最終章:The rose moon――女神の祈り
3
――死ぬぞ。
あっさりと告げられたその言葉が、まるで引き金にでもなったかのようだった。
どくんっ――と心臓が跳ねた。鼓動が速まり、視界が揺らぎ始める。涙のせいだけではない、もっと何か、直接的なものだ。
汗が吹き出し、鳥肌がたった。悪寒に抜けていく力を何とか意思の力で繋ぎ止めながら、エリスは口を開いた。その音すら、歯の根がかみ合わず上手く言葉にならない。
「なにを……」
『汝の力は、魔法と称すには些か強すぎる。我に従えば、その能力を制御するだけの力を貸し与えよう。簡単なことだ。我と一部同化すれば良い』
「そんなの――誰が――」
強く噛みあわせた歯の間から、呻き声を発した。
『まだ理解できぬか。愚かな者よ』
剣を支える腕に力が入らなくなってきた。ずるりと腕が落ちる。だがそれでも、瞳に宿る光だけは消すことなく、エリスは女神を見つめた。
『なら――覚醒してみるか?』
女神が、細い腕をすっと上げた。その指が、エリスを指す。
「エリス!」
反射的に、だろう――ミユナが叫びを上げ、こちらの肩を引いてきた。足元がおぼつかない為、たたらを踏み後退する。ミユナがその繊手を目一杯に広げ、何か口早に呪文を唱えた。防御壁か何かを展開させようとしたのだろう。そこまでは、見えた。
だがミユナの口から出るはずだった呪文は、悲鳴に転じた。
紅い閃光が走り、その眩しさに目が痛みを訴えた。知らずに閉じていたまぶたをこじ開ける。
そしてエリスは息を呑んだ。
「――ミユナッ!?」
目の前のミユナの姿は、確かに直前に見たままだった。だが、違う。
ミユナの姿は、紅い宝玉の中にあった。アンジェラが封じられているそれとまったく同形の宝玉が、そこに生まれていた。ミユナはその中にいた。
耳障りな音を立て、剣が床に落ちた。だがそれに気付くこともなく、エリスは素手でその宝玉を殴りつけた。宝玉――のように見えて、宝玉ではないのだろう。硬くもなく軟らかくもない、奇妙な感触が返って来る。手ごたえがないような違和感に、エリスは更に声を荒らげてミユナを呼んだ。
しかしその宝玉は、ミユナを封じたままふうっと空に浮いた。空に浮かんでいるアンジェラの宝玉のその隣に移動し、そこでぴたりと動きを止める。
そして背後で、また声が聞こえた。焦りを含んだ、だが絶望ではないはっきりとしたこえが、名前を呼んでくる。
「エリス、受け取れ!」
慌てて振り返り、飛んできた何かを反射的に掴み取った。それが、ドゥールの月の石だと理解したその時には、横たわったままのゲイルの体も、石を投げてきたジークの体も、紅い宝玉の中に捕らわれていた。
「……っ!」
叫ぶ言葉も思いつかず、ただ呼吸だけが激しく漏れた。ふたつの宝玉はやはり同じように空に浮かび、アンジェラの、そしてミユナの宝玉の横でぴたりと動きを止めた。
『怒りがわくか、月の者よ?』
女神が静かに問う。その指が虚空に踊り、エリスの体は衝撃に跳んだ。背中を強打し、悲鳴にもならない呼気が吐き出される。そのすぐ脇で、また破裂が起きた。炎が身を焦がし、激痛に身を捩る。
『怒りが、恐怖が、絶望がわくか、月の者よ?』
立つことすら出来なかった。次々に繰り出される女神の『攻撃』に、なすすべもなくエリスは転がった。ただ四つの宝玉だけが網膜に焼き付いていた。
『それこそが、引き金となる。そして汝は今、三つの鍵を手にした。覚醒の時が来たのだ』
その静かな声に、エリスは歯噛みした。怒りはある。悔しさも。だが、恐怖はない。絶望なんてもってのほかだ。そんなものはない。転がりながら、胸中でただそれだけを罵る。
