最終章:The rose moon――女神の祈り


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 闇の中に、存在している。
 立っている訳でも、浮かんでいる訳でも、ましてや座っている訳でも眠っている訳でもなく、ただ、存在している。
 それは人間が夜を指して口にする闇などではない。真の闇。たゆたい、膨れ上がり、常に姿を変え、しかし視認出来る訳ではない真の闇だ。人間が――人と言う種族が既に忘れ去った真の闇。
 彼女は、その中に存在していた。闇に抱かれるように。
 手を見下ろす。芸術品のように整った、細い指。目に痛いほどに白いそれは、闇の中でもはっきりと見えた。自身が光を放っているのだろうか。そうでなければ、この闇の中見えるはずなどない。だが繊細すぎるその指は、白く映りはしたが周りの闇を引き裂くほどの光は発していないようだった。
 否、闇が深すぎるだけか。
(白い……細い?)
 自らの手を見下ろしながら、彼女は疑念を抱かずにいられなかった。彼女の――エリスの手は、美しくはない。剣で出来た豆もある。柄に馴染んでしまった指は、親指の形がいびつに歪んでさえいる。手の甲には傷跡もある。黄色人種の肌は黄色く、爪も欠けている。自分の手は、このような白さではない。このように細くも美しくもない。
 指を伝い、手のひらに視線を移し、腕を見る。全く同じだった。文字通り輝くほど白い腕。その腕に絡みつく金色の糸は髪だ。
(何これ……あたしじゃ、ない?)
 呆然とその事実に気付く。自身の体を見下ろして、なおはっきりした。腕と同じに、やはり輝くほどに白い肌は滑らかで美しい。形良く膨れているふたつの乳房の先端には、淡い花が咲いている。四肢はしなやかに伸び、芸術品さながらだ。一糸纏わぬ姿でそこに存在していた。
 ふいに。闇が震えた。
 それはすなわち、彼女自身も震えた。闇は彼女を包んでいたのだ。震え――縋るような気持ちで顔を上げる。
 闇が、彼女を置いて離れようとしていた。
 恐怖が身を苛んだ。不安、孤独、絶望――眩暈が押し寄せるような、そんな感覚に彼女は引きつった悲鳴を上げた。
「行くでない、ディスティ!」
 ぞっとして――彼女は耳を疑った。
 自分の声ではない。そしてその感情も、自身のものではなかった。
 それをどこかで感じながら、彼女は体を前に出した。闇は、それでも徐々に彼女を置いて遠ざかっていく。闇が離れていくことに、不安が膨れ上がる。親に置いてきぼりにされた、子供のような。
「ディスティ! 運命の名を持ちし者よ!」
 喉が裂けるほどの絶叫に、闇が一瞬たゆたう。その場でとどまり、姿を変動させる。
 彼女はもう、闇の外にいた。何もない虚空に、立って居る。彼女は始めて足場を意識した。おぼつかない、不安定な感覚は、闇に抱かれていたときにはなかったものだ。それは始めて覚える感覚だった。
 うずくまる闇を彼女は見据えた。その紅い瞳で。
 闇は膨れ上がり、収縮し、また姿を変え、常に動きを止めない。それが大雑把に人型を模しているのには、何とか気付く。
