第十一章:To darling you――愛する者へ
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女神の塔の最上階へ続くひとつ前の部屋。そこに彼女たちはいた。
塔の窓からは、昇りたての血色の月が見下ろせる。
アザレルの姿はそこにはなかった。
細い肩を震わせ、懸命に怯えを殺そうとしている少女を見やり、イヴはふと手を伸ばしかけ――やめた。それは自分の役目ではない。あの赤い少女の役目だ。
「アンジェラさん」
イヴの呼びかけに、アンジェラは目を上げた。この状況においても、その瞳に宿る力強さは曇らない。
(強いな)
ふと、イヴは思う。それはイヴが持ち得なかった強さだ。
自分が操った弟が、妹を殺した。弟の小さな手に収められていたナイフが妹の細い喉を裂いた。上手く操っていれば、避けられたはずの事故。ひゅうひゅうという呼吸の音と同時に溢れ出す血に、弟は泣き叫んだ。妹はただ呼吸を漏らしながら苦しみぬいて死んでいった。
その光景を、イヴは繰り返し夢にみた。眠っている時だけではなく、起きている間にもそれは見えた。例えばベッドメイキングをしている時。例えば料理をしている時。ふと振り返ると、妹がそこに立っていて手を伸ばしてくる。そんな幻覚。
イヴはそれに怯えた。そして、考えたのだ。いつも傍にいる彼を――今度は殺してしまうのではないかと。
一度取り付いたその考えは、馬鹿げていると知りながら振り払うことが出来なかった。ジークの笑みを見るたびにその考えは膨れ上がり、耐えられなくなっていった。
そして、彼女は死を選んだ。
それは逃げだったのだろう。馬鹿げた、どうしようもない、逃避。
自分にはそれしか選べなかったが、とイヴは考える。
アンジェラなら、どうなのだろう。目の前にいるこの少女なら、そんな馬鹿げた選択肢は選ばなかったのだろうかと。
そう考え、イヴは口火を切った。
「ひとつ、お願いがあるの」
「……この状況で、私に出来ることなんて限られてるけど。いいわ、何?」
アメジストの瞳を合わせて、アンジェラは頷いた。
その瞳を見返しながら、イヴが微笑む。
「――生きてね」
「……え?」
唐突といえば唐突な言葉に、アンジェラが眉根を寄せた。だがイヴはそれに構わずに、言葉を続ける。
「生きてね、アンジェラさん」
「そんなこと、言われなくても生きるわよ。死ぬつもりなんてない」
「そうね」
イヴは頷く。そう、彼女は死を選ぶはずがない。自分とは違うのだ。
「ちゃんと、生きてね。せっかく、貴女は生きてるんだから。楽しまなきゃ、損だよ」
「いきなり、何よ?」
訝しげなアンジェラに、イヴは微笑んだ。
「わたし、ずっと考えてたの。生きている時に、ね。確かにわたしたちの境遇って、決していいものじゃなかったって思う。けど、生きてたの。それって、すごいことよね。だから、せっかく生きてるんだから、楽しまなきゃ損だって思ったのよ。境遇を恨むことなんて誰にでも出来る。でもそんなの、つまらないじゃない? 生きてるんだから、楽しまなきゃ損だよね」
それから、イヴは微かに視線を落とした。
「わたしは、それを最後まで守れなかったのだけど」
もう、死んでしまったから。
「――だからこそ、生きて欲しいの。貴女達には、生きてることを、楽しんで欲しいの」
アンジェラはそう告げるイヴの目を見据え、ややあってからゆっくりと頷いた。
「判ったわ」
「……ありがとう」
泣き笑いのような表情のイヴは、それから、と続けた。
「ジークのこと、お願いして、いい?」
「……は?」
「わたしはもうすぐ、消えるから。記憶なんて、アザレルが操ったところでそう長続きしないわ」
そう言って、イヴはくすりと微笑んだ。
「だから、彼が――お酒飲みすぎたり、馬鹿な真似をしたらさ、わたしの代わりに怒ってあげて」
その願いに、アンジェラはしばらく返答をしなかった。
イヴの空色の瞳を見据え、黙考をした。
それからゆっくりと、告げる。
「断るわ」
アンジェラはアメジストの瞳を微動だにせず、告げた。
「それは私の役目じゃない。貴女の役目でしょ? イヴさん」
「けどわたしは――」
「貴女が自分で、やりなさいよ」
突き放すようなその言葉に、イヴは顔をゆがめた。
判ったのだ。それが、彼女なりの優しさだと。冷たく見える、けれど限りない優しさだと。
だからイヴは何も言わなかった。
その代わりに、小さく――本当に小さく、頷いた。
その願いは、近いうちに途切れるものだとしても。
そして――扉が開かれる。
ミユナの両親が残した部屋を抜け、廊下に飛び出す。
ドゥールに対するジークの怒りの気は決して収まってはいなかったが、エリスはそれを諌めた。