『――まだ、我に従わぬか? 従わぬ未来がどんなものか、あの娘は見ておるぞ。汝の未来をな!』
女神の言葉に、エリスは血に染まった視界を上げた。
アメジストの光が、入ってくる。紅い宝玉に阻まれてなお、その光は確かに見えた。
いつの間に目を覚ましたのだろうか――女神が目覚めさせた他ないのだろうが、気付かなかった。アンジェラが、親友が、未だ宝玉の中とはいえ目を覚ましている。
「……ジェ……」
かすれた声で、名前を呼んだ。
アンジェラが宝玉の中で顔を振る。いやいやをする幼子のような体で、顔を左右に強く振った。
声は聞こえない。宝玉に阻まれて、あの鼻にかかったかのような甘い声は聞こえなかった。だが、それでも判る。アンジェラの様子は、いつもと違いすぎた。
目を見開き、唇をわななかせている。かたかたとその小さな体を震わせていた。
その唇が何かを叫ぶように開かれた。音は届かない。ただ、見える。アンジェラの瞳から、ぼろぼろと涙が零れていた。
『見えているか、魔女の娘よ。その先を見る時の能力で。――この月の者が死ぬ未来が』
「――!」
アンジェラが何かを叫んだようだった。頭を抱え、強くまぶたを閉じた。
それでも――エリスは、納得がいかなかった。
『一言、言えば良い。我に従うと。一言言えばそれで未来は変わるだろう。汝は死なずにすむ』
その言葉に、エリスは何故か笑いがこみ上げてきた。馬鹿馬鹿しい。全くもって、馬鹿馬鹿しい。
痛みでやや朦朧とする意識の中、エリスはそれでも笑いを堪えきれずに唇の端から洩らした。そして、ふかく呼吸をした。
女神を見上げ、そしてアンジェラを見つめた。そんな未来――誰が信じるというのだ。
笑みを崩さぬまま、女神を再度見据え、エリスは告げた。
「いやだ」
女神が紅い瞳を見開いた。吊り上げられた柳眉に、怒りの色がはっきりと膨れ上がる。
『ならば――望みどおり死ねば良い!』
激情の声と共に、女神の腕が振られた。虚空に赤い火線が走る。
(――っ!)
自分に向かって一直線に伸びてくる光を見据え、エリスは奥歯を噛んだ。その次に来るであろう衝撃を確かに予感し、だがよく判らない反発心から、絶対に目を閉じてやりはしないと瞼をこじ開けていた。
光が伸びる。
そして――視界に四つの影が飛来した。
赤。白。黒。そして――蒼。
「……!?」
来るはずだった衝撃も眩しさも、何もなかった。耳元に唸る風の音が、それらをすべてかき消したのだと瞬時に理解する。
巨大な体。そして、人間では及びもつかないその能力。
――四竜が、そこにいた。
エリスを守るかのように――否、実際守るためになのだろう――壁になり、そこにいた。
白竜ジェイフェスが。赤竜カサドラが。黒竜ディアンが。そして、未来を司る蒼竜、ファイディが。
「四竜……」
呆然とした呟きが、エリスの唇から漏れでる。
予期せぬ乱入者に、しかしそれは女神も同じだったようだ。その柳眉が、更に激情を彩る。
『四竜……! 何故汝等が――!』
『勘違いをするでない、愚かな女神よ』
白竜が言葉を発した。朗々たるその響きが、静かな威厳となっていた。
『全大陸<ヒュージ>が四つに断たれたとき、アタシたち四竜は確かに、この大陸を司る女神に従うように作られはしたわ』
赤竜カサドラが、その瞳を光らせた。
『だがな、それは何も女神様の言いなりになれって訳ではねぇ。創造主ディスティは、俺ら四竜にこう言いなさった。――人間たちを、見守りつづけろとな』
黒竜ディアンが、ばさりと翼をはためかせた。その風が、エリスの髪を撫ぜる。
