぐに据えて立って居る。
 踝まで伸びる細く艶やかな金糸の髪。雪よりもなお白き透き通った肌。引き結ばれた唇も、真紅。
 すっと通った鼻筋も、切れ長の眦(まなじり)も、おおよそこの世の物とは思えぬほど整い、美しかった。
 妖艶たる女が、立って居る。
 ほぼ裸身のままのその女は、美しきその顔を、ほんの少し歪めた。
 ――我を信じぬと言うのか。
 薄く開かれた唇から、言葉が発せられる。だが、それは声ではない。声などと言う俗世の穢れに纏われたものではない。言葉でしかない。
 女の言葉は、苦渋の色を滲ませていた。否。苦渋。哀願。羨望。嫉妬。怒り――様々な感情が、交じり合い、だが、そのせいで全ての感情が打ち消されたかのような色だ。
 その言葉は、女が見据える者へと向けられている。
 血色の眼が見据える先は、真の闇だ。陽炎のように、蜃気楼のように、揺らぎ、形を留めようとしない闇だ。
 目を凝らし、じっと見詰め続ければ、その揺らぎが僅かながら、大雑把ながらに人型を模して居るのが判るかも知れない。
 闇が揺らぐ。
 ――この世を生み出したのは、私だ。
 ――だから、我を信じぬと言うのか!
 激昂。
 女の叫びに、闇は揺らぐだけだ。血を吐くかのような叫びに、闇は何も変わらない。
 ――そなたは我を認めたのではないのか。我に世を分け与え、我の力を認めたのではないのか。
 闇は、応えない。
 ――我はそなたと共に歩む。そなたが与えた永遠の命で、そなたに永久に仕えよう。
 闇はただ、広がるだけだ。広がり、女を包み込む。金糸の髪が夜に喰われ、白き裸体は闇に染まりいく。
 ――それの何が気にいらない。我が元のこの大陸も、そなたのために使おう。
 闇に侵蝕され、女の顔が歪む。悲痛と、絶望と、足掻きに。
 ――応えよ! 運命の名を持ちし者よ!
 白き裸体も、美しき唇も、闇に飲み込まれる。
 残りし物は、血よりなお紅き、両の瞳なりて。
 ――応えよ! ディスティ!
 闇が、全てを飲み込んだ。
 胎動する闇が、告げた。
 ――セレネよ。
 ――己が力を過信せし、哀れな女神よ。
 ――汝に、新たなる名をしんぜよう。
 ――月狂いたる汝に。
 ――ルナの名を与えん。

 闇は、それきり動きを見せない。
 闇の中に、紅く灯火が浮かぶ。
 闇夜に浮かぶ、紅の月のごとき円は、両腕を広げていった。
 ――そなたの応えがそれだと言うのなら、我は働きかけるのみ。
 真紅の円は、ある大きさで動きを止めた。光が強くなる。
 ――そなたが、振り向かざるを得ないように。
 ――この、我が世は、何よりも完全たる存在になる。
 ――我が子らによって。

 ――月の子よ。

 そして、紅の光が闇を塗り替える。


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 がたんっと派手な音を立てて、エリスはその場に膝を付いた。
「エリス!」
 背後から駆けて来たらしいミユなの声が、僅かながら耳に届く。
 エリスの顔色は、蒼白と言えるほどに変じていた。小さな肩が、小刻みに揺れている。血色の両の目が、見開かれて恐怖の色を宿していた。
「エリス、どうした。何があった!?」
「……」
 唇を開けたが、答えが出るはずもない。全身から吹き出る冷や汗。体中の細胞が悲鳴を上げている。地面についている手も、それを支えている肘も、かくかくと頼りなく揺れている。
「エリス」
 肩を支えてくれたミユナに、エリスはただ左右に首を振る事しか出来なかった。
 説明の仕様もない。ただ、酷く心臓が高鳴り、呼吸が乱れ、体中が悲鳴を上げていると言う事以外には判らない。
(今のは……何)
 飛び込んできた思念。映像。
 ふと気付くと、手のなかの二つの石は輝きを失っている。
 とすれば、やはりあの光は、ルナが呼んだのか。
(――違う)
 根拠はなく、だがエリスは確信した。そうではない。それではない。石が反応したのは、あれではない。
