好きと夕立と歩道橋


 それは、夏休みのある日のことだ。
『チイー、デートしよーっ!』
 電話口から飛び出してきた突拍子もない発言に、あたしは耳を劈かれ、静かに無言でプチリと通話を終えた。
 ……しまった。条件反射で切ってしまった。
 すっかり無言になった電話を見つめて、軽く後悔。いやだって。あの発言はイコールバ会長――いや一応彼氏さんなんだけど――としか思えなくて、今はあの人の電話には出たくなくて、咄嗟に切ってしまったわけだけど。
 親指で履歴を呼び出す。着信履歴。――ユキ。バ会長じゃない。ユキ。あたしの友人の名前。
 と、考えていると携帯電話が音楽を奏でる。この八月に、全く似つかわしくないメロディ。

 ♪ ゆぅきぃや こんこん あぁられぇや こんこん―― ♪

「……はい」
『うわああんっ、チイのバカーっ!』
 電話口からの叫び声に鼓膜が破れかけて、あたしはもう一度、今度は自分の意思で電話を切ってやろうかと本気で考えた。
 ――あー、うるさい。

 ◇

 あたし、木戸知里。通称チイ。二年三組。生徒会副会長。
 本日の使命。
 騒がし小娘ユキの相手をすること。

 ……頭が痛い。

 ◇

「えーっ、バ会長と間違えたぁ!?」
 それから一時間後。結局呼び出されたあたしは、いつもの駅でユキと向かい合っていた。
 学校は割りと辺鄙なところにある上、県内全域から生徒が登校してきているので、あたしとユキも住んでいる場所は意外と遠い。ただ、通学の乗り換え主要駅であるこの場所は、普段学校があるときも主に使うあたしたちのホーム・ステーションだった。
 ユキは高校に入ってすぐに仲良くなった子で、身長はクラスでもかなり小さいほうだ。そのくせ、めちゃくちゃ騒がしい。学校で何かお祭り騒ぎがあったら、その中心には必ずと言っていいほどいる子だ。対してあたしは、どちらかというとそういう騒ぎとはいつも無縁の場所にいる。学校行事なら仕事としてやるけど、そうじゃないときは大体外から見てる。クラスメイトも大半、木戸さんはクールで大人びて、なんていう。まぁ別に、それはそれでいいのだけれど、ユキは何故かそんなあたしになついてくれていた。
 今も周りの通行人が振り返るくらいでっかい声で叫んで、あたしをまじまじと凝視している。
「……チイ、耳、イカレた?」
「あんたの脳みそよりはマシ」
「チイむかつく」
「そりゃどーも。大体いつもメールなのになんで今日に限って電話なんだか」
「チイの声聞きたかっただけなのにぃ」
 ぷくうと膨れ上がるユキの頬を軽く叩いて歩き出す。特に目的地なんて決めてないけど、まぁふらふらショッピングして回って、疲れたらお茶でもすればいい。
 歩き出すあたしの後ろをユキが追ってくる。足は止めないで、けれど少しだけ歩くスピードを遅くして、ユキが追いついてくるのを待つ。追いついてきたユキがあたしの服の裾をそっと掴んだ。その姿が、店のウィンドウに映っていて、あたしは思わず小さく笑う。
 ――迷子の子供じゃないんだからさあ。
 ユキは可愛い。小さいし明るいし、服も華やかなピンクやらオレンジやらの女の子らしい色が似合うし、好んで着ている。今日も鮮やかなピンクのマリンカラーシャツに、オフホワイトフリルつきのデニムのミニスカート、リボンモチーフのカチューシャと、まかり間違ってもあたしがしない格好をしている。対してあたしは身長もあるし、服のセンスも味気ない。襟ぐりの明いた青のストライプシャツに、スキニージーンズ。残念ながら、女の子らしさは窺えない。確かにこれだと、デートだよなぁ。
「何笑ってんのー?」
「いや。ユキが子供みたいに見えるなぁって」
「子供って言うな!?」
 かみつくように叫ぶユキをいなして、あたしは駅構外へと足を踏み出した。
 真っ青な夏空が、目に飛び込んでくる。
 ――いい天気だな。


