最終章:The rose moon――女神の祈り
1
窓の向こうの空は、深い藍色の中で月を抱いている。
すでに天高い位置にあるというにもかかわらず、まるで血の如く赤い月。紅に染まりかえった月が、すでに自然現象ではないことは誰の目にも知れただろう。
今宵、何かが起ころうとしている。
窓枠に手をかけ、エカテリーナは静かに空を見上げていた。
ルナ大陸北部、グレイージュ公国。首都シュタンバルツ。
シュタンバルツ宮殿の公務室の中、彼女はただじっと空を見上げていた。
ここのところの騒ぎのせいで、公務がたまっていた。そのため、夜半を過ぎても作業をしたいたのだが――
ふう、とエカテリーナは小さくため息をついた。普段は、できる限りしないようにしているのだが。それは母から教わったことだったからだ。民の上に立つ者は、決して疲れを外に出してはならないと。
窓の外、深い藍色の夜空。その中に浮かぶ真紅の月。そして――
ふわっと、紅い月を横切る影があった。白い巨躯が、天を翔け抜けていく。
守護聖獣、白竜。
「エカテリーナ様!」
ノックの音とほぼ同時に、戸口で張り詰めた声が聞こえた。振り返り、開けても良いと告げると扉はあわただしく開かれた。
張り詰めた表情のアペル――使用人のひとりで、妹の学友でもある――が、礼もそこそこに口早に告げてくる。息が上がっているところをみると、走って来たのだろう。
「どうしたのですか、アペル」
「空を……空を、ご覧になられましたか」
「今見ていたところです」
静かに告げる。その声音で、アペルはようやく落ち着きを取り戻したようだった。息を吐き、再度礼の仕草をとる。
「白竜様が」
「ええ。翔けていらっしゃいましたね」
頷くと、アペルは顔を上げた。薄暗いランプの中でも、はっきりと判る。不安に色を失ったその顔。
「……民が、騒ぎ始めています」
「でしょうね。危惧はしていました」
アペルは、やや躊躇うような口ぶりで続けた。
「私も……同じです。一体、何が起きているのでしょうか。白竜様に、それに、あの月」
「アペル」
名を呼ぶと、アペルはこちらを見据えてきた。
「はい」
「不安ですか?」
問いかけに、一瞬虚をつかれたような間があった。アペルは呆然とした表情で頷いてくる。
「――はい」
「民も同じです」
告げて、エカテリーナは手に持っていた書物を棚へと戻した。
「私たちが不安を表に出しては、民の不安を更に煽るだけです。それでは意味がないでしょう、アペル?」
「はっ……失礼、いたしました」
「すぐに手はずを。宮殿内の祭殿を開放なさい」
その言葉に、アペルが眉を寄せた。
その祭殿は普段、四季ごとの行事のときにのみ民の出入りが許される場所だ。普段は閉ざされた場所でもある。
「祭殿……ですか?」
「そうです」
アペルの顔に浮かんだ疑問符を読み取り、エカテリーナは微笑を浮かべた。窓を振り返り、紅い月を見やる。
「人は不安になった時、何かに祈りたくなるものです。それがたとえ、何の効果もないと知っていても。精霊に平和を、平安を――何事もないようにと、ね。その場所を提供するだけです」
すでに街中の教会には人が押し寄せているだろう。しかしそれよりも、神聖視される度合いが高い宮殿内の祭殿では、民への鎮静効果も高いはずだ。
アペルはすぐに事情を察知したのだろう。短く返事をし、部屋を出て行こうとする。
しかし、その直前で彼は足を止めた。躊躇の口調で、振り返らぬままに聞いてくる。
「ミユナ姫は、ご無事でしょうか」
「無論です」
不安に揺らいだアペルの声を、エカテリーナは微笑で一蹴した。
「あの子は無事に帰ってきてくれます。私の妹ですから」
ルナ大陸南部、ストレイツァ王国。絵本の町、レジック・タウン。
壁に描かれたひとつの神話は、幼子を抱く女神の姿だ。その背後には、紅い月が昇っている。
しかし、桜春はそのフレスコ画よりも紅い月を天に見て、小さな手を胸元で握り締めていた。
寝付けなく、窓を見上げた。そして見えたものが、これだ。不安が膨れ上がり外に飛び出して――今こうして、見上げている。見上げるしか、出来ないでいる。
紅の月を。
指先が震えるのが自覚できて、桜春は唇をかんだ。
「何ネ……何なのネ、これ」
呟く声も、震えている。
何かが起きようとしている。そのことだけは、知れた。
もしかしたら――と、ふと後悔の念がよぎる。
やはり、共に行くべきだったのではないだろうか? 恐れに屈せず、あの彼女たち――エリスたちと共に、行くべきだったのではないだろうか?