 もっと、別の何かだ。
「……?」
 ふと、支えていてくれたミユナの手が離れていることに気付いた。
 疑問符を浮かべながら、重い首を上げようと力をこめる。
 その、俯いたエリスの目の前に、褐色の手が差し伸べられた。
「……大丈夫か」
「っ!?」
 その声に、弾かれるようにエリスは顔を上げた。
 今度こそ、心臓が動きを停止するのではないかと、そう思った。
 膝を付き、エリスに手を差し伸べている。
 褐色の肌。銀色の髪。年の頃なら、エリスと同い年くらいだ。背はさほど高くもなく、中肉中背の少年。
 そして、何よりもその澄んだ黒瞳。
 見違えるはずがなかった。
 手を差し伸べるその少年の顔を、エリスが見違えるはずがない。
 面と向かい言葉を交わしたのは、数度だけだったとしても。それでも、間違うはずがなかった。
 差し伸べられた手のひらと、その顔を見つめ、エリスは呆然と呟いた。
「……ダリードくん……」
「ああ」
 彼は――その少年は、無造作に頷いた。
「立て、るか?」
「……」
 意識と体が別物になったかのような、違和感があった。
 ありえないと、判っている。
 彼は死んだのだ。
 殺したのだから。
 今エリスの腰にぶら下がっている剣が、確かにこの少年の心臓を貫いたのだから。
 そのときの感触も、降りかかった血の花片の熱さも、まだはっきりと覚えている。
 ありえない。
 判って、いる。
 だが、体は意識とは別物だった。差し伸べられた手に、自らの手を重ねた。少し荒れた褐色の手は、冷たくもなく熱くもない。指が動き、握るように閉じられた。ゆっくりと引っ張られ、立ち上がる。
 地に足がついていないかのような、浮遊感。
 立ち上がったと同時に、かくんと膝が折れ、エリスはダリードにもたれかかった。
「大丈夫、か」
(大丈夫なはずがない)
 支えてくれたダリードの言葉に、エリスの中で別の誰かが反射的にそう返した。
 大丈夫な、はずがない。
 支えているダリードの腕は、確かに彼のものなのだろうか。そんなはずはない。だが、腕の硬さには覚えがある。そんなはずはないと、判っているのに。
「来て……くれたんだな」
 不器用な響き。同じような不器用さで、腕が回される。後頭部に、手のひらの感触。ダリードの肩口に、顔を押し付けられる。
 違うと、判っているのに。
 感情が、檻を破って暴れだしそうだった。泣きたいのか、怒りたいのか、否定したいのか、認めたいのか、判らない。交じり合った感情が、体を破って飛び出しかねない。
 ミユナが手を離したのは、このせいなのだろう。ダリードの姿を見とめ、驚きに手が離れたのだろう。ゲイルの声が聞こえないのも、同じ理由かもしれない。
「ダリード君が、呼んだの?」
 歯の根が合わない中から、エリスはそう訊ねた。
 ダリードが頷いたのが判った。視界が揺らぎ、体が震える。
 知っていると感じたのは、これだったのか。
 あの星祭の夜に感じたものと、似ているのだろうか。
「……めん……なさい」
 知らずに、唇がそう告げていた。音は、触れ合っているダリードの肩へと吸収される。熱い湯が、体の中心を駆け上り、顔にまで達したかのような感触。込み上げて来るそれは、顔の半分を過ぎた所で溢れ返りそうに広がる。
「謝る事じゃない」
 かすれた、不器用な台詞。それは確かに、彼のものだと感じた。
 だが次の瞬間、エリスの体はダリードから剥がされていた。
 肩口を強く引かれ、後ろに反り返る。後方へとつんのめりそうになったエリスの体を、肩を引いた張本人が抱きとめた。
 思ったより硬い胸板に背を預ける形になり、エリスはそのまま顔を上げた。
 怒りに染めかえられた形相がそこにあった。
 激昂を隠そうともせず、ゲイルがエリスの肩を抱いたままダリードを睨みつけている。
「ゲイル……?」
「ふざけるな」
 静かな言葉だった。炎は、紅い時よりも青い時のほうが温度が高いという。それに似た静かなる言葉。けれど確かに、怒り。
