フォトグラフ


 最後だから、言おうとおもったんだ。



 ローファーの底がリノリウムの床を鳴らす。
 いつもはあんなうるさい廊下なのに、今は誰もいない。
 かわりに、下のほうで泣き声やら、騒ぎ声やら、フラッシュの光やらが沢山あるみたいだ。
 でも、あいつはその中にはいない。
 しんと冷えた廊下の空気は、足に少し痛い。
 二階の廊下の、一番奥。三年一組の教室。あたしたちの教室。
 ……ただし、それも今日までだけれど。
 二組の教室の前まで来て、あたしは走るのをやめた。息を整えるようにゆっくり歩く。あいつにばれたくはない。あたしが探していたんじゃない。探していたのは、そう、男子だ。そういうことにしておこう。
 一組のドアの前で、一回深呼吸した。
 大丈夫だ。
 開ける。少し重たいこのドアも、今日が最後だ。
 ――いた。
 教室の一番後ろ。ドアから一番遠い場所。あいつは、いつもどおり小さな背中を丸めて机に座っていた。
「ああ、いたいた。ダンナ」
 あたしは笑って駆け寄った。ダンナ――当然あだ名だ。由来は『おっさんくさいから』――は、あたしの姿を見つけると、小さな目をきょとんと精一杯ひらいて見せてきた。
「何してんの?」
「それはこっちの台詞。何してんの? こんなだれもいない教室で」
 寂しい子みたいだよ、と、笑いながらダンナの隣に座る。
「んー。最後だから教室、目に入れとこうかなーって」
 ダンナのその言葉に、あたしは一瞬間の抜けた声をあげてから、教室を振り向いた。いつもはうるさい教室に、今は誰もいない。あたしと、ダンナだけ。
 それから、ダンナのほうをもう一度むき――あたしは思わず大声で笑ってしまった。ダンナの肩をぽんぽんと叩き、笑いをかみ殺しながら呟く。
「ダンナ。センチメンタリィなのはまぁいいとして。あんたの目はカメラじゃないよ?」
「るっさいなぁ。ユキはぁ」
 やや照れたような様子で、ダンナが手を振り払ってきた。センチメンタリィだな、ダンナは。なんだか、それが可愛いけれど。
「まぁ、気持ちは判るけどねー」
 ……最後だから、か。
 最後なんだ。本当に。まだよく判らないんだけれど。
 あたしはまた小さく笑いながら、ダンナから離れて立ち上がった。ゆっくりと教室を横断する。
 綺麗に整列された机とイス。展示物もたいがいはがされて、なんとなく殺風景だ。空気が冷たくて、下のほうからの騒ぎ声が、逆に静けさを増しているような気もする。
 黒板には、昨日の放課後にクラスの女の子たちが書いたらしい、でかでかとした文字が躍っている。
『ソツギョウ』とそれから、担任のあだ名と、そのまわりに小さく、たくさんのあだ名。クラスメイト全員分のあだ名。
『ダンナ』と『ユキ』が並んでいるのは、誰かが知ってて並べたのか、偶然なのか、まぁ多少気になるところではあったけれど。
「にしても、変な感じ」
「は? 何が?」
 思わず呟いたあたしの言葉に、ダンナが首をかしげる。ふと視線をダンナに戻すと、立ち上がって窓辺に移動していた。立っても、身長はほとんどあたしとかわらない。クラスの男子の中で一番小さいもんね、ダンナは。
 あたしは軽く笑って、教室を大きく手で示した。
「や、ほら。教室ってさー、いつもあんなにうるさいのに、今日って誰もいなくってしんとしてて、なんか、返ってそれがうるさいくらいで……」
 返ってそれがうるさいくらいで。
 うるさいくらいで……何、言おうとしたんだろう。あたし。
 何を言おうとしたのかな。
 いつもは……そう。いつもは、すんごいうるさい。お昼の時間とか、放送のスピーカーわざわざ切って、クラスの中でCDかけたりして、みんなすごい騒いでるし。授業中だって、全然静かにならないし。放課後だって、課題だのなんだので大抵みんな残ってたりして、静かになるときなんてほとんどないのに。
