最終章:The rose moon――女神の祈り


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 静寂が、招かれた。
 音が消え、女神の紅い瞳がエリスを捉える。
 揺らぎは、一瞬だった。一瞬は永遠に引き伸ばされ、また一瞬に戻る。
 女神の美しく整った顔が揺らぐ。塵が混じるように陰りが浮かび、女神の紅い唇が何事かを呟くように戦慄いた。
 それらは全て一瞬の出来事だった。
 そして――


 一瞬が、弾けた。


「っ……」
 紅の光が空間を染め変え、全てが消えたとき、エリスはその場に倒れた。
 自身の体が床に叩きつけられる鈍い音も、頬を擦った摩擦も感じなかった。指先すら動かすことの出来ない疲労と、心臓を止めかねないほどの激痛が襲ってくる。噴き出した汗が血とともに体温を奪っていき、寒さを覚えた。何とか自由が利く肺だけで、荒く、けれど細い息を繰り返す。
 知らずに落ちていた瞼は、睡魔を呼ぼうとしていたのかもしれない。一瞬だけ、気を失っていたのだろう。何とか瞼をこじ開け、目を凝らす。歪み、滲んだ視界の中、女神の姿を探す。
 目の前に広がるのは、ただ薄闇だった。やや青を流し込んだ薄闇の中、いつのまにか傾き始めていた月に照らされるように、紅いレリーフが飾られている祭壇が、静かに佇んでいる。背後に感じる気配は四つの、人間以外のもの。女神ではない。四竜だ。
(……いな、い……?)
 朦朧とする意識の中で、呆然と言葉を漏らす。禍々しいほど美しい女神ルナの姿は、そこになかった。
 唐突に、頭上で音が響いた。
 冬場、氷が張った池に剣を突き立てた時のような甲高い音だった。それらが断続的に響き渡る。
 エリスは無理やり顎を上げた。
 虚空に浮かぶ四つの宝玉が見えた。それらに、まるで蜘蛛の巣のように白いひびが入っていっている。アンジェラ以外の全員が、目を覚ましていた。それぞれがそれぞれに驚愕の表情を浮かべ、内部から宝玉を叩いている。
 宝玉が、割れようとしている。
 それに気付いたとたん、エリスはもう一度叫んでいた。
「壊れろっ!」
 かすれた叫びに呼応するかのように、破裂音が響く。甲高い悲鳴のようなその音は、エリスの耳を心地良く刺激した。
 紅い輝きが――割れた宝玉の欠片が、降り注ぐ。
 そして、耳に慣れた愛しい声が、降り注いだ。
「エリス!」
 声に導かれるように、エリスは体に活を入れた。痺れが残る体の末端が、ぬくもりを帯び始める。まだだ。まだ、大丈夫。生きている。
 抱きしめたい。その手を握って、ぬくもりを感じたい。
 衝動が内部から溢れ出てくる。大切な親友の声がする。ずっと聞きたかった声が。ずっと傍にあった声が。
 足が震えた。脳をそのままシェイクされたかのような眩暈と吐き気が襲ってきた。だがそれらを振り払って、エリスはふらりと立ち上がった。平衡感覚も狂っているのか、自分が立っているのか否か、判断しがたい状態ではあったが――それでも、立ち上がった。
 安堵と歓喜が、内面から溢れ出てきて笑みを象った。
 見えた。
 弾け跳んだ宝玉の紅の中、ふわりと風に舞う長いウェーブの黒髪。
 白い肌。僅かに飛んだ涙の雫。
 そして――アメジストの瞳。
 エリスは動く右腕を広げて、呼びなれた名前を呼んだ。

