第十一章:To darling you――愛する者へ


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 彼女が、あの白すぎる部屋の中で人形のように果てたとき、彼は――エゼキエル・アハシェロスは漠然と思った。
 彼女の元へ逝きたいと。
 彼がそれをしなかった理由は非常に単純で、彼女が残した遺書のせいだった。


  ――ジーク、貴方は生きてね。
  ちゃんと生きて。泣いて、笑って、お酒飲んで――恋もして。
  楽しく生きてね。
  わたしは、こんな方法を選んじゃったけど。
  勝手で、ごめんなさい。なにも言わずに、ごめんね。
  でも、貴方の事は忘れない。
  ずっと、大好きだよ。


 痛みが酷すぎて、その遺書は一読しただけだ。けれど、文面も一字一句間違いなく、さらにはその紙質もインクの滲み具合すらもはっきりと覚えていた。
 けれど、それらはない。
 紙は、確かに握りつぶして燃やした。しかしそうではない。
 もうない、のではない。
 ないのだ。最初からそんなものは、なかったのだ。
 無精髭が伸びていることに気付いて、彼は顎をさすった。そういえば、いつからか丁寧に毎朝剃るようになったのも、彼女が口うるさく言うからだったと思い出す。彼女が死んだあとも、その行為は日常に溶け込んでおり続いていた。けれど、彼女が最初からいなかったのならば、その行為すらしなかったわけだ。昔のままのだらしなさでいたということだ。だから、いくら夜とはいえこれほどに無精髭が伸びているのだろう。
 首にかかる微かな重みも消えていた。彼女の形見であった木彫りのペンダントも、ない。あるはずが――ないのだ。自分で不器用ながらも彫り、彼女にプレゼントしたものなのだから。彼女がいなければ、自分で彫るなどといったこともしなかったのだから。あるはずがない。
 けれど――自分は生きている。
 腕の中で眠る赤い少女の髪を撫でて、ジークは胸中に溢れてきた何かをぐっと飲み下した。
 彼女がいなければ、自分は生きてはいないだろうと踏んでいた。
 けれど、結局生きていたのだ。その事実が、なぜかジークには酷く悔しく思えた。


 プレシシャル・セディラディートはその夜眠りにつけなかった。
 理由はよく判らない。いつも通りの一日の最後に、ベッドに入った。ただ一向に睡魔がやってこなかった。それだけだ。
 結局彼女は眠ることを早々に諦め、自室の物書き机へと身を移した。マッチを擦り、蝋燭に火をつける。僅かな燐の臭いが鼻についた。
 几帳面に整頓されている机の上の一角に、彼女は手を伸ばした。そこにおいてある箱を引き摺って机の中央に置いた。
 木箱は、縦横に区切りが入っている。等間隔だ。そこにひとつずつ小さな瓶を入れてある。その瓶の中には――髪の毛。
 箱はもうひとつあるが、これは家族用の箱だった。家族全員分の髪の毛が入っている。
 それを趣味だと告げると、大抵の人間は気味悪く思うことだろう。――ただし、彼女の能力を知らなければ、だ。
 プレシシャル――プレシアの能力はテレパシー、思念と呼ばれるそれだ。ただし通常、近距離の相手としか交わすことは出来ない。離れた場所との交信が可能になればいいと、彼女は昔からずっと訓練していた。そのための道具がこれ――髪の毛だった。
 ようするに媒介だ。共通して同じ物を持つことで、距離的なものを意味上で零にする。実際それは、以前ゲイルとエリスと会話で成功していた。
 それを今夜、また持ち出したことに理由はなかった。明確な、他人を納得させることができるような理由は、だ。誰も納得してくれなくても良いのであれば、答えにすることができる理由はある。
 なんとなく――だ。第六感。胸騒ぎ。そんなところか。
 プレシアは綺麗に並べられたそれらを見下ろし、小さな嘆息をついた。
 家族全員分、ある。もういなくなってしまった家族のものも、だ。処分する踏ん切りがつかなかったのだ。
 男女別に、年齢順に分けてある。なんとなくそれらを弄んで、プレシアは名前を呟いていた。
「これは、ドゥール兄ちゃん。ゲイル兄ちゃん。……ダリードくん」
 小瓶を持ち上げては、元の位置に戻す。
「イーノスくん。アーロン。こっちはカイン。……ジョセファ。ケイレブ。で、ヒセキア。これがロジャー、ジューダス」
 呟いて、また小さなため息が漏れた。なぜか胸が痛かった。
 彼女はその下の段――女子分に視線を移し、首を傾げた。
 一番先頭がなぜか開いている。小瓶も何もなく、ただそのスペースだけがぽっかり開いていた。
「……?」
 整理し間違えたのだろう。彼女は納得して、瓶を順番に戻し始めた。
「ライラ姉ちゃん。アーシィ姉ちゃん。それからスージー、レイチェル。こっちはセーラ。……ルーシー。シャル。ルイス。ジュディ。最後がアグネスとクインリーナ」
 もう死んでしまった妹の名も呟きながら、プレシアはゆっくりと小瓶を元の位置へと整理していった。
 家族全員分、きちんとすべてあることを確認して。