「……何故だ」
 血を絞り出すように、訊ねた。胸が引き裂かれるほどに痛みを訴えてくる。
「何故、我を排除する」
 その言葉を発するとき、僅かに唇が震えた気がした。――気のせい、だろう。それは言葉であって声ではないのだから。
 たゆたう闇を見据え、エリスはじっと闇の言葉を待った。
 ――汝は自身の力を過信しておる。
 言葉が得られた。
 その歓喜に、しかし絶望がない交ぜになる。
「違う!」
 否定の言葉を吐く。金糸の髪が肌に纏わり付くのさえ煩わしく、彼女は首を振った。
「我はそなたとともに歩むと言っているだけだ! それの何がいけぬ!?」
 ――この世は私が生み出したものだ。
 言葉は実直で、其れ故に意味を成さなかった。憤怒の感情が溢れかけ、何とか押さえつける。
 ――汝は、創造主ではない。思い違いをするでない。
「神だから、創造主ではないから、そなたとは歩めぬというのか」
 ――この世界は、人の手に委ねた。もう私たちがするべき事はない。見守るのみだ。
「人は過ちばかりを繰り返す! 故にそなたは<ヒュージ>を四つに断ち切ったのではなかったのか!」
 訴えるようで、それでいて縋るような――叫びが、言葉が、次々に溢れてくる。
 脳裏に浮かぶのは、眼下に見える巨大な円形の大陸。それが四つに断たれたときのあの映像。あの記憶。
(……違う)
 エリスは胸中でかぶりを振った。
 違う。この記憶はエリスのものではない。この体が覚えている記憶だ。
 この体が。女神セレネが持つ記憶だ。
 闇が、動きを一瞬止めた。低く、憤怒すら混じったような言葉が彼女にかけられた。
 ――人が神に手を出そうとしたのは、人の過ちだ。だがそれを引き起こしたのは、人の前に姿を現した汝ら神々のせいでもある。
「だからそなたは大陸を四つに断ち、人間から知識を奪い零から始めさせた。そんな事は判っている!」
 もどかしさに焦燥がつのりながら、彼女は言葉を吐いた。闇が揺らぎ、また遠くなり始める。
「我はこの百年、そなたの言う通り人を見つづけた。だが人は愚かだった。愚かだったぞ、ディスティよ!」
 ずっと見守りつづけていた。人の世を。過ちゆえにまた零から始めさせられた人の世を。
 だが、愚かだった。失望するほど、愚かだった。
 人は神に縋り、戦争を繰り返した。創造主が創り上げた存在同士で、破滅を歩んでいた。完璧には程遠い、乱れた秩序の、腐りきった世の中だった。
「我は――納得が、出来ぬ。出来ぬぞ、ディスティよ。そなたが創り上げた存在同士が、破滅へと歩んでいく様を許容は出来ぬ。そなたの力で創られた恩を、あの愚かしき動物たちは忘れている! 感謝することもない。そなたの名前を出して、破滅を繰り返しておる! 感謝の皮を被り、そなたに総ての罪を着せている! あの愚かしき動物たちは、恩を忘れておる!」
 ――私はそんなものを望んではおらぬ。
「我はそれが判らぬ! そなたに……罪が着せられるのは、許容……でき、ぬ……」
 言葉尻が萎んでいったのを、自覚した。辛かった。泣きたいほどに辛かった。