 ダリードが、僅かに眉を寄せた。困惑するかのように。
「ゲイ……」
「ふざけるな!」
 呼びかけようとしたダリードに、ゲイルは怒りを叩きつけた。エリスの肩を掴む手に力がこもり、僅かに痛みが走る。
 すうと、ゲイルが空気を呑んだ。その瞬間、理解する。
 これは夢ではない。現実だ。地に足がついている。
 足の裏の感触を確かめ、エリスはそっとゲイルの手に自らの手を重ねた。歪む目で見下ろしてくるゲイルに、小さく首をふる。ゲイルの手を剥がし、エリスは一歩前に出た。
 ダリードの黒瞳を見据える。
 狂ったように高鳴っていた心臓は、今は驚くほど静かになっていた。深く呼吸をひとつ。
「――あんた、何者?」
 凍った泉に雫を落としたかのように、それは遺跡内に響いた。
 ダリードの表情は変わらない。
 エリスはゆっくりと腰の剣を引き抜いた。柄の傷を人差し指でなぞる。あの日、ダリードを殺した時、エリス自身を救ったのはこの傷のなれた感触だった。その事を思い返しながら、構える。
 切っ先を、ダリードに据えた。
 あの時と同じように。
「あたしも、馬鹿だね。殺したのはあたしだ。彼が生きているはずはないのに。その感触だってまだはっきり覚えているのに。なのに、惑わされたよ」
 その、澄んだ瞳に。
 ただの、外見に。
「悪趣味にも程があるよ。いくらなんでもね」
 くっと剣をさらに突きつけた。ダリードの眉間に、触れるか触れないかのぎりぎりの位置で、それは止まる。
 その体勢のまま――ゆっくりとダリードが微笑んだ。
 あの月の夜に見せた微笑みと同じに。
「そうか」
 その言葉を合図に、エリスは動いていた。
 右足を強く踏み出し、剣を矢のように突き出す。ダリードは上体を反らし、飛び退る。剣の切っ先は銀色の髪を幾本か斬り飛ばしたに過ぎなかった。
 剣の元へと体を引き寄せ、腕の中で暴れだそうとする猛獣を右腕の力だけで宥める。右肩がぎりっと鈍い悲鳴を上げた。それには構わず、剣を振るう。勢いをそのままにした剣は、流れた褐色の影を浅く裂いた。かすかな手ごたえが、剣を通じて伝わってくる。
 だが、それだけだった。
 エリスの右へ廻った褐色の影は、その瞬間溶けていた。
 悲鳴を上げた右肩を左手で支え、だが剣はしまわないままエリスは吐き捨てた。
「やっぱりあんたか。アザレル・ロード」
 顔を右に向けた。
「はい。やはり見破られちゃいましたね」
 そこに居たのは、栗色の髪をふわりと結った女性だった。穏やかな笑みを、浮かべている。
「貴様……!」
 ミユナが、叫んだ。怒りに顔を紅く染め、走り出す。細い剣を抜き、構えた。
 アザレルは動かなかった。ただ紅が引かれた唇の口角を、少し上げた。
 切っ先が、抜けた。
「……!?」
 困惑にたたらを踏んだミユナの顔へと、アザレルが手のひらを向ける。ミユナの顔に恐怖が張り付く。
 空気が破裂した。
 そうとしか例え様のない音を立て、ミユナの細い体が後方へと飛ばされる。
 受身は、取れたようだった。転がるミユナの姿に、一瞬でそう判断する。喉をつきかけた悲鳴を呑み込み、エリスは視線をアザレルへと合わせた。
「無駄ですよ」
 アザレルが小さく笑った。低い呻き声を上げ、立ち上がろうともがくミユナへと視線を落としながら、笑っている。
「今のわたくしのこの姿は、ただの幻影。蜃気楼のようなものですから。物理的攻撃は、作用しません」
「どういうこと?」
 目を細め、エリスは訊ねた。アザレルの栗色の目が、こちらに向けられる。
「視覚と言うものは――実はこれでいて、あまり当てになるものでもないのですよ。エリスさん。貴女が見た『彼』の姿も、所詮は幻影。幻にしか過ぎません。粒子を少し弄るだけで、簡単に人は騙される。視覚も、そして触覚すらも――」
「あたし、あんまり頭が良くなくてね。そう言った話には興味も覚えないんだよ、悪いけど」
 アザレルの言葉を遮り、エリスは呟いた。
「あたしが興味あるのは、アンジェラのこと。それから、どうやったらあんたをぶち倒せるかってことだ」