 そう言えば、文化祭の準備のときなんて、本当、おかしいくらいうるさかった。夜九時くらいまでみんなで残って、クラス展示用の旗を描いたり、展示物作ったり、教室を飾りつけたりして、異様にテンションあがっていた。
 お菓子とジュースを持ち込んで、茶話会と称した打ち上げもした。
 ああ、そうだ。ダンナそのとき調子にのって、お酒買おうとして、コンビニで止められてたんだよね。みんなで指差して笑ったんだ。制服でなにやってんだーってさ。
 ダンナは、いつもこのクラスのお祭り人間だ。
 ……ああ、そっか。明日になったら、お祭り人間だった、になっちゃうんだ。
 いつもうるさい教室も……本当に、今日が最後なのかな。
 いつも、CDが流れてたり、誰かがはしゃいでたり……喧嘩も、したけど。騒がしくて。
 楽しくて。
 たぶん、あたしの高校の思い出は、騒がしいって言うのがほとんどで、その大部分が、教室で起こったことで。
 だから教室って、うるさいイメージなのに。何でだろうな。
 今はダンナとあたしだけで、すごく……静かで。
 静かすぎて。
「……ヘンなの」
 思わず、ぽつりと呟きが漏れた。ああ、ダンナに聞こえてなけりゃいいけど。こんな発言、あたしらしくないや。
 ダンナが、何かつっこんでくれるかな、なんてどこかでこっそり期待したけれど、やっぱり聞こえなかったみたいで、ダンナは何も言わなかった。
 ああ、静かすぎていやだな。
 なんだか空気が重過ぎて、あたしは無理やり笑ってダンナに近寄った。
「でも、いいな!」
「は?」
「ダンナの、そのカメラだよ」
 ぴっと、ダンナの目を指差してみる。ダンナの薄茶色の目の中に自分が映っていた。
 ダンナは、今あたしを見てくれている。
 それが、嬉しかった。
 本当、カメラだったらいいのに。今のあたしを覚えていてくれたらいいのに。ダンナの記憶の中で、ずっと生き続けていられたらいいのに。
 深緑の制服。白いシャツとセーター。真っ赤な紐リボン。セミロングのあたしの姿。
 ねぇ、ダンナ。忘れないでよ。いつもダンナってば、いろいろ忘れ物するから、ちょっと心配だよ。
 ダンナは少しだけ笑って、あたしの頭をこつんって小突いた。
「お前ってば強烈だから、忘れようにも忘れられないんだけど」
「あれ、そう? そりゃごめんねー。ダンナの貴重な脳内記憶容量、削っちゃったね」
「てめっ、このっ、ユキ!」
 ダンナが笑いながらあたしの首に手を回して、ヘッドロックをかけた。全然痛くないけれど、でも、体じゃないどこかがすごくきゅうって痛んだ。
 けらけら笑って、ダンナの手から逃れようと身をよじる。ホントは、ずっとこのままでいたいな、なんて思ったけれど。
 本当は……ずっと、このままでいたいよ。
 時間が止まればいいのに。そんなの無理だってことくらい判ってるよ。そんなに子供じゃないよ。もう子供じゃいられないよ。判っている。でも。
 言わなきゃ、って思った。
 言わなきゃって。言おうと思って、ここまで来たんだ。
 明日になっちゃえば、もうダンナと会うためには何か口実を作らなきゃならなくなる。
 今日が最後だ。
 でも。
 でも、もし、ごめんって言われたら?
「あはははっ、やめやめーっ! ダンナってば、調子乗りすぎーぃっ!」
「そりゃこっちの台詞だ! ユキっ」
 ダンナは、ぜぃぜぃと息を切らしている。制服のネクタイ、わざわざ緩めて。その仕草が、なんと言うか本当に『お父さん』。……ダンナ、あんまり体力ないからなぁ。
「……おじさん」
「おいちゃんはもう若くありませんよユキちゃん。手加減しておくんな」
「なにそれー」
 その物言いに、また笑い声を上げる。
 ああ、どうしよう。ごめんって言われたら、どうすればいいの?