 何故、伝わらないのだろう。敬愛しているのだ。傾倒しているのだ。其れ故に、人がディスティを愚かしくも道具にしか使わないのを、許容することは出来なかった。
 何故、その事が伝わらないのだろう。熱い感情が体の中心を駆け上がってくるのをエリスは感じた。涙となって零れることはなかったが。
「そなたが……それをせぬと言うのなら、我が代わっても良い。人の世を再生する」
 ――故に、この結果か。
 闇が一瞬にして広がり、すぐに風景が見えた。愚かしき動物たちが、血で血を洗う戦場が。
「我はこれを望んだわけではない。人の世を再生すると告げただけだ!」
 ――自身が正義と信じてやまない人間たちが、汝の声を聞き更に傷つけあった。
「それは人が愚か故だ。何故そなたは我を信じぬ」
 泣きたいほどの慟哭を押さえ込んで、彼女は言葉を続けた。
 ――汝は、間違いを犯した。
「違うっ!」
 悲鳴じみた絶叫と同時に、力が体外へ排出されるのが判った。それが闇に向かって突き進んでいくのを感じ、彼女は再度悲鳴を上げた。
「ディスティ!」
 その力が、まかり間違って創造主を傷つけることでもあったなら――その不安が、絶叫になった。放つつもりもなかった。だが、感情が溢れかえり、気付くと力が体外へ排出されていた。思ったよりも、大きく力を放ったようだった。指先が痺れ、力が抜けていく。
 だが、幸いにしてその心配は徒労に終わった。
 闇が停滞し、その力を飲み込む。眼下に見えていた人の世が薄れて消えた。幾筋か、力が零れたような気もしたが、だからといってどうということもないだろう。
 安堵と、失望とが交じり合って吐息となった。吐息とともに、言葉を漏らす。
「我を信じぬというのか」
 視線を闇に据える。闇はまた、陽炎のように揺らぎ始めている。
 ――この世を生み出したのは私だ。
 先ほどと同じ押し問答に、彼女はかっとして叫びを返した。ただし今度は、先ほどよりは自制して。
「だから、我を信じぬと言うのか!」
 ぐっと言葉を飲み込み、一瞬だけまぶたを下ろした。すぐに開き、また見据える。
「そなたは我を認めたのではないのか。我に世を分け与え、我の力を認めたのではないのか。我はそなたと共に歩む。そなたが与えた永遠の命で、そなたに永久に仕えよう」
 この、愚かな動物たちとは違い、そなたを傾倒しつづけよう。
 だが、言葉はなかった。
 闇が広がり、身を侵蝕していく。安堵に似た感情を覚えたが、それはすぐ恐怖にとって代わった。今までの、安らぎに似た闇の中ではなかった。それは捉えられる恐怖だった。断絶される怯えだった。
 切り離される、其れ故の闇。
 髪が溶ける。白き肌が喰われる。
「それの何が気にいらない。我が元のこの大陸も、そなたのために使おう」
 応えは、ない。
 この闇に呑まれれば、総てが断絶される。そのことを直感的に理解し、彼女は身を捩った。
「応えよ! 運命の名を持ちし者よ! ――応えよ! ディスティ!」
 だが、応えはなかった。
 闇が、全身を侵蝕する。そして、全てが止まった。
 胎動する闇が、言葉を発する。
 真の闇の中に捕らわれたまま、エリスはその言葉を聞いた。