 ◇


 ファッションセンスも小物のセンスも、音楽も本の好みまでも、あたしとユキとは被らない。
 それでも、その駅周辺のショッピング施設はとりあえず一通り回ってみる。
 ラバーズハウスのラブリーさにあたしはちょっぴりくらくらして、ユキはきらきら服を選んで、コムサであたしは満足し、ユキはもっと可愛くていいのにと呟き、リズリサを覗いてこれは違うなと二人で出てくる。
 CDショップに入ったら、あたしは真っ直ぐ洋楽の棚に行き、ユキはJ-Popに走ってく。本屋ではあたしは翻訳小説の棚の前で足を止め、ユキは児童文学の棚で足を止める。マザーグースの森で可愛い小物を物色するユキの後ろをあたしはのんびりついていき、無印良品でユキはあたしの後ろをちょこまかついて回る。その度に、これいいんだよ、とか、似合うから着てみたら、とか。ちょっとずつちょっとずつ、世界を広げて行ったりする。あたしもユキも、たぶん一人で来ていたら絶対入らない類の店に足を踏み入れるから、それが妙に刺激になる。
 きっとこの感覚は、男子には判らないものなんだろうと思う。実際、時々買い物に付き合ってもらうことはあるけれど、たいてい奴は首を捻ってばかりだし。
 唯一ふたりの意見が『これ良い』と一致した和柄のストラップをお揃いで買って、あたしたちはスタバのキャラメルラテとカプチーノを手に歩道橋へと足を向けた。