 ダンナの、ダンナのカメラに映るあたしが、そんな悲しい思い出になっちゃうの?
 そんなのは、いやだよ。
 ダンナの記憶の中に残るあたしは、こうやってふざけあって笑っているあたしでありたいよ。楽しい思い出になりたいよ、せめて。
 だったら……
「あー、でも、ほんとに。ずっと記憶にとどめていられたらいいよね」
「ユキこそ、物言いがおばさん化してるぞー」
「るっさいなぁ」
 小さく悪態を付いて、くるりと背を向ける。
 静かな教室。ダンナと二人っきりの教室。ああ、そういえば、こんなこと初めてだね。
 じっと、その教室を見た。見納めって奴になるのかな。
 実感は沸かない。なんだか、明日もおんなじ時間に起きて、おんなじ時間の電車にのって、いつも通りに登校しちゃいそう。
 そんで、この教室はいつもみたいに騒がしくなる。いつもみたいに、ダンナとふざけあって……
 ……やっぱ、そうだよ。言わないほうがいいよ。
 言って、ダンナのなかの記憶が歪んじゃったらどうするの?
 ダンナのカメラに映るあたしが、惨めな顔になったらどうするの?
 そんなのは嫌だ。耐えられない。
 だったら、自分の気持ちなんて飲み込んじゃったほうがずっとましだ。
 そうすれば、せめて、ダンナのなかの『ユキ』は、馬鹿笑いの、笑顔の『ユキ』でいられるんだから。
「ユキ?」
 ダンナの後ろからの声に、あたしはぎゅって唇を噛んだ。
 笑わなきゃ。
 ダンナのカメラに映る、最後のあたしを、綺麗に見せたい。少しでいいから綺麗に見せたい。
 この寂しい教室の中でも、いつも通りの騒がしさを、ダンナのカメラに残しておきたい。
 ローファーのつま先が、くるんって床で滑った。スカートを翻して、ダンナに向き直る。
 ダンナのカメラに、あたしが映っていた。
 笑え、ユキ。
 今自分にできる精一杯の顔で、笑おう。
「じゃあ、あたしもう行くね」
 ダンナの顔に、少しだけ寂しそうな色がさした。そう見えたのは、あたしのおごりかな。いいや、それでも。それくらい自意識過剰でも、いいよね。
 ダンナの後ろで、青空が眩しい。
 四角く窓枠に切り取られた青空が、きらきら太陽を包み込んで輝いている。
 ぴっとあたしは敬礼みたいに指をそろえて、こめかみに当てた。
 きらきら眩しい太陽光の中で、ダンナが笑った。
 ああ、すごくいいアングル。あたしの目も、カメラになるかな。今の笑った顔、ずっと覚えていよう。ずっと、ずっと。
 おんなじように、ダンナがあたしの事を覚えていてくれるかどうかは、賭けでしかないけど。
 笑おう。
 精一杯の、今のあたしの、最高の笑顔を見せよう。
「グッバイ!」
 笑った。
 ダンナも、あたしも、二人だけの教室で、笑った。
「マイ・ベスト・フレンド!」
 ――最高の『友達』。
 言ってから、あたしはダンナに背を向けて、静かな教室を飛び出した。
 廊下に出ると、しんと静まり返った空気があたしを出迎えてくれた。
 笑えたよね。
 笑えたよね、あたし。
 ダンナのカメラに、一番の笑顔、残してこれたよね。
 頬に伝うしずく、見られてないよね。
 結局『友達』以上にはなれなかったけれど、でも、いいよね。
 一度まぶたを閉じてみた。ああ、ちゃんと映っているよ。ダンナの笑顔。
 それから、あたしは顔を上げた。
 だれもいない、寂しい廊下。
 冷たい空気。
 でも、あたしのカメラに映っているのは、いつも通りの騒がしい廊下でいい。騒がしい学校でいい。
 だから、フィルムに上書きされる前に、あたしは廊下を駆け出した。


 ――グッバイ マイ・ベスト・フレンド!


――Fin


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