己の神族としての能力は、何かの役に立てたかもしれない。誰かを救える可能性もある。
けれど。
「……こわ、い」
呟きが、静かに落ちた。桜春はふるふると小さく首を振り、握り締めた手に更に力を入れた。
恐怖が身を侵蝕するような悪寒がした。あの研究施設の中で繰り返された実験が、脳裏にまざまざと思い出される。他の実験で傷ついて倒れた子供たちを、アザレルは笑みを浮かべて桜春の前に連れて来た。
そして言うのだ。救いたいのなら、力で救えと。
自分が能力を上手く扱っていかなければ、子供たちは目の前で死んでいく。実際桜春は、何人かの子供を救うことが出来なかった。冷えて色を失っていくその顔が、訴えかけてくるようだった。
――どうして、その力で助けてくれないの?
一般的な能力者よりも早くに能力を開花させたことが、逆に言えば仇だったのかもしれない。そのせいで、アザレルは桜春を追い詰めて能力を高めさせることを実験とした。
何度も何度も繰り返されるそれに、桜春は酷く怯えていった。
あの、場所に。
(無理ネ……戻れないネ。怖い)
足が竦んで動こうとしない。けれど、エリスたちに実際は付いて行くべきだったのではないか? 己のためにも。彼女たちのためにも。
『あんな所に関わらずにすむならその方がいいんだ』
ふと。彼女はその言葉を思い出した。
エリスたちに付いて行けないと告げたとき返してくれた、青年の言葉を。
静かな人だった。それでも、優しい人だった。優しい夜のような瞳を持った人だった。
彼の告げたその言葉に、桜春がどれだけ救われたことか。彼自身は考えもしていないかもしれない。付いてこなくていいと、そう言ってくれたことがどれだけ嬉しいことだったか。
「……無事、かな」
ふと、空を見上げながら呟く。彼は、エリスたちは皆、無事だろうか。
(大丈夫ネ。きっと、無事ネ。きっと)
桜春は胸中で繰り返し、睨み上げるように月に視線を合わせた。
その月の前を――赤い影が横切る。
「! おねえちゃん!」
飛翔する赤竜カサドラを見て、桜春は思わず声を上げた。
「何ネ……」
呆然と呟きが漏れる。だが、桜春はすぐにそれを振り払った。
何が起きているかは判らない。判るのはただ、何かが起きている、それだけだ。
だからこそ――
桜春は胸の前で手を組み合わせた。
祈ろう。神でも精霊にでも竜にでもなく、ただ、人の想いに。
それがきっと、力になると、そう信じて。ちっぽけな、ただの人の想いが力になると告げた、今空を行くあの赤竜の言葉を信じて。
今自分に出来るのは、祈ることだけだから。
「お願い、エリスさん……無事でいて……!」
何もない草原の中、赤々とした月光だけが地上に降り注いでいた。
ルナ大陸最南部、フマーネン連合国。ガゼル部族州の村リアーグ。
ロジスタは大きな眼鏡の奥から、その光景を呆然と見上げていた。
紅い月。そして、その中で飛翔する、研ぎ澄まされたナイフのような体躯を持った、黒竜の姿。
ゲル(移動式住居)の外で、ロジスタは息をすることも忘れて、ただその光景を瞳に焼き付けていた。
他のゲルからも、何人もの人間が外に出て来て空を見上げている。
黒竜は守護聖獣だ。ただし黒竜遺跡を所有しているロジスタたちの部族、ガゼルの民もその姿を見たものはいなかった。
その黒竜が、今宵空を舞っている。
「ロジスタ!」