「――アンジェラ!」

 飛び込むように、彼女は腕の中に舞い降りてきた。
 その衝撃を、強さを、確かに体全体で感じる。痛みが膨れ上がったが、それすら現実の感覚だと認識するために役立った。夢ではない。事実、彼女は、ここにいる。この腕の中に。
 アンジェラの腕が、背中と後頭部にまわった。動く右腕だけで、エリスもアンジェラの頭を抱え込んだ。指先に絡みつく長い黒髪のしなやかさは、変わりない。まるく小さい頭の形も、嗅ぎ慣れた香水の残り香も。耳元にかかる熱い吐息も。すすり上げるような泣き声も。背中に回された細い手が震えている感触も、首筋をはう冷たい指の形も。何もかも、全て、いつものアンジェラと変わりない。大切な親友と。
「エリス、エリス」
「うん」
「エリスよね。生きてるのよね。私の『視た』未来じゃないのよね」
「違うよ、生きてる。大丈夫」
 すすり泣きの合間から繰り返される、幼い呼びかけに、エリスは何度も頷いた。
「あたしだよ、アンジェラ。泣くな」
 言ってはみても、アンジェラの涙は止まらなかった。頬に冷たい感触を覚え、エリスは自然と微苦笑を浮かべた。
 昔は、泣き虫だった。よくこうやって泣いていた。いつからか、彼女より自分のほうが涙腺を緩ませる回数が増えていた気がするが――やはりアンジェラは、アンジェラなのだ。
「約束したよね、アンジェラ。ずっと一緒って。だから、迎えに来たんだ」
 アンジェラが小刻みに頷いた。
「……うん、うん。信じてた。……エリスなら、絶対、迎えにきてくれるって……」
「ずっと、一緒ね。約束よ、アンジェラ」
 約束の言葉に、アンジェラが僅かに身をひいた。こちらの顔を見据えてくる。
 その時になってようやく、自身も涙を零していたことに気付き、エリスは苦笑した。アメジストの中に映る自分が、涙を零している。
 アンジェラは微笑んだ。涙に濡れた瞳で、けれど、鮮やかに――艶やかに。
 雨上がりの紫陽花のように、綺麗に微笑んだ。
「……うんっ!」
 その笑顔の眩しさに一瞬目を細める。
「エリス!」
 ふいに割り込んだ別の声に、エリスは顔を向けた。
「ゲイル! ジーク! ミユナ!」
 ジークに支えられるようにゲイルが立っていた。ミユナはそのままこちらに駆け寄ってくる。
「みんな無事だね……よかった」
「お前が一番無事じゃないだろうが!」
 叱りつけるようなミユナの叫びに、エリスは苦笑いするしかなかった。確かに、彼女の言う通りだ。
 駆け寄ってきたミユナに場所を譲るように、アンジェラが身をひいた。ただし、手は繋ぎあったままだ。ミユナはこちらの正面にまわると、口早に呪文を唱え始める。
「ミユナ、いい。俺がやったほうが――」
 ジークの言葉に、ミユナがかぶりを振った。
「無理だろ。今日一日で、お前、自分がどれだけ疲労してるか気付いてるのか? あたしにだって、これくらいはできるよ。今おじさんに無茶されたら、後々厄介だろ」
「おじさん言うな」
 思いっきり渋面になり、ジークがうめく。その様子に、エリスは思わず笑みを零していた。
「ゲイル、助けてくれたんだね。ありがとう、ジーク」
 完治と言うには程遠い様子ではあったが、それでもゲイルは支えられるように立っていた。血の気の失せた顔で、それでも、微笑んでいる。
「エリスちゃん」
「うん」
「アンジェラちゃん……救えたんだね」
「うん」
「女神――は?」
 ミユナのかけてくれていた治療のための法技は、春先の陽射しのような穏やかさで身に染みていった。それを一瞬押しとどめ、エリスは唇を開いた。
「消えたよ」
「倒したの……かい?」
「……違うと思う」
 頭を振って、エリスは続けた。宝玉の中にいたとき、アンジェラ以外の彼らは目を覚ましていなかった。当然、エリスの『能力』も知らないはずだ。右手のひらで繋がりあったアンジェラが、僅かに握る手に力をこめたのが判った。なれた感触に、ほぼ反射で握り返す。そのこと自体が、嬉しい。
「女神がこの世界に具現化した力そのものを斬ったの」
 剣ではなく、能力で、ではあったが。
「具現化の力?」
 眉をひそめたジークを見上げ、エリスは軽く首を傾げた。
「たぶん。……理論的なことは、あんまり判らないし。何となく理解したって感じだから、ほとんど推測ばっかになっちゃうんだけど……」
「言ってみろ」
 ジークの言葉にひとつ頷いて、エリスは続けた。