怒りの原因――少なくとも一因であるであろうエリス自身から諌められては、ジークとて矛先を収めずにはいられなかったようで、苦々しい表情は隠そうとはせず、しかしながらその場は引いた。
泣き笑いのような、どこか安堵したようなゲイルの表情に、ドゥールは少しばかり申し訳なさそうに頭を下げ、次の瞬間にはそれらの確執を消し、エリスたちは駆けていた。
誰もが理解していた。今はその時ではない。
確執があるとすれば、後で解けば良い。
曲線になった廊下を駆け、階段を見つけた。半ば以上頭では考えず、駆け上がる。
階段を上ると、その度に全身を痛みが貫いた。肉体が上げる悲鳴を自覚しながらも、エリスはそれを表には出さずにただ走る。
中でも、右肩が焼けるように痛んでいた。骨に異常があるかもしれない――そう自覚しながらも手当てもせずに放っておいたせいだろう。自業自得とはいえ、さすがに顔が歪むのは自制できない。どこかでジークに頼むしかないだろうと思い、しかしタイミングを掴めずにやはりただ走る。
息が上がり、汗が流れ――どれほどの階段を駆け上がった頃か、エリス自身痛みの中で時間感覚を失いつつあったので判らなかったが、ふいに階段が途切れた。
足を止めると同時に軽くふらついたエリスの左肩をゲイルが支える。
「エリスちゃん」
「平気。――ここ、は……?」
呟きながら、しかし明確な答えは目の前に提示されていた。廊下だ。
ただし、今までのような無機質な廊下とは趣を逸していた。くすんだ赤い絨毯が敷かれ、直線に伸びている。その先にはバルコニーなのだろうか、外へ続くと思しき両開きの扉。扉の取っ手には金の獅子が顎(あぎと)をあけており、扉の前面は色硝子で出来ている。色硝子で綴られた絵は、祈りを捧げる乙女の姿と、薔薇色に輝く夜空の月。その硝子絵の中央に座すのは、赤子を掲げ、金糸の髪をなびかせる女神の姿。
その扉の向こうに見える空は、暗い。
廊下には他にも装飾品がいくつもあった。壁にかけられたイコン(聖像画)、古い装飾芸術品であろう剣や盾。ロウソクが揺れる燭台も壁にかかってあり、その隣には大きな――高価であろう――機械時計、さらには全身甲冑なんかも幾体か、槍を携えた姿で佇んでいる。
そして天井には、幾本ものロウソクを湛えた大きなシャンデリア。場所が場所でなければ、今ここで舞踏会でも始まりそうな――そんな様相だ。ただしその空間が纏う雰囲気は、舞踏会の華やかさではない。澱み、しかしながら沸き立つような、一種異様な空気だ。
その空気に飲まれるように立ち尽くしたエリスは、視線をゆっくりと這わせ――そして、硬直した。
つい先ほどまでなかった姿がそこにある。バルコニーへ続く扉の前、ひとりの少女が佇んでいた。
肩口までの金色の髪。淡いピンクの服。頭には同色の帽子をかぶっている、小柄な少女。その瞳は、空の色。
「――イヴッ!」
すぐ前に立っていたジークが短い叫びを上げると走り出した。その巨体に、半ば体当たりするかの勢いでイヴが飛び込んでくる。小柄なイヴの体を強く抱きしめると、ジークはその髪に顔をうずめた。
「イヴ……」
「ジーク」
イヴもまた、微かに震える声音でジークの名を呼ぶ。その姿を見、エリスはほぼ無意識のうちに視線を走らせていた。
彼女がいるなら――アンジェラも傍にいるはずだと、その期待を抱いて。
だがその期待はあっけなく打ち砕かれた。廊下には他に姿はない。それを怪訝に思ったのはエリスだけではなかったようだ。ジークは抱いていたイヴの肩を少し外し、僅かに眉を寄せた。
「イヴ、お前ひとりか?」
「そうよ?」
愛しい人を見上げるその瞳のまま、イヴが答える。
――ちくり。
エリスの胸中に、何か――例え様のない、違和感が生じる。
「……イヴ、アンジェラは?」
ジークの苦いうめきに、一瞬イヴは瞳を見開いた。そしてそれは、ゆるゆると歪み始め――涙を浮かべる。
「何で?」
「イヴ?」
「何で、そんなこと聞くの? わたしはここにいるのに、ねぇ、ジーク。わたしは、ここにいるのに。どうして、アンジェラさんのことを聞くの? わたしを――わたしだけを見てくれないの?」
懇願にも似たその声音に、だがジークは次の瞬間イヴの肩を剥がし身を引いていた。
「何だ――てめぇ――」
褐色の肌が、それでも色が悪くなっているとはっきり視認できるほどだった。唇が戦慄き、頬が強張っている。そのジークの顔を見上げ、イヴは空色の瞳を一瞬たりとて揺るがすことはなかった。
「ジーク? どうして? わたしはこんなに愛してるのに――」
「――黙れっ!」
悲鳴。喉を割るかのような絶叫が悲鳴に感じたのは、決してエリスの気のせいではなかったろう。だが、ジークのワイン色の瞳はイヴの瞳を見据えたまま動かない。体を引き剥がし、数歩よろめくように後退したにもかかわらず、まるで釘付けになったかのようにその視線は動かない。
(まさか……!)