 ――セレネよ。
 ――己が力を過信せし、哀れな女神よ。
 ――汝に、新たなる名をしんぜよう。
 ――月狂いたる汝に。
 ――ルナの名を与えん。

 そして、紅い光が生まれる。
 彼女は――闇に抱かれたまま、呟いた。
「そなたの応えがそれだと言うのなら、我は働きかけるのみ」
 そなたがこの大陸を世界から断絶したのなら、その世界を利用するのみ。
「そなたが、振り向かざるを得ないように」
 完璧たる世界にする。
 世界を変えるその予行として、この大陸を完璧なものとする。
「この、我が世は、何よりも完全たる存在になる」
 そのために、愚かしき動物たちを淘汰せねばなるまい。
 愚かしき動物たちの中から、世界を変える力を持つものを選出せねばなるまい。
 我が片腕と成り得る者も、見つけねばなるまい。
「我が子らによって」
 血よりなお紅き両の瞳をもって、エリスはその最後の言葉を呟いた。
 セレネと――ルナとともに。

「月の子よ」

 そして、紅の光が闇を塗り替える。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 もう、聞こえるはずのない祈りの声が――聞こえた。


 目の前で弾けた紅の光に、アンジェラ・ライジネスは息をするのも忘れ呆然と前を見据えていた。
 何が起きたのかは、判らない。ただ言える事は、目の前の親友が倒れて動かないこと。倒れて動かなくなっているにもかかわらず、まだ唐突に体が傷ついていくこと。その事実だけだった。
 そしてその彼女から、紅の光が弾けた。明滅するように、一度、二度。その事実だけだった。
「っ……」
 こめかみを突き刺すような頭痛を覚え、アンジェラは顔を顰めた。目覚めてから、この調子だ。このよく判らない紅い殻の中に捕らえられた状態で目を覚ましてからずっと、頭痛がやまない。
 その度に脳裏に次々と浮かんでくる映像もまた、同じだった。
 倒れ伏した親友。その声はもう聞こえない。血の気のない唇はかさかさに荒れて、硬く閉ざされた瞼はぴくりとも動かない。額に流れた血は凝固している。そんな映像が、次々と浮かんでくる。
(いや……もう、いや……)
 泣いた瞼が、叫んだ喉が、痛い。こんな映像はもう見たくなかった。目の前で倒れる親友の姿に、四竜に囲われながら倒れている親友の姿に、どうあがいたところで重なって見えてしまう。だったら、この瞳をくり抜いてしまいたい。そんな衝動にさえ駆られた。
 実際のところ『未来視』は肉眼で行うわけではない。目で見るように脳裏に映像が飛び込んでくるだけだ。だが理屈はどうあれ、この映像を見ないですむのなら、何でもしたい気にさえなっていた。
「……リ……」
 唇が震えて、上手く音を出せなかった。どうすれば言葉は音になるのだろうか――と、良く判らない疑問さえ浮かんでくる。
 アンジェラにとっては、本当はどうでもよかった。
 女神がどうのだの、ルナ大陸の結界がどうのだの、ラボがどうのだの、そんな事はどうでもよかった。
 ただ、どうしても納得がいかなかったのだ。
 何故、親友がいつも傷つかなければならない?
 何故、彼女は笑顔でいられない?
 その事がどうしても納得できなかったのだ。
 セイドゥールを飛び出した夜、アンジェラは切に願った。ただ、ひとつだけを願った。
 エリスが、ずっと笑っていて欲しい。
 一緒に、ずっと笑っていたい。
 ただ、それだけなのだ。難しいことでも何でもない、ただそれだけだった。月が支配するこの大陸で、月の者として生を受けた彼女は、けれど小さな星だった。弱く光を発し、それでも自ら輝こうとしている光星だった。アンジェラはその星の輝きを、ずっと隣で見ていたかった。だから一緒にあの街を出たのだ。
 ルナの女神なんて知ったことか。
 彼女の能力がなんだって関係ない。
 ただ、ひとつだけ。
 ただ願いは、ひとつだけだ。
 ――エリスが笑っていて欲しい。その隣で、ずっと一緒に笑っていたい。ずっと、二人でいたい。ずっと、一緒にいたい。
 ただ、それだけなのに。脳裏に次々と生まれてくる見たくもない未来の映像は、絶望的なまでの闇を持って、アンジェラの心を侵蝕していった。硬直した指は動かない。横たわる彼女の胸は上下しない。風に吹かれる墓標。
 音にならない絶叫を、アンジェラは上げていた。白い指が更に血の気を無くすほどきつく拳を握り、目の前の紅い壁を殴りつける。
(――信じない! 信じない! 信じない!)
 そんな腐りきった未来なんて、誰が信じるものか。彼女は言ったではないか。二人で生きるんだと、そう口にしたじゃないか。だったらこんな未来、偽物に決まっている。
(私は――エリスを信じるって、そう決めてるんだから!)

 どんなことがあっても、エリスを信じてる。

 そう、手紙に綴ったのだから。
 どんなことがあっても。
「私は……! エリスを信じてる!」
 ようやく音になった絶叫と共に、アンジェラが再度拳を振り下ろした。
 その瞬間だった。
 ゆっくりと明滅していた紅の光が、急速に強さを増す。
 そしてそれは――閃光のようにその空間を飲み込んだ。
「――!」
 眩しさに思わず目を閉じる。
 光が、消える。
 ゆっくりと瞼を開け――アンジェラはアメジストの瞳を見開いた。
 血にまみれた指が、ぴくりと動いた。赤い髪が、ゆっくりと持ち上がる。
 そして、瞳が――紅の瞳が、意志の強さは失わないままに、見えた。
 息を吸った。心臓が早鐘を打つ。だがそれはさっきまでの苦しい痛みではない。歓喜だ。視界に溢れた涙を払って、アンジェラは叫んだ。呼びなれた名前を。
 大切な星の名前を。
「――エリスッ!」


