新序章:The starting legend――そして、旅立ちの日


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 春先の陽射しは、柔らかくぬくもりを染み渡らせてくる。
 ともすれば眠りを誘うその光の中でまどろんでいると、まるで自分が猫にでもなったかのような感覚にさえ陥る。
 深緑のベンチに腰掛け、少女はそんな事を思いながら瞳を閉ざしていた。
 丁寧に切られた赤髪。今は瞼に閉ざされていて見えないが、その奥にある瞳もまたも艶やかな真紅だ。一年前に比べ、当然ひとつ歳をとってはいるのだが、身長はさほど伸びていない。
 それでもやはり顔つきにしても肉体にしても、それなりの成長はある。外見的には判らないが、恐らく内面はもっと何かあるのだろう。それがこの年頃の少女だ。
 色煉瓦で造られた、幾何学模様の地面。ベンチと同じ色の街灯には、当然ながら火はともっていない。広場の真ん中にある噴水の周りでは、子供たちが楽しげな声を上げてはしゃいでいる。噴水の飛沫が水面を叩く音に混じって、水路を行くゴンドラ(水路舟)から、ゴンドリエーレ(ゴンドラ乗り)の陽気な歌が聞こえてくる。水路を渡る風に乗って、パンの焼ける良い匂いも流れてきた。少し離れたアニタ・ソットポルテゴ(アニタのアーケード通り)あたりからのものだろう。
 春先の早朝は、常にこんなものだ。
 ルナ大陸西部、セイドゥール帝国。セイドゥール・シティ。
 アグライア・カンポ(輝き乙女の広場)のベンチに座り、エリスはゆっくりと瞼を上げた。
 射しぬくような朝日に少し目を細め、手を翳して影を作る、
 薄い水色の空には雲ひとつない。朝日に照らされて、街中の水路がきらきらと輝きを反射していた。その水格子に照らされた建物もやはり、煌いている。
 いつも通りの、セイドゥールの朝。
 それを体中で感じて、エリス・マグナータは微笑みを零した。
 いつも通りの朝。けれど、ここで迎える朝は今日でおしまいだ。少なくともしばらくはお預けだ。
 胸元のペンダントを空に掲げてみせる。内部に亀裂を抱えている石が、きらりと赤色を反射した。
「何してるんですか?」
 と――ふいに、顔に影がかかった。
 見上げると、ひとりの少年がこちらを覗き込んできていた。
 綺麗に整えられた黒髪と、高価なめがね。カイリ・アクアリード。エリスの数少ない友人だ。
 ベンチに背を預けただらしない体勢のまま、エリスはやはりだらしない返事を返した。それが許される相手でもある。
「へにゃあーってしてた」
「何語ですかそれは」
 呆れたように呟き、カイリはエリスの隣に座る。エリスも姿勢を正して、噴水を正面に見つめた。
「今日ですね」
「うん」
 軽く頷く。と、カイリがエリスの髪を撫でてきた。目を瞬かせて隣を見ると、カイリは苦笑のような不服のような、そんな曖昧な表情を見せていた。
「また切ったんですね? せっかく少しは伸びてきて、女の子らしくなったかと思ったのに」
「るっさいなぁ。短いほうが便利なんだもん」
 カイリの手を払いのけ、頬を膨らませてみせる。その様子に、カイリはくったくなく笑みを向けてきた。
「で、アンジェラは?」
「もーちょっとしたら来ると思うよ。パズーは?」
「もうちょっとしたら来ると思います」
 同じ言葉を返してきて、カイリはふと立ち上がった。そのまま、エリスの背後にまわる。
「なにー?」
「じっとしといてください」
 言われたとおり、動かずにいる。と――カイリが何をしようとしているのか、すぐに知れた。噴水の周りではしゃぐ子供たちを見据えながら、笑みが浮かぶ。
 頭に感じる微妙な違和感は、心地良くさえ覚えた。
 ちょうど五年程前には、やはりエリスも同じようにあの噴水の周りで遊んだいたことを思い出す。アンジェラやカイリ、パズーと共に。だとしたらあの時にも、今の自分と同じようにその様子を懐かしく見ていた誰かもいたのかもしれない。