「本来、女神が存在する空間と、あたしたち人間がこうやって生きてる空間ってのは全く別次元にあるんだと、思う。普通は混じりあわないはずなの。干渉が全く効かないってことじゃなくて……なんだろ。お告げみたいな感じで、言葉を人間に与えたりは、出来るんだと思う。存在そのものとして、こっちにこれないだけで。ただ、たぶん――あたしの存在が媒介になった、のかな。それで、女神はこの人の世界に『具現化』したの。存在として」
 言いながら、エリスは首を傾げた。自分でも顔を顰めながら、呟く。
「……たぶん」
 感覚として理解はしているのだが、理論だてて説明するには少しばかり自信がなかった。そんなこちらの様子に、ゲイルが苦笑を深くする。
「いいよ。みんな、無事だったから」
 その言葉に、エリスは言いようのない胸の痛みを感じて俯いた。
 みんな、ではない。決して。彼の大切な兄であるドゥールは死に、彼の妹であったイヴはその存在そのものがない。アーロンやケイレブも。ダリードも。彼の家族は決して、『みんな』無事ではない。
 アンジェラが疑念に眉を寄せたのが視界の隅に映った。彼女は知らない。ドゥールが死んだことも。イヴが――消失したことも。
 こちらの様子を汲み取ったのだろう。ゲイルが、やや躊躇いがちな手でこちらの頭を撫でてきた。
 撫でられながら、エリスは思わず言葉を漏らしていた。
「守って……くれたんだよ」
「え……?」
 ゲイルが目を瞬かせる。碧色の淡い光を灯す瞳を見上げ、エリスは震える唇で告げた。
「守ってくれたの。あたし『力』が制御できなくて、でも、守ってくれたの。ドゥールとダリードくんの石が、力をかしてくれて。みんなが祈ってくれて、だからあたし、死ななくてすんだの」
 感覚のない左腕は、まだそのままだった。苦々しく思いながら、アンジェラに目配せをして右手を離す。右手で、左手のひらの中の石を――二つにはぜ割れたドゥールの月の石を握りなおした。
 ゲイルの前で、ゆっくりとひらく。
 紅い石は、綺麗にはぜ割れている。鋭さを見せ煌く断面を空気に晒しながら、二つの破片となっていた。
 ゲイルの顔が歪む。
「ごめんね。ドゥールの形見なのに。ダリードの石は……粉々に、なっちゃって。大切にするって、言ったのに」
 ゲイルの手が、震えながらドゥールの石を受け取った。隣にいたアンジェラも、ドゥールが死んだことを察したのだろう。何も言わず、ただ黙していた。
 ふいに、ゲイルが腕をまわしこちらを抱きしめてきた。柔らかい抱擁に、小さく安堵の息が漏れた。
「……かった」
「え……?」
「エリスちゃんが無事で……よかった」
 囁かれた言葉に、また涙腺が大きく緩みそうになった。ゲイルの肩越しに見ると、ミユナが小さく嗚咽を漏らしていた。ジークが大きく息をつき、四竜を見据えた。
「……お前らは、これで良かったのか?」
『未来を紡ぐ力は、神にはないものだ』
 ゲイルの腕の中、蒼竜ファイディの声が聞こえた。
『人が神に勝るのは、その力だ。未来を紡ぐ力。わしらは、それを見守りつづけるよ』
「――じゃあ、ここでぐじぐじやってる場合じゃねえな」
 太い笑みを浮かべ、ジークは四竜を眺めると、黒竜の背に手をかけた。黒竜ディアンは目をぱちくりとさせる。
『なんだ?』
「乗っけてってくれって言ってんだよ。未来を紡ぐためうんたらじゃ、こんなところに立ち止まってるわけにゃいかねえだろーが」
『ああ、そういうこと。判った。乗れ。振り落とされないようにしろよ』
「振り落とすなよ。――行くぞ」
 振り返り、ジークは軽く手を振った。促され、ゲイルがエリスの体を放す。涙のせいなのか、僅かに赤らんだ目元を拭いながら、微笑んでくる。
「行こう、エリスちゃん」
 こくりと頷き、エリスは振り返った。
 ドゥールの死に、ショックを受けているのかもしれない。唇をきつく噛んでいる親友の姿を見止め、エリスは右手を差し伸べた。
「アンジェラ」
 差し伸べた手に、アンジェラが手を重ねる。俯き、小さく言葉を零してきた。
「死んだの、彼?」
 囁くような細い声音に、エリスは一度だけまぶたを下ろした。
「ん」
「……そう」
 繋ぎあった手に、力が篭った。それを強く握り返し、エリスは顔を上げる。再度法技をかけてくれていたミユナの手を止めさせ、彼女に告げた。
「ミユナ、行こう。治療は、あとでいいよ。とりあえずここから、出よう」
 本当に酷い傷は、あらかたふさぎ終えてあった。短時間でこれだけの治療は、そうそう出来るものではないだろう。
 もっとも、彼女にすれば納得できるほどではなかったらしいが、それでも少し躊躇いをみせたあと、ゆっくりと頷いてきた。赤竜カサドラに向かって歩き出す。カサドラ自身の翼を足台にして、その背にのった。ゲイルも、白竜ジェイフェスの背に乗っている。
 蒼竜ファイディが微笑んで、翼を広げた。