 スージー・ロードはその映像を『視た』瞬間、膝から力が抜けていくのが判った。
 がたんっと派手な音をたて、椅子にしがみ付く。
「スージー!?」
 最年長のライラの声が聞こえた。皆一様に、リビングに集まって佇んでいたのだが、その全員が腰を浮かせて不安げな顔でスージーを見ている。
「……大丈夫」
「大丈夫なわけないでしょ? 何を視たの」
「……」
 口の中が乾いて、とても答えられなかった。ライラだけならいい。だが、ここには幼い妹と弟もいる。とても彼らには教えられない。
 ドゥールが死んだなどと。
「アーシィ……聞こえた?」
 すぐ上の姉の名を呼んだ。アーシィは表情の抜け落ちた顔で、淡白に頷いた。
 アーシィの能力は、自分のそれが目とするなら、耳だ。遠い何かを、聞く。
「……ありがとうなんて、馬鹿みたいね」
 映像だけだったスージーの見たものに、音が重なる。何かを呟いていた兄の唇は、そう紡いでいたのだろう。
 そのとき、一番年下の弟ジューダスが、悲鳴のような泣き声を上げた。ジューダスはまだほんの赤子だ。能力者でもない。――今は、まだ。実験を待つ身だ。そのジューダスを抱いていたレイチェル――スージーのすぐ下の妹――がぎょっとしたように慌ててあやし始める。と、そのレイチェルの頬に、何の前触れもなく赤い華が散った。
「レイチェル!」
 混乱したようにライラが叫ぶ。レイチェルはきゅっと唇を引き結んだ。
「危ないかも、お姉ちゃん」
 レイチェルの能力は危険を感知するものだ。ただしそれが何なのか、本人には具体的には判らないらしい。ただ自身の体が唐突に傷つくと、それが印なのだという。
 そのせいか、通常ならまるで人形のように愛らしいレイチェルの顔には、いくつもの傷跡が残っている。
「レイチェル……」
 その様子を見て、ライラはすっと立ち上がった。
 深く深呼吸をして、告げる。
「逃げましょう」
「ライラ!?」
 驚いたように叫んだのは、下の弟たちだった。
 スージーは大して驚きもせず、立ち上がる。ただ、ひたすらに悔しかった。
 だけど。
「ドゥール兄が死んだよ」
 その言葉に、一瞬にして場が静まり返った。
「アーロンとケイレブも、死んだ。ゲイル兄が殺したんだ。……一応言っておくけど、ゲイル兄のせいじゃなくてね」
 そのことはドゥール以外には話していなかった。他の全員の顔から、色が失せていく。
 スージーはそれを見やりながら、告げた。
「ドゥール兄も、ゲイル兄も、わたしたちを守ろうとしてくれたんだよ。ずっと」
 明るい茶色の髪をつまみ、スージーは意思のこもった視線を投げた。
「わたしたちだって、動き出す時が来たのかもしれない。――行こう」
 アザレルは今、この施設内にはいない。だったら、なんとかなる。
 まだ能力を上手く操ることが出来ない子達もいるが、しかしそれでもこれだけの人数の能力者だ。なんとかなる。
 なんとかしようとすれば。
 今まではただ、怯えていた。兄たちに甘えて、それで良かった。
 けれど、兄の一人はもう帰ってこない。
 こうなるまで、その場で足踏みを続けていた自分たちに、スージーは罵りたい気持ちを押さえ込んだ。
 動き出すときは、今だ。
 ――そして、ラボの子供たちは一斉にラボに牙をむいた。