 ◇


「ふにょーっ、疲れた!」
「ねー」
 駅施設と、その向かいのショッピング施設を結ぶ歩道橋の上は、いつだって盛況だ。手作りの小物や手書きのイラストを広げて売っている学生風の人たちに、ギターを弾いている人たち。そしてひっきりなしに行き交う通行人たち。さんさんと太陽が降り注いで、街中のせいでアスファルトの照り返しもあってひたすら暑く、なのに日陰は駅施設の影のみという悪条件でも、歩道橋は今日も盛況だ。クラクションと、話し声と、車の走行音と、ギターの音、ざわめきが満ちているその中で、あたしとユキがわざわざ歩道橋で足を止めたのは、何も好き好んでってワケじゃない。出来るなら、あたしたちもクーラーの利いた喫茶店でお茶でもしたかった。この辺りは良く使うだけあって、お気にの喫茶店も数店舗ある。なのにどういうことか、今日はどこもかしこも満席だったのだ。その上近くの公園も人が多くてベンチもない。カラオケ、という手もあるにはあるけど、あたしたちはあんまりカラオケが好きじゃなくていつも立ち寄らない。結局、こうして行き場をなくしたあたしたちは歩道橋の手すりにもたれてぐったりとするしかなかったわけだ。
「なぁーんでー、アンリもポポロもアフタヌーンティーもルピシエもスタバもドトールもエクセルシオールも満席なーのー!?」
「さあ。暑いから回転悪いんじゃない?」
「うーわーんー、アンリのショートケーキ食べたかったようぅぅっ、ごろごろイチゴー! アフタヌーンティーのスコーンでもいいーっ」
「ユキちゃんや。チイ先生のありがたい教え、聞く?」
「いらない」
「諦めろ」
「いらないって言ってるじゃんっ!」
 拗ねるユキの横顔に、あたしは思いっきり笑う。ユキは一度軽くあたしを叩いてきてから、ずるるとさらに手すりに身をもたせかけ、歩道橋から外を眺める。あたしは逆に手すりに背を預けて、行きかう通行人をぼんやり眺める。
 暑い。でも、まぁ、たまにはありだ。
 カレンダーでは今日は平日だ。それでも、夏休みにはあんまり関係ない。もともと、この駅周辺のショッピング施設を利用するのは学生が大半で、小中高大と殆ど休みのこの時期に、平日も休日もあったもんじゃない。つまり、混んでる。
 真っ青な空に、むくむくとした白い雲が浮かんでいる。下のほうはうっすら黒い積乱雲。もしかしたら夕立でも来るのかもしれない。その空に浮かぶような歩道橋を、通行人はひっきりなしに横切っていく。
 カプチーノを口に含んで、ぼんやり空を仰ぐ。いい天気。いい眺め。夏は、嫌いじゃない。一番好きな季節は秋だけど、夏はその前にやってくるわくわくする季節だ。つん、と鼻にくる夕立の匂いとか、バカみたいに眩しい陽射しとか、ぶっちゃけあたしに似合うとは思ってないけれど、それでもやっぱり好きだ。夏が似合うのは、あたしよりはユキだろうけれど。
「そ言えばチイ、課題どう? 進んでるー?」
「んにゃ。夏休み中に終わる気がしねぇ」
「あたしもだよう」
「んー? 食物も課題あんのか」
「ってか、開けてすぐテスト。オムレツ。練習しまくりだけど上手くいってる気がしない」
「……一学期はかつらむきで苦労してたのにね、あんた」
 ぼんやりしながらくだらない話をする。大体は、学校の話題。あとは恋愛話とか、友だちの話とか。だけど、今日に限って前者は自分から振ることはないだろう。普段から振ってくるのはどっちかって言えばユキが多いけど、今日に限ってはきっとそれもない。
「そうだ。来週、あやたちと海の辺りまで撮影で行こうって話あんだけどさ、あんた一緒に行く?」
「行く! お手伝いお手伝いっ。誰くんの?」
「今んとこ、あやとあたしと梨花と佳代。浅木とかも呼ぶかもだけど未定」
「おっけおっけー! にぎやかそうー!」
「あんたが来たらなおさらね」
 いつもどおりの、いつもの会話。ただ、少し、ほんの少し、違う。それはたぶん、あたしだけじゃなくてユキも感じているはずだ。学校の話はするけれど、なんだかいつもと違って上滑ってる気がする。だから、だろうか。ほんの一瞬、二人同時に口を閉ざして、妙な沈黙に包まれた。
 ざわめきは、やまない。夏空の下の歩道橋に、沈黙が落ちることはない。落ちたのは超局地的、あたしとユキの間にだけ。それは、ざわめきをやませるほどの力はない。ふっと、太陽が一瞬雲の陰に入って、光が強さを失くす。そう思った数瞬あとには、また眩しさが蘇る。同時に、ユキが笑って呟いた。
「チイ、いいなぁ」
 ――?
 唐突な言葉。あたしはぼんやりユキを見下ろす。ふわりとしたセミロングの髪。アクセントにつけているリボンモチーフの赤と白の水玉カチューシャがやけに可愛い。
 ユキはあたしの視線には気付いているはずだけれど、こっちは見ずに、ただぼんやりと歩道橋から外を眺めていた。
「ユキ?」
「チイ、大人っぽいし、身長あるし、足長いし、うらやましい」
 ……らしくない。
 確かにあたしたちは、正反対だ。身長も、好きなものも、周りからの評価も。背が高くて、大人っぽいとよく言われて、シンプルなものを好むあたしと、背が低くて、妹みたいとよく言われて、可愛らしいものを好むユキ。互いが互いにコンプレックスを抱いているのなんて、百も承知だ。あたしだってたまにはユキみたいに可愛らしいと言われてみたい気もするし、多分ユキもそうなんだろう。身長ひとつとったって、あたしはあんまりヒールの高い靴は選ばない。ただでさえ男子と目線が同じなのに、それ以上高くなる気になれないからだ。逆にユキはパンツをあまり履かない。身長に合うサイズとデザインのパンツは、あんまり見つからないんだ、といつだったか言っていた。
 あたしたちは、互いにコンプレックスを抱いている。判っている。小学生じゃないし、その辺のことは判ってて、受け入れていて、だから一緒にいて楽しく過ごしていられる。違うからこそ、逆に気楽でいられるくらいだ。
 ただ、暗黙のルールがある。コンプレックスを抱いていることを、おふざけでならともかく真剣に言うのはタブーだ。それは、うっかりすれば相手を傷つけかねないと、お互いに判っているから。
 自分が望むものを、相手は疎んでいるのかもしれないんだから。
 正直、ユキは子供っぽい。いつも騒がしいし、じっとしてらんないし、小学生かと怒鳴りたくなることもある。だけど、子供じゃない。ユキの目は、きちんとあたしと同じ高校二年生の目をしていて、もしかしたらあたし以上に、相手のことをすっと見抜く。だから、暗黙のルールを破るなんてこと、今までなかったのに。
 ――らしくない。
 少しだけ淋しそうな横顔。そっとキャラメルラテをすするその顔を軽く眺めて、あたしは視線を空へとやった。膨れ上がった積乱雲は、きっともうすぐここまで来て、スコールみたいな雨を降らせるんだろう。風に湿気が強く感じられて、肌がべたべたした。
 一口、カプチーノをまたすすって、あたしはそっと唇を開いた。
「何があった?」
「……あったこと、前提?」
「そりゃね。違うとは言わせない」
「チイ、鋭いなぁ」
 あはは、とユキが乾いた笑いを漏らす。
「あんたが判りやすすぎんの」
「むー。失言」
「の、前からね」
「ふへ?」