 いつのまにか、空は闇色から淡い青へと変わり始めていた。
『行くか、お嬢ちゃん』
 ――そして、ふいにその顔が強張る。
『いかんっ!』
「え?」
 その声を耳に捕らえたその時には――
 エリスとアンジェラは手を繋ぎあったまま、赤い闇に呑まれていた。


 目の前で起きたその一瞬の出来事に、ゲイル・コルトナルは思わず悲鳴を上げていた。
「エリスちゃん! アンジェラちゃん!」
 何が起きたのか――その場にいる誰も理解は出来なかっただろう。ただ、二人の少女が居た空間を、いきなり赤い闇が呑み込んだ。それだけだ。
 ふいに、ゲイルはぐらりと視界が揺れるのを感じた。血を失ったための貧血かと思ったが、どうやら違うらしい。
 白竜も揺れている。――否、塔全体が揺れている。
 激しい音を立てて、祭壇が倒れた。
「なっ……んだあ!?」
 混乱したジークの叫びに視線をやると、すでに黒竜は翼を広げていた。
『ルナ様の余波だ! 具現化の力を斬られてこっちに干渉できねえ状態だったのに、無理矢理あの二人を呑み込むように現れたから、空間が悲鳴を上げてるんだ!』
「わけわかんねえっつの!」
『判れよ! とにかく、無理矢理現れたからその余波で空間が悲鳴を上げて――影響下に一番近いこの塔自体が崩れ始めてる!』
「崩れ……!?」
 悲鳴を上げたのはミユナだった。困惑したように瞳を目一杯見開いている。
「逃げるしかねえな。ったく、お約束な」
 苦虫を噛み潰したようにジークがうめく。蒼竜もばさりとその翼を――美しい蒼い翼を広げた。
「ちょッ、ちょっと待てよ!」
 同じように翼を広げ、浮遊し始めた赤竜に向かい、ミユナが声を荒らげる。
「エリスとアンジェラは!? 放っていくのかよ!? ドゥールも――」
『アタシたちにもどうしようもないわ。アタシは、あなたたちを救いたい。行くわよ』
 風が吹き荒れる。その間にも、塔はぐらつき始めていた。
「ドゥ――」
 兄が、まだ、いる。この塔の中に。
 そのことに気付いた瞬間、ゲイルは白竜の背中から飛び降りていた。まだ完治していない体が悲鳴を上げるのも無視して、走り始める。すぐ前に、壁が降ってきた。床が揺れて、足元がおぼつかない。けれど、走った。
(ドゥールを、ここに残してはいけない!)
「馬鹿やろう!」
 だが、すぐにゲイルは肩をつかまれてつんのめった。焦燥しきった顔で振り返ったゲイルの目に映ったのは、ジークの静かな怒りの表情だ。
「死ぬ気か」
「ドゥールがいるんだ! 放っておけない!」
「あれは死体だ!」
 叩きつけるような言葉に、ゲイルは顔をゆがめた。ひとつ呼吸をしたジークが、ゲイルの胸倉を掴んで引き寄せる。吐息がかかるほど近くに寄せ、囁く。
「いいか。あれは死体だ。ただの容器(いれもの)にすぎない。あとは蛆がわいて蝿がたかって土に返るだけのしろものだ。お前の兄は死んだ。もうどこにもいない!」
「……っ!」
 何かを言おうとして、ゲイルの唇が戦慄いた。だがそれは音にならない。
 そのゲイルを白竜の背に戻すように引き摺りながら、ジークは吐いた。赤竜の背から、今にも飛び降りそうになっていたミユナを見据え――否、睨み上げて。
「ドゥールはお前等を守った。守って死んだ。判ってんだろ!? ただの死体のために、お前等が死ぬことをあいつが良しとすると思うのか!?」
「……」
 壁が、崩れて落ちてくる。破片を一度だけ払いのけ、ジークはゲイルの体を白竜に押し付けた。
「生きろよ、ゲイル」
「……」
「ドゥールの分も、ダリードの分も、弟たちの分も。――生きろ」
「……っ」
 ほんの一瞬の逡巡のあと、何かを振り払うようにゲイルはうめきを漏らした。そのまま、白竜の背に昇る。ミユナが赤竜の背に顔を埋めているのをみて、ジークもまた黒竜の背に乗りなおした。
『――あの子らは』
「帰って来る」
 蒼竜の声に、ジークは淡白に言葉を返した。四竜は今度は何も言わず、翼をはためかせる。
 四対の色が、深い藍染めの空へと舞い上がった。
「生きろよ」
 黒竜の背に乗り、夜明けが近付いた空へと舞い上がりながら、ジークは低く呟いた。
 風が、その呟きを飛ばしてしまい、もう誰にも聞こえはしなかったが。
(――生きろ。それが、彼女の最期の言葉だったから。お前は覚えていない、けれど確かに存在した、お前の妹の言葉だから)
 空にはまだ、月が昇っている。
 けれど、彼女の瞳のように青い空を覗かせる夜明けは――遠くない。


 眼下で、女神の塔が崩れていく。 


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