 エリス・マグナータは闇色のまどろみから覚め、身じろぎをした。
 頭痛が――する。
 ぼんやりと滲む視界の中に、ワインレッドが射し込んだ。
「……ク」
 名を呼んだつもりだったが、ほとんど音にもなっていなかった。
「ああ。目、覚めたか」
 ぼんやりと見上げる。そして、ようやく気付いた。ジークの腕の中で、抱えられるようにして眠っていたことに。
「っ……」
 慌てて身を起こそうとすると、ジークの腕に押さえつけられる。
「いきなり無茶するな」
「――ってっ」
 かすれた喉に無理やり唾を送り込み、エリスは懇願するようにその瞳を見上げた。
「あたし、寝てたの? こんな時に? どうして起こしてくれなかったの? 一刻の猶予もないのに! イヴさんが、ドゥールが」
「イヴなんて女はいない」
 低い音でこちらの声を遮り、ジークはそっとエリスの髪をかきあげた。
「ドゥールは……死んだよ。すぐそこに遺体がある」
「そん……違う、こんなの」
「現実だ」
 涙が溢れてきた視界を、ジークが左手で覆った。視界が閉ざされ、けれどエリスにはどうしても納得できなかった。
「それに寝てたんじゃなくて、気絶してたんだよ。といってもほんの一刻ほどだ。……動けなかったのは、お前だけじゃない」
 溢れてきた涙を何とか堪えながら、エリスはジークの手を振り払った。間近で見ると、無精髭が目立つジークの顔を見上げ、何も言えなかった。
「右腕、動くか?」
 言われて、エリスは自身の右腕を見下ろした。肩の痛みが、ない。ドゥールに斬られた傷もだ。
「外傷は……もともと、なかった。ってことになるんだな。すぐ消えた」
 淡々とした口調で、ジークが告げる。
「ただ、それだけじゃなかったようだから診てみたが。骨が少しばかりひびでも入ってたようだな。――言えよ、そういうのは」
「……タイミングがなくて」
 壁にもたれたままエリスを抱いていたジークは、無造作にその赤い髪を撫でた。
「ごめんなさい」
「構わんよ」
 軽い口調で、ジークは答える。その声に含まれる何かを間近で聞きつづけるのに絶えられなくなり、エリスはそっとジークの腕から身を剥がした。
 血の臭いは、充満しているはずだ。だが、鼻が麻痺してもう何も判らなかった。
「……そういえば、ジーク」
「……ん?」
「あの時……どうやって、バルコニーから戻ってこられたの?」
 ジークは一度壁を『消失』させて外へ飛び出した。彼が空でも飛べるのなら別問題だが、そうでないならその直後にバルコニーからまた戻ってきた理由が説明づけられない。
「ああ、あれか」
 彼はポケットを探り、紙巻煙草を一本取り出した。咥えながら、しかし火はつけずに答えてくる。
「外を見たらすぐ判るさ。蒼竜のジジイがいてね。その背中をちょいと道として拝借させてもらったのさ」
 言われて、何も考えずにエリスは視界を外へと向けた。開け放たれたバルコニーの外に、蒼い巨体が見えた。空を飛び、横切り、またすぐ見えなくなる。
「おじーちゃん……」
 そう言えば、あの時一瞬何か青いものが視界を過ぎたのを覚えている。彼だったのだろう。
 疑問が氷解し、エリスは深い息をついた。
 それからゆっくりと――首をもたげる。見ないようにしていたその場所に。

 眠っているかのようだった。
 安らかに。
 胸の上で手を組み、蒼白い頬には血の気はなく、固く瞼も閉ざされている。
 ――ドゥール・バレイシス。
 その、亡骸。

 そのすぐ脇に、ゲイルが座り込んでいた。ミユナもだ。
 重い沈黙が、落ちている。
「ゲイル」
 呼びかけに、ゲイルは小さな笑みを向けてきた。全てを諦めきったような笑みを。
 その頬には傷がない。――あるはずが、ないのだ。
「わけが、判らないよ。何故ドゥールは急にこんな……」
「イヴさんは……」
 恐る恐る口にすると、ゲイルは僅かに眉をひそめた。
「エリスちゃん?」
「……エリス」
 諌めるような、しかしどこか疲れたような声が背後のジークからかけられ、エリスは唇を噛んで俯くしか出来なかった。
 ゲイルも、覚えてはいないのだ。
 エリスはそっとドゥールの傍らに膝をついた。
 彼は最期まで、守り抜いて死んだのだ。
 最後の握手のときに交わした手のひらのぬくもりを思い出し、エリスは更に強く唇を噛んだ。
 短い黙祷を捧げる。
 せめて、せめて――安らかに眠れと。
 ミユナも隣で、同じように黙祷を捧げる。その悲痛な横顔を眺めることは出来ず、エリスは立ち上がった。
 泣きたかった。
 けれど、泣けば立ち止まりかねない。今はまだ、立ち止まれない。アンジェラが――待っている。
 だから、泣くのは後にしよう。
 そう、胸中で固め、エリスは声を発した。
「ジーク、ゲイルの治療お願いしていい? 足の傷、まだ完治してないみたいだ」
「それならもうやったよ」
 自分が眠っている間も、ジークは動きつづけていたのだ。
 最愛の人を――二度、亡くして。それでも、彼は立ち止まらない。
 ジークが立ち上がるのを見て、エリスは小さく頷いてみせた。
 嘆くのも、後悔するのも、絶望するのも――全て、後回しだ。
 この階には、昇ってきた以外の階段はない。続く道は、ひとつだけだ。
「ゲイル、ミユナ、立って」
「……エリスちゃん」
「エリス」
 かすれた二つの声に、エリスは言葉をかけなかった。
 ただ、唯一開かれた道を――バルコニーを見据え、告げた。
「行くよ」 


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