鋭い声音に、ロジスタはずれかけた眼鏡を正しながら振り返った。顎鬚をたっぷりと蓄えた初老の男性が、厳しい顔つきでこちらに歩いてくる。
「お師匠様」
「これは一体何なのだ、ロジスタよ」
師がそう問い掛けてくるのは、ロジスタが黒竜の研究をしているからだ。
しかしロジスタは静かに首を振った。
「判りません」
息を詰め、再度空を見上げる。
「何か、この大陸を左右する異変が起ころうとしている――そういうことでしょうが」
そこまで告げてから、ロジスタは膝を折った。人差し指と中指をそろえ、自身の左頬、右頬、そして額へと順番につける。
「ロジスタ?」
「祈りましょう、お師匠様」
師にそう告げ、ロジスタは言を紡いだ。そろえた手を胸元へもっていき、目を閉じる。
「大地の竜の加護が、全ての者にありますように」
師は何も言わなかった。ただ無言でしばらくロジスタを見下ろし、しばらくして、ゆっくりとした動作でロジスタに続いた。
その姿が、その行為が、まるで乾いた風に乗って広がるかのように、ゲルからゲルへと、人から人へと伝わっていく。
ガゼルの民は知っている。祈りが力になり得ることを。
何も判らない。だからこそ、祈るのだ。人は。
祈ることが、何よりも力になると知っているから。
色煉瓦で造られた、幾何学模様の地面。深い緑の街灯と、同じ色のベンチ。広場の中央にはアグライア――裸身の童女の石像と、噴水がある。
その広場で――少年は静かに空を眺めていた。
ルナ大陸西部、セイドゥール帝国。セイドゥール・シティ。――その、アグライア・カンポ(輝き乙女の広場)。
街中の家という家の窓は開け放たれ、人々がそこから首を出して空を眺めている。だが一人として、外にでてくるものはいなかった。何かに怯えるようにさえ、見える。
(勝手なものですね)
彼――カイリ・アクアリードは内心、吐き捨てるように呟いた。
人々の小声でのざわめきは、それでも風に乗って届いてくる。やれ、女神の怒りだ。女神の祝福だ。月の者が生まれようとしている。――そんなあてもないざわめき。
その伝承にすがるのは自由だが、しかしそのせいで、彼は友人をひとり――否、ふたり失ったのだ。今はもうこの街にいない、彼女たち。
「……勝手なのは、僕ですかね」
苦笑気味に、呟く。世界をすべる伝承と、友人二人。どちらを優先するか比べて、結局友人を選んでしまうのは、あるいは自身のわがままなのかもしれない。
「カイリ!」
ふいに声が聞こえ、カイリは振り返った。広場の入り口から、もうひとり少年が走ってくる。何故か妙に気障ったらしい、金色の髪をした少年。
「パズー。どうしたんですか、こんな真夜中に」
「それはこっちの台詞だよ」
息を切らし、パズーが呟く。
「母上に起こされて、空を見たんだよ。そしたらこんな……君の、家にいけば、君はここだ、っていう、し」
「ちゃんと息はしてください。――まぁ、いいですけど。何で僕に?」
「それは……」
パズーは顔を上げ、空を見上げた。
「エリスとアンジェラが関係してるんじゃないかって、思ったんだよ」
傍にいない友人の名を持ち出され、カイリは一瞬目を閉じた。
「何故そう思ったんですか?」
「なんとなくだよ。理由はない」
ひょいと肩を竦めるパズーを横目で見て、カイリは嘆息を飲み込んで続けた。
「奇遇ですね」
「ん?」