 そしてたぶん、これからも。あの子供たちも少し歳を重ねれば、このベンチに同じように座って、また別の子供たちを見るのかもしれない。そうやって続いていくものも確かに、あるのかもしれない。
 女神結界がはずれ、他大陸との交わりも少しずつはじまり始め、やはり同じようにほんの少しずつ日常に混じり始めている今までとは違う異変もある。それは変化だ。けれど、変化の中にもやはり、変わらないままのものも、あるのだろう。
 その様子を見据えながら、エリスはぽつりと言葉を告げる。
「またくれるんだ?」
「思った以上に似合いましたからね、これ」
 青いバンダナでエリスの頭を覆い、カイリはぽんと軽く叩いてきた。
「気が引き締まるでしょう?」
「うん、ありがと」
 一年前、同じように旅立った時にもらったバンダナは、既にぼろぼろになっていた。カイリはその代わりとなる、やはり同じ青いバンダナをくれたのだ。
「あれから、一年ですか」
「そだね」
「色々あったんですよね?」
「――うん」
 瞳を閉じて、頷く。色々あった。あの家出の最中も、その後も。けれどまだ、一年だ。
 ――と、今度は左の頬に感触を覚え、目を開いた。
「どうしたんですか、この傷は」
「ああ、これ?」
 左唇の端に、切った痕があるのを思い出してエリスは軽く苦笑した。
「お父様に、ちょっとね」
「……エリス」
「怒らないでよ。でも、ちゃんと許可は得たよ」
「許可……ですか」
 苦虫を噛み潰したような表情のカイリに、微笑んでみせる。左唇の端にある痛みは、ほとんど気にならない。人差し指でかるく傷を撫でた。
「今度は家出じゃないってこと。あたしは、エリス・マグナータのままでいていいってね」
「だからって……やはり、僕はマグナータ様は好きになれません。エリスはいつもこんな怪我をして」
 いつも、といったところで、この一年はほとんどなかった。カイリが指しているのは子供の頃の話だ。
「お父様はね、たぶん――弱いんだよ」
「……?」
 春先の、柔らかい水色の空を見上げながら呟く。
「弱いから、怖がってたんだと思う。自分の娘が、よく判らなくてさ。ただ、それだけの人間なんだよ」
「……そう、ですか」
「でも、送り出してくれたから。行って来いって、そう仰ってくださったの。あたしはやっぱり、まだお父様を完全に許せるわけでもないし、やっぱり怖いけど。でもいつか――いつになるか、判らないけど。判り合えると、いいなって。そう思う」
 怖いのは、仕方ないし。
 口中で、呟く。
(あたしだって、怖いし。それは、仕方ない)
 諦めるわけでもない。ただ、事実として――自分の能力にはやはり恐怖を覚えさえする。それは負の感情を強く持てば、ともすれば周りを自分の意思で壊しかねないということだ。恐怖を覚えないでいろというほうが、無理だろう。
 それはやはり、鎖であり、重りでもある。
 けれど――それを排除すべきでは、ないのだ。その事もまた、判っていた。
 逃げるわけでもなく、ただ、許容して付き合っていくだけだ。それが自分自身だと言うなら、それを認めるだけだ。
 一年前とは、やはり違う。自由という言葉にだけ縋り、重りを捨てて――捨てようとして逃げ出したあの夜とは違う。
 全てを抱えて、そこから始めるために、住み慣れた街を出る。それだけだ。
 エリスの言葉を、この友人はどこまで感じ取ったのかは判らない。
 カイリは何も言わずに、ぽんとエリスの頭を撫でた。
「ちょっと、遅いわよパズー! そういう美的センス欠片もない服を選んでる暇があるなら、もうちょっと早く歩く訓練でもしたら?」
「ひ、ひどいよそれは。アンジェラ。この服はお気に入りで――」
 と――唐突に騒がしさが空気に混じる。
 広場の入り口から、二人の男女が入ってきたところだった。なにやらよく判らない掛け合いをしながら、騒がしく。