 きょとんとした視線を感じて、あたしはユキを見下ろした。唇の端だけで、にやりと笑う。
「電話、かけてきたときからなんか変だとは思ってたさ」
「……なんで」
「あんた、基本電話嫌いじゃん」
「う……」
「いつもメールで済ますのに、わざわざあたしの声が聞きたいからって電話はねー。ヘルプコールにしか思えませんがね、ユキさん?」
「……チイさん、鋭すぎ。降参」
 べちゃ、とユキが手すりに突っ伏した。しばらく、またお互い無言になった。促したところで意味はないし、無理やり聞きたいとも思わない。何かあったら話してよ――なんて、嘘っぽい友情ドラマみたいな台詞は、あたしたちには似つかわしくない。味気ないとか、冷たいとか、そう言われるかもしれないけれど、これがあたしたちのあたしたちらしい距離だ。
 言いたいことがあるなら聞く。
 言いたくないことがあるなら聞かない。
 たぶんそれで、いい。
 今回はユキは前者だったらしく、しばらく無言の時間を過ごしたあと、ぼそりと小さく呟いた。
「ダンナがね」
 ダンナ――それは、ユキの好きな人のあだ名だ。ユキは高校に上がってすぐの頃からずっと、クラスメイトのダンナこと柳慎吾を好きでいる。
 ユキと似たり寄ったりの騒がし人間で、クラスの男子の中心的存在。お祭り小娘ユキの男版といったらしっくりくる。実際、ダンナも背は低くて、あたしより小さい。ものすごくぶっちゃけてしまえば、あたしはあれのどこがいいのかさっぱり判らんのだが、まぁ、恋愛ってそんなもんなんだろう。ユキは、彼が好きだ。
 ダンナと、喧嘩でもしたかな。
 ユキとダンナは仲がいい。おふざけの夫婦漫才ちっくな喧嘩なら日常茶飯事――っていうか我がクラスの名物――だけど、もしかしたら本気の喧嘩でもしたのかもしれない。
 無言で一口カプチーノをすすり、あたしはユキの次の言葉を待つ。
 しばらくユキは躊躇ったあと、はあっとため息と同時に不機嫌そうな声で吐き捨てた。
「今日デートだってさ」
 思わずカプチーノ吹き出しそうになった。
「はあっ!?」
「デートだって、おでえとっ。けーっ、勝手にしやがれってんだーっ」
「ちょっ、まっ、あいつ女いたの!? そんな物好きユキ以外にいたのか!」
「はっ!? ちょっとチイ聞き捨てならないんですけどそれっ!?」
「事実だろうあんな小学生男子みたいなのを何で好きになるひとがそうごろごろしているんだこの世の中なんか間違ってるってかまかり間違ってもあたしはあれは恋愛対象にはならんけどなあ!?」
「チイっ!」
 がすっ、と肩に頭突きが入った。痛い。……ちっこいやつの対抗手段って、何でどいつもこいつも頭突きなんだろうか……。
「……あー、いってぇ」
「チイがひどいからっ」
「判った、悪かった。あんまりに意外だったから……ごめん。……で、あんた落ちてたわけか」
「落ちてるってか……なんか、ムカついてる」
「そりゃまた……」
 何故悲しむじゃなくてムカつくになるのかはよく判んないけれど、あれだけ仲いいとそうなるものなんだろうか。
「相手は?」
「んー……中学時代の先輩だって。二個上」
「年上!? 二個上って、大学生!? さらにありえんのですけどっ!?」
「チイさっきからダンナに失礼!?」
 率直な感想だ。
 ユキはしばらくぷくーと膨れた顔であたしを睨んだ後、また大きくため息をついた。
「ダンナ、年上がタイプなのかな」
「あー……そゆことか」
 なるほど。それなら、判る。ユキのあの突拍子もない『いいなぁ』発言。あたしを羨んでの発言は、一緒に歩いていて、同い年なのに姉妹に見られてしまうあたしに対してのコンプレックス。そのコンプレックスの出所は、単純に、好きな人に、好かれたいから。
 あたしはふっと小さく笑って、空を見上げる。
 似てるな、と思う。
 真夏の青空は、ぱっと鮮やかで真っ青で気持ちがいい中に、白いわたあめみたいなわくわくする雲が浮かんでいる。けれどぷくぷくに膨れ上がった『わくわく』は、下のほうに黒いものを抱えていて、何かのきっかけではじけると、雷を伴う雨に――『涙』とかになる。移ろいやすくて、読みにくい。夏の、不安定な空。それは不思議と、あたしたちの今に、似ている気がする。
「上手く言えんけどさ」
 前置きして、あたしは空を眺めながら呟く。
「あんたが今から毎日牛乳三リットル飲んだところで、縦じゃなくて横に大きくなるだけだろうし、今更あたしがフリルのスカートとか履いたところで皆が引くだけだと思うわけですよ」
「……うん」
「どうしようもないこと、だわなぁ」
「……そだね」
 力なく、ユキが頷く。その声を聞いて、あたしは囁く。
「どうすんの。諦めんの?」
「……なきゃって、思うけど」
 曖昧に、呟いて。それからユキは、か細い声で呻いた。
「上手くいく気、しないんだよね」
「オムレツみたいに?」
「うん。自分で思ってるように、気持ちも手もついていかないし、形も綺麗にさだまりゃしない。ホントはさ、ダンナの好きな人とのデートなんだから、応援してあげられたら、かっこいい女なんだろうけど」
「無理だろ」
「そう思う?」
「そんな奇麗事。あたしらには演じきれないと思うよ。実像がなくて、曖昧で、嘘っぱちの世界みたい。いいかいユキさんや。あたしらに虹の橋は渡れんのですよ。せいぜい、こうして歩道橋を渡れるくらいでね」
「チイ、変」
 あはははっ、とユキが声を上げて笑う。その声を肌で感じて、あたしはくるりと振り返った。ユキと並んで、ユキと同じ方向を見て、微笑んでみせる。
「好きは、形決まってないし、テストないし。自由でいいんじゃん?」
「チイって言うこと、時々難しいよね」
「そうでもないと思うけど。ようは狙い続ける好きか、諦める好きか、諦めようとする好きか、応援に回る好きか、友達の好きに落としてみるか、ってことくらいじゃん? どれ選んでも、ユキの『好き』に不正解はないだろうし、誰もバッテンつけないし。あんたが何を選ぼうが、あんたの自由っしょ? あんたなりの好きを、とことん貫いてみりゃいいんじゃない?」
 あたしたちの『今』は不安定で、曖昧だから。今日の好きが明日は嫌いになっていてもおかしくない。だから、わざわざ最初から虹を目指さなくても、歩道橋のコンクリートの橋でだって、かまやしないのだ。夕立の後に架かるのは、虹じゃなくて歩道橋でも、別に誰がとがめるもんか。
 あたしの適当な言葉に、ユキは少しまた笑って、それから、そうだね、とだけ呟いた。
 ユキが、ユキの中で、結局どういう結論を選ぶのかは、あたしは知らない。知らないけど、それでいい。言いたくなったら、また、言ってくれるはずだから。
「チイ」
「ん?」
「すっきりした。ありがと」
「あいよ」
 軽く笑って、ユキの頭を叩く。ざわめきと夏の陽射しの中で、たぶん、あたしたちのこの会話とこの時間は、途切れて誰にも届かなくて、風に乗って消えてしまって、だから、大切なんだろう。
 しばらくまた無言になって、あたしたちはお互いにカップに残ったキャラメルラテとカプチーノをかたむけて――最後の一口を飲み干したとき、そっとユキが小さな唇を開いた。
「で、そっちは何があったの?」