 少しでも気を緩めれば、それだけでショックに心臓がひっくり返りそうな――そんな激痛を覚えながら、それでもエリスは顔を上げた。
『お嬢ちゃん……』
 蒼竜の声が聞こえ、エリスは息を吐いた。すぐ傍に四つの色彩が見える。四竜が各々の瞳で見下ろしてきている。
 四対の瞳を――八つの目を見返し、エリスは軽く頷いてみせた。
 思ったほど、体は重くなかった。疲労は無論、ある。むしろ意識を取り戻したこと自体が奇跡のような状態だ。だがそれでも、体は重くはなかった。
 左腕が動かない。骨が折れているらしい。裂傷はあるが、何とか無事な右手で床をとらえた。石の感触が指先に冷たく、それが逆に心地良ささえ生む。腕を滴り落ちる血で一瞬滑りそうになったが、何とか堪えた。
 目前の女神の顔が、驚愕を浮かべているのに気付く。そのことに理由の良く判らない笑みさえ零れた。
 血と汗で張り付く前髪を鬱陶しく払いのけて、足を引き寄せる。激痛が身を苛んだが、だからどうということでもなかった。むしろ文字通り満身創痍で、無事な箇所を見つけるほうが苦労する有り様なのだから、激痛は当然のことだろう。そんな事はどうでも良かった。
『……破壊の力を、制御しただと……』
 うめくような言葉を聞いて、エリスは立ち上がった。足も無事ではなく、直立とはいかなかった。不安定な状態で、それでも何とか両足で立ち上がり、女神を見据える。吐血のせいか、鼻血のせいか良く判らなかったが、口内に溜まる不快な鉄の味に唾を吐いた。
「あんたの言う通り――鍵を手にしたから、ね」
 能力はその時点で確かに明確に覚醒した。だがそれと同時に、それを制御するだけのものも石は与えてくれたのだろう。
 だが、それだけでは足りなかった。それは事実だった。
 ポケットに手を突っ込んで、エリスは顔をゆがめた。手のひらに――指先に――かかるそれを掴んで持ち上げる。
 さらりと、それは指の間から零れ落ちた。
 紅い砂。
「……守って、くれたんだね」
 元々そのポケットに入れていたのは、砂ではない。
 月の石だ。――ダリードの形見の、石。
「守ってくれたん、だよね。ダリードくん」
 それはもう、砕けて、原形をとどめてはいなかった。砂を握り締め、エリスは呟いた。
 聞こえたのだ。祈りの声が。それは恐らく、幻聴ではあったのだろうけれど――それでも、聞こえたのだ。
 ドゥールの声が。イヴの声が。そして、ダリードの声が。
 よく見ると、エリス自身の首からさがっている月の石も内部に亀裂が走っているし、手のひらの中にあったドゥールの石は綺麗に二つにはぜ割れていた。
 力を――貸してくれたのだろう。
『力を……我等と同じとする破壊の力を制御しただと――? 人の身でありながら……!』
 呟く女神を見据え、エリスは言葉を吐いた。
「アンジェラ。覚えておいて」
 宝玉の中のアンジェラが、こちらを見据えているのに気付く。笑みさえ浮かべ、エリスは続けた。
「確実不変の未来なんかない。蒼竜のおじーちゃんがそう言っていた」
 その言葉に、蒼竜の表情に穏やかな笑みが広がるのが見えた。
 息を吸い、言葉を続ける。
 女神を、アンジェラを、見つめながら。
「未来はあたしたちが築くもの。変えられない未来なんてないんだって。だから、あんたが見た未来の中であたしが死んでいたとしても。それだって、変えられるはずだから」
 アンジェラの瞳に涙が溢れているのを見て、苦笑が漏れた。
 そう言えば、彼女は昔泣き虫だったと、そんな事をふいに思い出して。
「あたしは――死なないよ、アンジェラ」