 長いウェーブの黒髪を朝の清涼な風になびかせ、すたすたと歩いてくる少女。その後ろを悲鳴のような息を上げながら追い縋ってくる、どことなく気障ったらしい洋服に身を包んだ少年。
 二人の姿を見つけ、エリスは大きく手を振った。立ち上がる。
「アンジェラ、パズー!」
 二人は言いあいをやめ、笑顔を浮かべてこちらに駆けてきた。アンジェラの荷物は、なぜかパズーが抱えている。
 すぐ手前で足を止めたアンジェラの笑顔は、この一年でまた綺麗になったようにも思う。一年前はどこか愛らしさが先に立っていたが、美しさも入り始めたのだ。伸び始めた身長も、手足の長さもそれに輪をかけている。
 最も――
(そんな事、絶対、口が裂けても、アンジェラには言わないけど)
 内心で断言して、エリスは肩を竦めた。
「おっそいよ、アンジェラ」
「パズーに言ってよ。荷物持ちはこいつだったんだから」
「は……走らないでよ……君は、手ぶらだけど、僕はこれだけ荷物を抱えて……」
「言い訳は男らしくないわよ、パズー」
 ぴしゃりと告げるアンジェラに、パズーがうな垂れた。それを見て、エリスとカイリは声を上げて笑う。
「出発、ですか」
「そうだね」
 カイリに頷くと、息を切らしていたパズーが顔を上げた。
 柔らかく、笑ってくる。
「今度はちゃんと教えてくれて、嬉しいよ。エリス、アンジェラ」
「……うん」
「気をつけて」
 右手を差し出され、エリスはパズーの手を握り返した。アンジェラもまた、握手を交わす。
 カイリも同じように微笑んで、手を差し伸べてくる。その手を握り返し、笑った。
「いってらっしゃい。たまには――戻ってきてくださいね」
「うん。いってきます」
 手を放し、今度はアンジェラと繋ぎあう。アンジェラはパズーから荷物を受け取り、にっこりと笑ってみせた。
「それじゃ、行きましょうか、エリス」
「うん」
 頷き、歩き出す。――と、エリスは足を止めた。
 その赤い瞳に映ったものに、驚きを隠せなくて息を呑む。
「あ、ちょうどタイミングいいわねー」
 弾んだアンジェラの声に、エリスは思わず口をぱくぱくとさせた。
 アグライア・カンポの入り口に、三人の人影があった。
 銀色の髪の、美しい少女。
 褐色の肌の、大男。
 そして――碧色の瞳を持った、少年。
「――エリスちゃん! アンジェラちゃん!」
 ゲイルは、柔らかな笑顔でそう、叫んできた。
「エリス! アンジェラ!」
「おっそいぞー」
 ミユナが、ジークが、口々にそう言って笑っている。
 笑って、こちらに手を振っている。
「アンジェラ……!」
 慌てて振り向くと、手を繋ぎあったままの親友は、いたずらっぽく片目を瞑って来た。
「あんたには内緒で、こっそり手回ししてたのよ。どうせ旅立つなら、二人よりみんな一緒がいいじゃない?」
 その言葉に、思わず笑いがこみ上げてくる。
 アンジェラの手を強く握り返し、エリスは一度背後を振り返った。
 春の陽射しを浴びて輝く、セイドゥール・シティを見つめて。
 二人の友人が、手を振った。
「いってらっしゃい、エリス、アンジェラ!」
「精一杯、がんばってきてください!」
 アンジェラと手を握り合ったまま、エリスは破顔して、大きく手を振り返す。
「行ってきます!」」
 親友のアメジストの瞳を除き返し、笑いあった。
「ったく、よくやるよ、アンジェラ」
「でしょ? 褒めなさいね?」
「ばーかっ」
 軽口を交し合い、エリスはアンジェラの手を引いた。
 煉瓦の地面を、蹴る。
 住み慣れた街から、新しい世界へと飛び出すために。

「行こっ、アンジェラ!」
「――うん!」

 二人の少女は、仲間のもとへと駆け出した。
 青空の中、彼女たちは柔らかく、力強く、輝いていた。


紅月<ローズ・ムーン>は女神の祈り
 ――終――

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