『女神よ、そなたが創造主の意思を違えたとするならば、わしらはそなたには従わぬ。人として、人の未来を見つづける。この幼き少女の未来を手助けする。それこそが本来、わしら四竜に課せられた宿命だ』
蒼竜ファイディが、蒼く美しい翼を天に広げた。紅い月光に照らされ、なお、翼は蒼い。
「……ありがとう」
呟き、エリスは四竜それぞれの翼に手を触れた。その体に手をかけ、身を起こす。
四竜の壁を割り、エリスはゆっくりと前へ出た。
空には月が紅く光っている。
そしてその中には、四つの宝玉が浮かんでいる。うちひとつは、アンジェラが――親友が未だに震えを止まらせることもできないように、耳をふさいでいる。
ゲイルがいる。ジークがいる。ミユナがいる。手のひらの中には、ドゥールの石が、ポケットの中にはダリードの石がある。
冷たい石を握り締め、アンジェラを見つめた。手が届かない、親友。
すっと視線を外し、女神に置く。
エリスは静かに、唇を開いた。
「アンジェラを、返して」
女神の目が細まる。どこか嘲笑にも似た、それでいて激情も隠せないでいるような、そんな表情で見下ろしてくる。
『己がどうなっても良いと決断したか』
その言葉に、エリスは一瞬唇を閉じた。すぐに苦笑が浮かんでくる。ゆっくりと、首を左右に振った。
「ううん、駄目。それは出来ない。あたしは死ねない」
『所詮己の命が惜しいか』
「惜しいよ」
嘲るような女神の言葉に、エリスは素直に頷いた。怪訝そうな顔を見せる女神を見つめて、自然と笑みが浮かんでくるのを自覚する。体の重みより、痛みより、ずっと強い感情が外に溢れ出てくる。
「だって、二人じゃなきゃ駄目なの。――ね、アンジェラ」
言葉が、聞こえたのだろうか。
宝玉の中のアンジェラが顔を上げるのが見えた。浮かんで笑みが深くなる。
「あたしは、二人で笑っていたいの。どっちかが欠けた状態だと意味がないの。それじゃ、駄目なの」
たとえアンジェラが助かっても。たとえエリスが助かっても。
それは、何の意味もなさない。
アンジェラだけが助かれば良いなんて、思えなかった。そんな事を言えば、アンジェラにこっぴどく叱られるのが目に見えていたし、何より逆の立場なら、そんなことは許さないはずだ。
あるいは、非常に傲慢で自己勝手な考えなのかもしれなかった。だが、それでも。
――二人でないと、駄目だった。
「あたしたちは二人じゃなきゃ駄目なんだ。だからあたしは死ねない。アンジェラも死なせない」
剣を握るほどの余力は残っていなかった。だが、ゆっくりと肺に息を溜め、エリスは断言した。
「二人で、生きるんだ」
ふらり、と。
一歩前へ踏み出した。
しかし――アンジェラが見た未来は、すぐそこに迫っていた。
――ピシリ――
文字にすればそんなような、軽い音だった。
それが、エリスの体の中で響いた。
その音と共に、エリスの二の腕が裂けた。額が割れた。心臓が狂ったように早鐘を打ち始め、僅かに残っていた全身の力が抜け落ちた。
首に下げていた月の石が、ポケットに入れていた月の石が、手のひらに握っていた月の石が、それぞれ燃えるように熱くなっていた。
「――!?」
ギッ――キシッ――パチン――
軽い、軽い音が内耳を占め始める。汗か冷や汗か判らないものが吹き出し、唇が枯れ、目が霞んだ。
腹が裂け、血が噴出す。激痛にひしゃげた悲鳴が漏れる。何もしていないのに、左腕が関節とは逆に折れた。
『時が、来たな』
女神の声が、遠く聞こえた。
『今こそ、教えてやろう。汝の能力を。――それは、破壊だ』
(は……かい……?)