 剣を握るだけの余力は残っていなかった。だからエリスは、動く右腕だけを突き出した。
 女神に向かってすっと、その腕を持ち上げた。
「全ての力の源は、人の想い、祈り。皆があたしに教えてくれた」
 赤竜が目を細めるのを背中で感じた。
 エリスは視線を動かした。宝玉の中にいる、仲間を見る。
 ジークを。ミユナを。ゲイルを。彼らはアンジェラとは違い、意識はない様子だった。それでも。
 彼らもまた、教えてくれたのだ。彼らもまた、祈ってくれていた。
「みんなの声を聞いたの。皆が祈ってくれてた。だから、あたしはこんなところで死ねないよ。ルナ。あたしはあんたの駒にも、ならない」
 女神が激昂したように言葉を荒らげた。
『ならば、死ねばよい! 汝もまた失敗作だ!』
 空間を紅い焔が走る。
 空気そのものがひしゃげるような圧力を身に感じる。四竜が翼を広げて守ろうとしてくれるのが判った。だがそれらを押しとどめるように、エリスは前へと足を踏み出した。
 焔を見据えたのは、ほんの一瞬だった。右腕を振り下ろす。
 鈍い破裂音が轟き、後に残った衝撃だけが身を叩いた。
『力を、完全に自分の物としたか……!』
「そうみたいだね。でも、あたしには『あんた』を斬れるだけの力はないはず」
 力を制御したところで、具現化した攻撃の余力ならともかく、女神そのものを破壊するだけの力はないだろうと踏んで、エリスは言葉を告げた。
 既に、判っていた。理解していた。先ほど確信した『斬れる』と思ったことは、間違いではなかったが、同時にやはり若干間違いだったことを。
 斬ることができるのは、女神そのものではない。否――もしかしたら、やってみれば出来なくはないかもしれない。だが、とエリスは胸中でかぶりを振って言葉を続けた。
「それに、それは――意味を成さないから。そんなことしたら、この世界がどうなるか判らないし。それに、そんなことは……ディスティだって望んでいないでしょ?」
『貴様如きが妄りにその名を口にするでない!』
 叩きつけるような女神の言葉に目を細め、エリスは息とともに言葉を吐いた。
「あんたを壊すことは出来ない。でも」
 下がっていた右腕をもう一度持ち上げる。
 左手の中にある、ドゥールの形見である月の石が熱い。首から下がっている自身の石も。ポケットの中の粉は、もう既に何も働きかけてはこなかったが。
 ――斬れる。
 それは、女神そのものではない。本来女神はこの人の世に存在しているものではない。だとすれば、エリスが斬れるのは女神そのものではなかった。
 理解していた。なにを斬るべきかを。その能力で、何を破壊すべきかを。
 エリスは右腕を上げたまま、声を荒らげた。
「――あんたが、この世界に存在として『具現化』している力そのものなら、斬れる!」
『させぬ!』
 女神もまた腕を持ち上げ――
 その時には既に、エリスは飛び出していた。どこにそんな力が残っていたのか、自分でも疑問に思うほどの速さで女神に切迫した。
 肉体の訴えかける痛みも、疲労も、重みも、精神の中で燻っていた女神に対する傾倒も、現状に対する不安も、何もかもが一瞬、頭の中から抜け落ちていた。
 右腕を持ち上げ、さながらそこに剣を手にしているかの気で、エリスは声を張り上げた。
 全ての祈りを凝縮させたかのような、叫びを。

「斬――ッ」

 そして、紅の瞳を――神々と同じ罪の証の瞳を持った少女は、破滅の一閃を――薙いだ。


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