ぞわりと鳥肌が立ち、エリスは次の瞬間訳も判らずジークに体当たりしていた。その衝撃で右肩から激痛が走る。
「ぐっ……」
悲鳴を喉の奥でかみ殺し、何とか痛みをやり過ごす。たたらを踏んで振り返ったエリスは、イヴを睨み上げた。
「悪趣味が……過ぎるわよ、アザレル!」
「何を言ってるの? そこをどいてよ、エリスさん。ねぇ、ジーク」
「ジーク、目を見ちゃ駄目!」
ふらふらと頭を振っているジークを一喝し、向きかけたその体に再度体当たりをする。その警告に、ジークは自らの顔を手で覆った。爪を立て、悔しげなうめきを上げている。
「どう……しろって、んだよっ……!」
視線を媒介にした傀儡。それがイヴの能力だとすれば、瞳を合わせてはいけない。空色の瞳が視界を覆い、意識まで包み込みかける錯覚に一瞬陥り、それを振り払うかのように何度もペンダントを握った。視線を合わせないように、小刻みに瞳を揺らがせる。
イヴもそれが判ったのだろう、エリスだけではなく、周囲で硬直していたほかの面子に視線を投げる。
「ミユナさん……ゲイル、どうして? ねぇ、どうして?」
そしてその瞳が、ふと一点で止まった。唇に、小さな笑みが浮かぶ。
「お兄ちゃんなら、助けてくれるよね。……ねぇ、ドゥール?」
(――ッ!)
胸中で激しい警鐘が鳴った。吐き気を伴うような傷みを何とか意識の奥へと追いやりながら、エリスはその瞳の先をみた。
揺れる黒瞳があった。
「ドゥール!」
ゲイルが裏返った声で従兄弟の名を呼んだ。だが、その伸ばした手はドゥールの手に振り払われる。
それは、一瞬の出来事だった。
ドゥールの手が、壁にかかっていた剣に触れる。鈍い輝きを示す鞘が放り捨てられる。鈍い音は大半絨毯に座れ、さらに低くこもった響きだけを残した。
ドゥールがゆっくりと、剣を構える。
「……なに、を」
かすれた声を漏らしたのはゲイルだった。驚きに立ち竦んだかのように、碧色の瞳を見開いていた。
ドゥールが、信じられないものを見るかのような瞳で、けれどゲイルを見据えていた。その切っ先もまた、ゲイルに向けられていた。
「……っ」
蒼白に変じた顔で、ドゥールが小刻みに左右に首を振っている。
「ちが……ちがう……っ」
「ドゥールッ!」
完全に裏返った声音で、ゲイルが悲鳴を上げた。と、同時にすぐ隣にいたジークが駆け出すのがエリスには判った。
「イヴッ!」
これが、イヴの視線による傀儡の結果だとしたら、その少女を止めれば何とかなる。彼はそう思ったのだろう。だが、その必死の思いで伸ばした手は、銀光に遮られた。
「ぐっ」
低いうめきを上げ、ジークがたたらを踏んだ。その筋肉がつき太い一の腕に赤黒い液体が滴っていた。
「ジーク!」
再度振り下ろされた銀光から彼を引き剥がし――何とかかすめる程度ですんだ――エリスは小さくジークの名を呼んだ。
振り下ろされた光の正体は――ドゥールが携えていたその剣だった。
姫を守る騎士宜しく、ドゥールはイヴの前で剣を携えている。その剣が、ジークの腕を裂いたのだ。
「イ、ヴ……」
呆然とした呟きが聞こえてきた。それが誰が発したものなのかエリスには判らなかった。
だが、その光景だけは瞳にやきついた。
イヴがただじっとドゥールの背を見据えている。まるでそれ以外は視界に入っていないかのように。その視線を背に受け、歪み、混乱した表情を貼り付けたドゥールがそれでもしかと剣を構えていた。
イヴの背後にある大きな両開きの扉が、夜風で鳴った。
「どうして、判ってくれないの?」
イヴの唇が薄く開き、そう言葉を紡いだ。
「わたしはこんなに、愛しているのに。ねぇ、ジーク」
エリスが覚えた吐き気は、決して痛みのせいだけではなかったはずだ。