 ◇


 形勢逆転――だろうか。
 にっと笑うユキの顔を数秒見つめて、それからあたしは空を仰いだ。吹き出る汗を一度拭い、いよいよ夕立の気配を帯びて暗くなり始めた夏空を見やる。
「バレバレ?」
「バレバレ」
「……いつから」
「最初から。電話切ったときから」
 お互い様、だったらしい。
 自然と仏頂面になってしまう。空になったカップを指先で弄び、あたしははぁと息をついた。
 言いたくない、と言えばユキはそれ以上深入りしてこないのは判っている。ただ、あたしはやっぱりこのもやもやを吐き出す場所を求めていた。それは事実だった。小さく苦笑して、ユキの横顔を見つめた。
「何で気付いた?」
「あたしの電話、バ会長と間違えたんでしょ?」
「……? うん、まぁね」
「チイ、着メロ個人設定多いでしょ?」
「はぁ」
 漫画の探偵みたいに、ユキはくすくすと笑いながらひとつ、ひとつと指を立てていく。
「ってことは、個人設定の着メロを意識する間も、ディスプレイの発信者を見る間もなくチイは電話に出たわけだ」
「……」
「それってよっぽど電話を待ってたときじゃないとね、おかしいじゃん? ものすごく急いで出たわけだ。――電話の前で、張ってた?」
「……あの」
「ってことは、誰かからの電話を待ってたんだね」
「ユキさーん……」
 ぼそりと呻くと、ユキはふふっと微笑んだ。
「それが会長だとして。――普通彼氏からの電話で、デートしようって誘われて、思いっきり切るひとっていないと思うけどなぁ?」
 ぴっと、人差し指をあたしに向けて、ユキはそれこそ名探偵みたいににっこりとした。
「喧嘩、したんでしょ」
「……そのとおりです、名探偵」
 両手を上げ、あたしは苦笑して頷いた。