 ゲイルがミユナを抱き起こしているのを視界の片隅に収め、エリスは腹腔に溜まった息を吐き出した。
「ジークの――イヴさんのあれも、あんたの仕業だね?」
 ちりちりと胃が痛む。ともすれば暴れだし、吼えかねない感情を檻の中へ閉じ込め、エリスは握った剣の柄を指でなぞった。
「ええ」
 アザレルが、至極当然と言わんばかりに頷いた。その目が、柔らかく緩む。
「わたくしはアザレル・ロード。――主に仕えし、死を司る天使。我が主ルナ様より頂いた、能力は、死――」
 詩吟を詠むかのような、高揚した口調でアザレルは続けた。
「死者の『想い』を呼び起こし、幻影のように見せることなど造作もありません」
 アザレルの指が、指揮者のタクトのように踊った。
「素敵な夢ではありませんか。大切な、大切なあの人が帰ってくる素敵な素敵な、夢」
「……そんなのは、悪夢だ」
 まぶたの裏にちらつく少年の顔を振り払い、エリスは告げた。
 ジークの横顔を思い出す。
 愛する人を、亡くした愛する人を抱きしめた、あの横顔を。
 あれは、美しすぎる――悪夢でしかない。
「そんなのは、ただの悪夢でしかない! イヴさんも、ダリードも――!」
「ダリードは、本人の意思じゃありませんよ」
 アザレルは、あっさりと否定した。
「イヴは、本人の『想い』を呼べましたが、ダリードは抵抗が激しくてね。イヴ程度の力での抵抗なら、わたくしの力で抑えられます。けれどダリードは、あれでも月の者ですから」
 ふふっと、アザレルが笑みをこぼした。楽しげなおもちゃを見つけた子供の笑み。
「死してなおわたくしに逆らうとは……全く、困った子よね」
 血の味が滲んだ。
 強く下唇を噛み、エリスは頬に力を入れた。
(ダリードくん……)
 伏せた視界に、光が映った。
 紅く、呼吸のように明滅する二つの光。
「……」
 再度心臓が高鳴った。知らずに地面に落ちていた二つの石が、光を放っている。
「――蒼竜にお会いなさい。エリスさん。それがルナ様のご意思。この遺跡の反対側にあるのが、蒼竜の遺跡です」
 剣を強く握った。両手のひらに、剣の重みがかかる。光が紅く明滅する。それに合わせるように、息を整えた。
「そんなのは、どうでもいいの」
 静かに、呟く。剣を構えた。
 切っ先と視線を、アザレルに据える。
 そして、足の裏が大地を蹴った。色彩が流れ、視界が斜線に転ずる。気付くと、アザレルの顔が目前に迫っていた。
 渾身の力をスピードに乗せ、剣を振るう。
 紅の光が跳ね、手のひらに手ごたえが伝わった。
「……!?」
 押し殺した悲鳴が漏れた。
 愕然とした表情のアザレルの姿が、それこそ蜃気楼のように歪んだ。
「……何、故」
 アザレルの姿が、薄くなった。文字通り、透けているのだ。後ろにある壁が見えている。
「何故――この姿は、幻影でしかないのに――何故!? 何故、わたくしにまで――」
「出来るって、思ったから」
 うめくアザレルに、剣を構えたままエリスは答えた。肩が上下し、呼吸も荒くなっている。だが、その目に宿る力だけは、輝きを失っていない。
「出来るって、思った。石が……あたしと、彼の石が、応えてくれた」
 真紅の瞳でアザレルを見据え、エリスは口を開いた。
「……もう一発、喰らいたい?」
「……!」
 アザレルの顔が、醜く歪んだ。その姿が、空に溶け消える。
 予言めいた音だけを残し。
「――その真紅の瞳は彼の方と同じ罪の証。その身に秘めし力は、人の中で誰よりも彼の方に近し証」
 疲労が身を苛む。
 再度地面にくず折れたエリスの耳に、苦痛のうめきでありながら、しかしどこか高揚した響きを持つアザレルの声が残った。
「貴女の力の片鱗――楽しみです。楽しみですよ、エリスさん」
 苦痛と、高揚と、激情が交じり合った笑い声は、反響しながら消えていった。


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