次々と、肉体が裂け、内蔵が軋む。その激痛に苛まれながら、女神の言葉をなぞる。
『そう、破壊だ。破壊、殺戮、破滅――現象を帰化する魔族の力とは違う。あるものをそのまま壊し、殺す――それこそが汝の力。気付かぬか? それは我等神に等しい力だということに。其れ故に強力で――其れ故に、自らを容易く滅ぼす』
血が噴出す。鮮血が広がる。激痛が身を苛む。悲鳴が喉を焼く。
すでにどこがどんな痛みを訴えているのか、判らなくなっていた。
『我等神が扱う能力は、神技――それは、どんな能力を指すか知っているか、月の者よ?』
女神の声も、すでに遠くなっていた。意識が遠ざかっていく。
『破壊と、そして創造の力だ。創造の前には、今まであったものを壊さねばならない。一を作り出すには、零が必要だ。そのための能力が、我等神には与えられている。世界そのものを滅ぼしうるものがな。汝の其れはすでに魔法ではない――我等神と同じ、神技に等しい能力。汝の望むまま、総ては壊れていく。その瞳は、その我等神に与えられた罪の証と同じだ!』
ぼんやりと――痛みに暗む意識の中、エリスは思い出していた。
いつだったか、アザレルがエリスに向けて告げた言葉を。
――その真紅の瞳は彼の方と同じ罪の証。その身に秘めし力は、人の中で誰よりも彼の方に近し証――
こういう事だったのか。
ぼんやりと、理解した。
ドゥールのように静物にしか効かないと言う訳ではないのだろう。望めば、エリスがそう望みさえすれば、総ては壊れ零に戻る。あるものをそのまま壊すことで、そこが零になる。
だからこそ、斬れたのだ。
斬れるはずのないものが。具現化しているわけでもない、赤い糸が。女神の意思を、斬れたのだ。四竜を女神から解き放つことが出来たのだ。
死すらすでにないあのアザレルを砂に変える事が出来たのだ。
破壊の能力ゆえに。
しかしその能力は、今、エリスの身を『壊そう』としていた。
激痛に悲鳴を上げ、血を吐いた。
『お嬢ちゃん!』
蒼竜ファイディが叫ぶのが、遠く聞こえた。
かすかな意識が零れていく。砂が、指の隙間から落ちるかのように。
視界が闇に閉ざされ――
そして、エリスは聴いた。
祈りの声を。
――エリスさん!
それは、不思議な言動をする少女の声だった。
プレシシャル・セディラディート。
――エリスさん、聞こえる!? プレシア!
必死の祈りが、聞こえる。
――能力、使うから! テレパシー、届けるから! お願いだから……!
信じているから。
祈りが、押し寄せてくる。
――みなさん……少しでいい。私の力が届くように祈っています。無事でいて、ミユナ、皆さん……
それは、歳若き女王の祈りだった。
エカテリーナ・レイス・フォン・グレイージュ女公爵。
――頑張って! 頑張ってネ! 無事でいてネ! 桜春、祈ってる、ここでずっと、祈ってるネ!
それは、幼き神族の少女の祈りだった。
鈴・桜春<リン・オウチュン>。
――僕には祈るしか出来ません。けれど、それが力になることを知っています。だから、どうか、貴女方が無事であることを。
それは、知識を追い求める少年の祈りだった。
ロジスタ・ジェイド。
――エリス、アンジェラ。無事でいてください。
――エリスたち、無事でいなよ。
それは、友人たちの祈りだった。
カイリ、そして、パズー。
――お兄ちゃん!
――ゲイル兄ぃ、ドゥール兄ぃ!
それは、家族の祈り。
――無事でいて。
――無事でいて。
――無事でいて――!
無数の、感情に溢れかえった祈りの声が聞こえた。
――死ぬんじゃねえぞ! 生きろ!
ジークの声が聞こえた。
――負けるなよ!
ミユナの声が聞こえた。
――エリスちゃん!
ゲイルの声が聞こえた。
そして、何よりも聞きたかった声が、聞こえた。
――エリスッ!
甲高い、鼻にかかった甘い声。
アンジェラ・ライジネス。
そして――エリス・マグナータの意識は闇に落ちた。