 ◇


 どうっでもいい事で彼氏であるバ会長こと本庄あきらと喧嘩したのは、実はユキからの電話の直前だった。
 ものすっごく腹たって全力で電話を切って、数分間、じっと携帯電話を睨んでた。謝ってくるか、まだ言い争いを続けるか、どっちでもいいけど、掛かってくる事を、願ってた。
 だから電話がなった瞬間何も確認せずに通話ボタンを押して、飛び出てきた台詞がいつものおふざけめいたお誘い言葉とそっくりで、ふざけんなてめぇ喧嘩中なの忘れてんのかこのやろうと、どうしようもない反射で通話を切ったのだ。
 今から考えれば、馬鹿馬鹿しくて仕方ない。バレバレで当たり前の行動だった。
 経緯を大雑把に話すと、ユキはくすくすと笑い声を上げた。
「理由は?」
「いや……どうでもいいこと」
 来週のデートの日にちの、互いの認識の食い違い。最初に約束したときに、どうも間違って認識してたらしい。今となってはどっちが間違ってたのか、確認する術はないけれど。
 ぶっちゃけひたすら、どうでもいいっちゃどうでもいい喧嘩の原因。
 あまりに恥ずかしくて言いたくないあたしの気持ちを汲み取ってか、ユキはそれ以上突っ込んでは来なかった。
 ふっと大きく息を吐いて顔を上げる。ふと、ざわめきが変化しているのに気がついて視線をずらした。歩道橋の上から、人が大分いなくなっていた。イラストを売っていたお姉さんも、店じまいを始めている。理由は、すぐに知れた。空がかなり暗くなってきていた。いよいよ、夕立がくるようだ。
「チイ、駅入ろ」
 ユキがそっとあたしの指に自分の指を絡めてきた。小さくて細い指を感じて、あたしは微笑む。
「だね」
 手を繋ぎながら、歩道橋を歩き出す。虹みたいに綺麗じゃない、ありふれたコンクリートの橋。
 駅コンコースへ続く階段を下りながら、ユキが小さく呟いた。
「チイ」
「ん?」
「好きな人が、好きになってくれることって、すごいことなんだよ」
「……うん」
 ユキはそれ以上何も言わない。あたしも、何も言わない。
 駅に入って、外を見ると、ぽつり、ぽつりと雨粒がアスファルトを叩いているのが見えた。見つめているうちに、雨は勢いを増していく。
 ざあ、ざあ、ざあ。降り続く。
 あたしたちの今みたいに、移ろいやすい夏の空。今日の好きが、明日も好きだとは限らない。ぱっと雷みたいに怒りに、嫌いに変わってもおかしくなくて、青だったのが真っ黒になったり赤くなったりして、全く読めない。だから、好きと好きが重なり合う瞬間は、ユキの言うとおり、きっとすごいことなんだろう。
 この夕立の後、何かが変わるとは思えない。
 虹が架かるのか、それとも相変わらず歩道橋だけが架かっているのか。それすらも、読めはしないけれど。
 たとえどっちだとしても、そこに正解はないから、それをあたしは知っているから。
 だから。
 この雨がやんだら、ポケットの携帯電話を取り出そう。
 ユキに一言、断りを入れて。
 発信履歴を呼び出して――
 あの番号にかけてみよう。

 奇跡みたいなこの夏を、あたしは夕立のまま、終わらせたくはないのだから。

 雨音に目を閉じて。
 手のひらに感じる小さな親友の優しさを受け止めて。
 あたしは小さく、微笑んだ。

――Fin.

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