「僕もそう思っていたんですよ。だから、ここに来たんです」
言葉に含まれる意味に、パズーは気付いたようだった。目を細め、小さく笑みを浮かべる。
「よくここで遊んだよね、四人で」
「そうですね」
「かくれんぼ、エリスは上手すぎてなかなか見つけられなかった」
「そうでした」
くすくすと、笑いを交わす。交わして――カイリはふと笑みをとめた。
「また、そういう日が来ればいいんですが」
「……無理じゃないかな」
沈んだ声で、パズーが呟く。
「少なくとも、エリスは帰ってこない気がするよ。あいつは、この街を恨んでいる気がするんだ」
「そうかな」
ぽつり、とカイリは呟いた。怪訝な顔をする友人に、小さく笑みを見せる。
「思っているほど、エリスはこの街が嫌いじゃないかもしれない。きっと、帰ってくるよ、いつか」
「――本気でそう言ってる?」
「いいえ」
否定の言葉を吐き、カイリは笑みを苦笑にかえた。
「そうだったらいいなっていう、願望です。やっぱり――寂しいですよ、二人がいなくなると」
「そうだね」
パズーは頷き、睨むように月を見上げた。
「二人とも、無事でいて欲しいね。また、四人で遊びたいよ」
その紅い色の月を見上げ、プレシアはきゅっと唇をかんだ。
ルナ大陸南西部、ストレイツァ王国。ジェリア・シティ、港区ロストック。
聞こえてくる潮騒の中、月はただ赤々と浮かんでいる。
「……何が、起きようとしているの」
何かが起きようとしている。そしてそれに、家族が関わっていることも――プレシアはやはり気付いていた。
不安に鼓動が高鳴っていく。だが、それに押しつぶされては意味がない。
プレシアは窓に背を向けると、一度しまった木箱を引っ張り出した。
その中に一本、見事に紅い髪の毛が入っている。
今浮かぶ、この月と同じ色のものが。
「……エリスさん」
それを握り締め、プレシアは呟いた。
何も出来ない。出来ないからこそ、心を飛ばしたい。
思いを。人の想いを。祈りを。
それが出来る能力なのだから。
「みんな、無事でいて」
――プトネッド新暦一二〇五年。
その夜、世界の何かが変わろうとしていた。
ルナ大陸東部、フォルム共和国。ブルージュ・シティ。――魔導技術開発研究所内、女神の塔。
蒼竜の背を降り、まずはじめに覚えたのは違和感だった。
自身の身が、二分される――そんな違和感。
夜の中、紅い月が輝いている。
塔の屋上に降り立ち、エリスはそれを見上げた。
そして、視線を前方に合わす。
祭壇のように飾られた場所に、紅い月のレリーフがある。それはセイドゥール・シティの旧神殿で見かけたそれと、酷似していた。
「来たよ、ルナ」
呟きに、月の石が二つ――否、ゲイルの手からももう一つ、おそらくはドゥールの物が――紅く点滅した。
三つの点滅に呼応するように、月のレリーフも輝く。
紅。
光が周囲に満ちる。
――その光が収まった時、それはそこに現れた。
輝きを放つ、裸身。白い素肌に沿うように流れる、踝までの金糸の髪。美しい造作を伴った、一人の女性。紅い紅を引いた唇。そして――エリスと同じ、紅い瞳。
ルナ大陸をすべる、月と狩猟の女神。
一度は創造主に反乱を起こし、その名を取り上げられたはぐれ月神。
――ルナ。あるいは、セレネ神。
女神は射すくめるような視線を少女に投げ、薄く唇を開いた。
『月の者よ。汝、良くぞ此処まで来た』